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どこでどう転んでも

4月3日(水)


 管長様が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちは、どこでどう転んでも不可思議ないのち、仏心をいただいている。

どこでどういても、そのまま解脱・悟りの姿に他ならない。しかし、そのことに

気づかずに外に向かって求めてしまう。それが迷いのおおもとであると

臨済禅師は繰り返し説いています。


 私たちが眼に触れるものはみな真理をありのままに表しています。みな

私たちにいのちの尊さ、すばらしさです。


 松尾芭蕉に次の俳句があります。

{このあたり 目に見ゆるものは 皆涼し}

目に触れるものはみな仏心そのものなのです。


 私たちは普通、外に見える木や花と私たちのいのちが相隔たったもの

別もののように見てしまう。しかし、このいのちの世界や意識・心の底を

深く究明していくと、気づくところはいのちは一枚であるという

ことです。


 私たちのいのちも花や鳥など動植物のいのちも別ではない、切り離して

考えることはできない。いのちというものはみんなつながりあっている。

もっと深く見ると一枚のいのちをこうして生きているのです。


 浄土宗・西山上人の歌に

{南無阿弥陀仏 ほとけの御名と思いしに 唱うる人の姿けり}

というものがあります。仏様のお名前だと思って一生懸命唱えて

いたけれどその唱えている姿が阿弥陀様であったという歌です。


 その仏様を手を合わせて拝んでいるその人の心こそが阿弥陀様の

心そのものなのです。阿弥陀様の心と私たちの心は、一枚に続き

あっている、決して隔たりはないのです。


 お浄土もよそやどこか遠くにあるように思うが、決してそうではない。

どこでどう転んでもそこが安心のところです。


 白隠禅師坐禅和讃の通りです。

「当処すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり」です。


 みんな尊い仏様のいのちをいただいてこの仮の宿に生まれて

きている。仏教は、その仏様のいのちに目覚める教えであります。

blog-DSC01239.jpg

井戸 <僧堂> 現役です!




 
 




 

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