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鎌倉淡青会公開セミナー開講

7月30日(火)


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<正伝庵・蓮>

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 今日は午前中、円覚寺・信徒会館2階で鎌倉淡青会主催の公開セミナーが開催されました。

 居士林にも縁がある鎌倉淡青会(東京大学の地域同窓会)が設立10周年を記念して

社会奉仕の一環として誰でも参加できる公開セミナーを立ち上げました。


 これから11月までそれを後援する円覚寺に於いて、月1回、セミナーが行われます。

今回の講演は山崎和男先生(広島大学名誉教授)による「毒にも薬にもなる薬草の話」でした。

100人を超える方々が拝聴されました。

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 今回が開講ということで横田南嶺管長も最初に挨拶をされました。

次回の第2回講演は8月27日(火)午前10時~12時

山口洋一先生(元ミャンマー大使)による「公正・不偏の視点から世界を捉える」です。

 それ以降は

 第3回 9月24日(火) 山本進先生(元 NHK) 「落語四百年」

 第4回 10月29日(火) 庵幸雄先生(元 三菱重工)「ガンと一緒に山登り」

 第5回 11月26日(火) 新村正純先生(元 味の素)「地球を壊さないで食糧問題を解決する」

 以上です。

 参加費用は、無料(ただし通常の円覚寺拝観料はお支払いください)。

 参加を希望する方はメールまたは往復葉書に講演番号・氏名(フリガナ)・住所・年齢・(職業)・

連絡先電話番号を記載してお申し込み下さい。(なお、主催は、円覚寺でなく鎌倉淡青会

ですので、必ずこちらのメールまたは住所に問い合わせください。)


tanseikaisemi@gmail.com

〒247-0056 鎌倉市大船1-26-33 片岡ビル3F

文化交流サロン「光」 鎌倉淡青会公開セミナー係


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総力をあげて

7月29日(月)


 横田南嶺管長が先日、提唱されたことをまとめてみました。


 長い人生、時には「死にたい」と思うほど、辛く苦しい時期も

あると思います。そんな時に「あなたのどの辺が死のうと思っているのか?」

省みてください。


 あなたの足は死のうとしていますか?ちゃんと大地を踏みしめています。

あなたの足は死のうとはしていない。あなたの手は立派にあって、

お茶碗を持ったり、戸を開けたりしている。手も死のうとはしていない。


 あなたの内臓も食べたものを一生懸命消化しようとしている。内臓は

死のうとしていない。目は「死のう」と思ったら、見えなくなりますか?

そんなことはない、ちゃんと見えるはずです。


 私たちの体の細胞というのは60兆あるといわれています。そのうちの

果たしてどこが死のうとしているのでしょうか?体のほとんどすべては

みな生きようとしている、それが真実です。


 人間が生まれて来る様子を見てみてもみんな「おぎゃー!おぎゃー!」と

生きようと思って生まれてくる。死のうと思って生まれて来る人は一人もいない。

現に体の細胞は各々生きようとして活動をしている、それが真理です。


 一時的な自分の考えや思いこみでそれらすべてを否定してしまうのは

やはり正しいこととはいえません。


 人間がものを考え思うのは素晴らしいはたらきですが、それが過剰に

マイナスにはたらきすぎるのはよくありません。汗を流して体温を調節したり

おなかがへったりと全細胞がせっかくこのいのちを生かしていこうとはたらいて

いるのです。


 うそをつかないのが体です。体全身は何とか生きようと思ってあらゆる総力を

あげてこのいのちを支えています。寝ている間も止むことはありません。

「もう死んでしまおう」と思っても体の中では内臓などがいのちを生かそうと思って

一時も絶えることなくはたらいている。


 そのはたらきこそいのち、仏様そのものなのです。


そんな素晴らしいいのちを今こうして生きているのです。

(平成25年7月27日 臨済録提唱より)

今でしょ!

7月28日(日)


 横田南嶺管長が昨日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの坐禅の修行は、こうして暑い中、辛抱して坐って、何やらどこからか

「お悟り」がわいてくるというものでは、決してありません。いくら坐っても

わいてくるのは汗くらいです。(笑)


 どこかに「お悟り」という何か素晴らしいものがあり、坐禅をすればそれが表れる、

得られるということではありません。そうではなく、今、こうして汗を流しながら

坐っていること自体が素晴らしいのです。


 坐禅をした先に、向こうに何か素晴らしいものがあると思うのが迷い、

今、こうしてここで坐っていることがなんと幸せなことであるかと気づく

のが悟りです。


 今、こうしてここで坐っている、そのことが尊い。今こうして汗を流しながら

熱い暑いと思いながら、坐っているこの時が一番尊いのです。そう気づいた人を

一生無事の人というのです。


 今こうしてここに生きているということ、それ自体がどんなに素晴らしいことであるか

それを実感することが何より大切です。

(後記)

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 先日、円覚寺で撮影されたBS朝日「いのちを語る」の放送日は、

前編が8月13日(火)、後編が8月20日(火)で時間は19:24~19:54

の予定です。

 横田南嶺管長と為末大さんの対談などの内容となっています。

 皆様、ぜひ、ご覧下さいますように。

 


 

明日、提唱あります。

7月26日(金) その2


 明日の土曜坐禅会(経験者の部 14:40~)では、

横田南嶺管長による「臨済録提唱」がございます。

 皆様のご参加をお待ちしております。

(後記)

 居士林での土曜坐禅会(初心者の部、経験者の部)は、8月中、休会となります。

再開は9月7日(土)からとなります。また、土日坐禅会(土曜坐禅会・晩の部)は

8月第1週から3週まで休会となります。再開は、8月24日(土)からです。

 なお、9月20日(金)~22日(日)は、夏季学生大攝心の為、

土曜坐禅会・土日坐禅会ともに休会となります。

 宜しくお願い致します。

居士林主事 合掌

BS朝日「いのちを語る」撮影

7月26日(金)


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 今日は、本山の方丈・大書院でBS朝日「いのちを語る」

のTV撮影が行われました。

 横田南嶺管長と為末大さんの対談の模様が撮影されました。

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 為末大さんは、男子元陸上競技選手・400mハードル日本記録保持者で、現在は

スポーツコメンテーター・タレント・指導者などで活動中です。

  2001年世界陸上エドモントン大会・2005年世界陸上ヘルシンキ大会の男子400mハードル

において、世界陸上選手権のニ大会で銅メダルを獲得する快挙を達成。又オリンピックには、

2000年シドニー・2004年アテネ・2008年北京と、3大会連続で出場した方です。

 「走る哲学者」の異名を持つ為末さんと横田南嶺管長がいのちなどの様々な話題に

ついて対談をしています。

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 放送日は、前編が8月13日(火)、後編が8月20日(火)で

時間は19:24~19:54です。

 皆様、ぜひ、ご覧下さいますように。

8月・休会のお知らせ

7月24日(水)


 居士林での土曜坐禅会(初心者の部、経験者の部)は、8月中、休会となります。

再開は9月7日(土)からとなります。また、土日坐禅会(土曜坐禅会・晩の部)は

8月第1週から3週まで休会となります。再開は、8月24日(土)からです。

 なお、9月20日(金)~22日(日)は、夏季学生大攝心の為、

土曜坐禅会・土日坐禅会ともに休会となります。

 宜しくお願い致します。

居士林主事 合掌

(後記)

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 この度、円覚寺でしか手に入らない新しいTシャツが出来ました。

 横田南嶺管長が揮毫した円相と花押、袖にはみつうろこと「円覚」の

文字が書かれています。

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こちらは「禅」バージョンです。売店にて販売しています。

お土産や贈答品におすすめです。

良寛さんの漢詩「毬子」

7月23日(火)


 第78回 円覚寺夏期講座は、おかげさまで、昨日で全日程を無事に

終了することができました。初日は、1000人を超える人が聴講にお見えに

なるなど、たくさんの方々にご来山いただき、誠に有り難うございました。


 夏期講座3日目にお話しされた河野太通老師が講座の最後に良寛さんの

「毬子(きゅうし)」という漢詩を紹介されました。あとで複数の方から

あの詩をブログで載せて欲しいという要望をいただきましたので紹介させて

いただきます。


「毬子(きゅうし)」   
  
袖裏繍毬直千金 {袖裏(しゅうり)の繍毬(しゅうきゅう) 直千金}
  
自誇好手無等匹 {自ら誇る 好手(こうしゅ) 等匹無しと}
  
有人若問箇中意 {人有って 若し箇中の意旨(いし)を問はば }
  
一二三四五六七 {一二三四五六七}

<訳>

 私の懐(ふところ)の中にはきれいに刺繍した毬があり

その値段は値千金、はかれるものではない。

 しかもこの毬をつくことにおいては私にかなうものはおらん。

もし誰かが「良寛さん、どういう心持ちで毬をおつきになっているの

ですか?」と問いたならば

 私は答えてやるわい「一二三四五六七」と。


 河野太通老師は、この詩は毬つきの玉のことにかこつけて、

良寛さんご自分の心の珠のことを表現されていると仰せになっていました。

そして次のように訳されました。


 私のこのからだの中にはきれいな値段のつけようのないところの

心の珠がある。この心を上手に用いることにかけては私にかなうものは

いない。

 この心を日頃用い、1日悠然と豊かに子供と仲良く遊ぶなどして

上手に使っている。もし誰かが「それはどういう心境ですか?」と

訊いてきたなら、「一二三四五六七、これだよ。」と答えてやろう。


  

たとえようもない素晴らしいもの

7月21日(日) 夏期講座・3日目


 南嶺老師師が夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。


 皆さんはこのような講座などに何かを求めて来ます。禅では、

「何を求めているか?」よりも「その求めているものは何ものか?

何ものが求めているのか?」に視点を変えて問いかけます。


 六祖慧能禅師は、まだ修行中の南嶽懐譲禅師に「何を求めてここへ

来たのか?」ではなく、「ここへ来たものはなにものか?」と

問いかけられました。そう問われて、懐譲禅師は8年間この問題を

ひたすら考えました。


 考えに考えて出た結論が「一物を説似(せつじ)すれば即ち中(あ)たらず」

という言葉でした。何かこれですよと言葉に表現すれば、もう違う、本質から

逸れてしまう。なんともかんとも言いようがないとうことです。その答えを

訊いて慧能禅師はそうなのだとうけがいました。


 仏の教えで大事なことは、皆さんがご覧になっている講本の上に

あるのではなく、ご覧になっている一人一人なのです。今こうして

講本を見ているもの、今こうして講義を聞いているもの、これこそが

仏様であります。求めていたもの、さがしていたものは、他ならぬ

自分自身だったと気づくのです。


 「何が見ているのか?」「何が聞いているのか?」その当体はどこにも

見当たらないが、しかし、確かに見ているもの、聞いているものがある、

それが生きているという何よりの証です。


 その当体は、言葉ではたとえようがない、説明がつかないというので

それを仏様や仏様のいのちというようなたとえで表現しているにすぎない。

その生きているいのちこそ仏様のいのちでありみんなこの仏様のいのちを

いただいてこの場にこうして坐って話しを聞いている。


 限りなき 仏のいのち 今ここに

         この一息に 生きておるなり

という歌を作ってみました。こうして坐っているところにたとえようのない

素晴らしい仏様のいのちが今こうしてここに呼吸をしているんだという歌です。


 私たちのいのちの当体というものは、それを言葉で表現することも理解することも

できませんが、しかし、確かに、ただ感じることはできるのです。これを何とも

有り難い、何とももったいないものであると、この体で感じることができる。


 私たちはそんな素晴らしいいのちをいただいて生きているのです。

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妙心寺派管長 河野太通老師

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染色家 吉岡先生の資料。

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支子(くちなし)

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紫根(しこん)

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蓼藍(たであい)

(後記)

  明日4日目(最終日)は

8時半から第1講 横田南嶺管長 「無門関提唱」

9時45分から第2講 森田正光先生 「異常気象と環境問題」

11時10分から第3講 桂 才賀先生 「子供を叱れない大人たちへ」

となっております。皆様のご来山をお待ちしております。








 


 


 

 

夏期講座・2日目

7月20日(土)


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 今日も会場がほぼ満員となるほどのたくさんの方々が講座を拝聴に

ご来山されました。皆様、誠に有り難うございました。

  明日3日目は

8時半から第1講 横田南嶺管長による「無門関提唱」

9時45分から第2講 妙心寺派管長 河野太通老師 「行く川の流れは絶えずして」

11時10分から第3講 吉岡幸雄先生 「日本の伝統色について」

となっております。

 皆様のご来場をお待ちしております。



 

だんだんと丸い石に

7月19日(金) 夏期講座・初日


 南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。


 山岡鉄舟居士は、若い頃、坐禅をしていると天井のネズミがその気迫に

圧されてピタッと動きをやめたと言われましたが、晩年は写経をしていると

ネズミたちが膝や肩の上で遊んだそうです。こういう世界です。


 修行を始めた頃は峻厳一徹でも段々と時を重ねるうちに丸くなっていくのが

理想です。あたかも岩が上流ではごつごつして大きく、手が触れたら

切れそうものがだんだんと川を流れていくうちに丸い岩になっていくような

ものです。


 私たち、お寺の世界では、伽藍の配置や境内の景色で仏の教えを説くことが

ございます。浅草の観音様などの大寺では、入り口には仁王様があります。

仁王様は目をひんむいて力を入れている姿です。


 私たちの修行もそれくらいの気迫でやらねばなりません。しかし、ずっと

仁王様のままでは自分自身はおろか、はたまたまわりの人まで肩はこり、

くたびれてしまう。


 浅草の観音様は雷門をくぐって一番奥には、観音様がお待ちしております。

最初は仁王様のように力を入れて一生懸命やってだんだんと観音様の心に

なっていくのが理想です。最初から観音様のようにはなかなかなれません。


 ある人が山岡鉄舟居士に剣の極意を訊いたら、浅草の観音様に行けば

分かると言われたそうです。その人はそう言われてお参りに行くと本堂に

「施無畏」という額がかかっていたそうな。


 おそれなきを施すことです。相手のおそれや不安を取り除いてあげる、

平たく言えば相手に安らぎを与える、相手をホッとさせることです。


 そういう観音様になるのが我々の修行の目指すところです。

夏期講座初日

7月19日(金)


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 円覚寺・夏期講座の初日、まさに建物からあふれるばかりの数の方々が

講義を拝聴にお見えになりました。

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 縁側にも坐っていただきました。

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 方丈内の様子です。文字通り、足の踏み場もないほどの

盛況でした。

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 廊下にまで坐っていただきました。 

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 最後は方丈が満員御礼になり、信徒会館2階でモニター超しに

拝聴していただきました。大勢の方のご来山、誠に有り難うございました。

 明日2日目は

8時半から第1講 横田南嶺管長による「無門関提唱」

9時45分から第2講 佐久間勝彦先生 「青年海外協力隊の若者たちから学んだこと」

11時10分から第3講 ロバート キャンベル先生 「たとえばの話~世界を外から満たす日本人の感性」

となっております。

 皆様のご来場をお待ちしております。

 

明日から夏期講座です。

7月18日(木)

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明日から円覚寺夏期講座が始まります。

7時半から受け付け開始。8時20分に開講式。

8時半から第1講 横田南嶺管長による「無門関提唱」です。

9時45分から第2講 辰巳芳子先生 「手から心へ」

11時10分から第3講 細川護煕先生 「戦国を生き抜いた知恵」

となっております。

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 聴講する方は畳に坐るか、イスに坐るかどちらかになります。

すべて自由席ですのでお早めにご来場いただくと好きな席を選べます。

 なお、会場には扇風機はありますが、クーラー・冷房等はございません。

一応、飲み物等を飲むコーナーは用意してございますが、熱中症対策の為

各自、飲料水をご持参していただくことをおすすめします。

 皆様のご来山をお待ちしております。



明後日から円覚寺夏期講座です。

7月17日(水)


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<大方丈・前庭> 

 明後日から第78回円覚寺夏期講座が始まります。

初日である19日(金)は、

第1講 8時半~9時半 

 円覚寺派管長 横田南嶺老師 「無門関提唱」

第2講 9時45分~10時55分

 料理家・作家 辰巳芳子先生 「手から心へ」

第3講 11時10分~12時20分

 永青文庫理事長 細川護煕先生 「戦国を生き抜いた知恵」

となっております。


 会場は円覚寺大方丈で、聴講料は1日券1500円、4日間通券5000円です。

どなたでも聴講することができますので、皆様、ぜひ、ご来山くださいますように。







夏季学生坐禅会のお知らせ

7月16日(火) その2


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 かなちゃんです。方丈の縁側にて。手がいいですね。

同じ写真でも縦横を変えると表情から何からだいぶ変わってきますね。

(後記)

 今年の夏季学生坐禅会(2泊3日於居士林)の日程が9月20日(金)17時集合~

22日(日)正午解散と決まりました。なお、参加者募集は本山ホームページで

8月初頭から始める予定です。皆様のご参加をお待ちしております。


7月16日(火)

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 先日、花園大学で行われた南嶺管長による講義の様子の写真です。

夏期講座

7月15日(月)


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 今年も円覚寺では7月19日~22日まで「夏期講座」が開催されます。

4日間を通して第一講(8時半~9時半)は、円覚寺派管長・横田南嶺老師

による「無門関提唱」です。第2講(9時45分~10時55分)、第3講(11時10分

~12時20分)は日替わりで、錚錚たる方々がご講演をなさいます。


 場所は、円覚寺大方丈で、もちろん、どなたでも聴講することができます。

聴講料は1日券(1500円)、4日間通券(5000円)です。


 皆様、お誘い合わせの上、ぜひご参加くださいますように。

すべてを許し受け入れる心

7月14日(日)


 南嶺管長が日曜説教会で法話されたことをまとめてみました。


「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれを愧じて夏草をもって

それを覆うた。」


 これは、インドの詩人タゴール(1861~1941)が箱根にある曾我兄弟の墓

とされる場所を訪れて作った詩です。タゴールは曾我兄弟による仇討ちの憎しみ、怨みは

神(大地)の御心に反するものと表現しました。


 私はそれを以下のように仏教的によみかえてみました。

「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれらをすべて許し

すべて受け入れて緑の草をもって覆うた。」


 人の世の苦しみや悲しみ、ねたみ、怨みはあまり良い感情とは言えない。

親を亡くした悲しみ、子と別れる悲しみ、そこから生まれる怨みや憎しみ。

しかし、こういう心なくして人間の心というものもありえないのも事実です。


 仏の心、仏心はこれら人の世の悲しみや苦しみ、憎しみやねたみ、うらみすら

それらすべてを受け入れてくれるものなのです。


 大地が緑の草をもってすべて覆った。大地はどんな嵐も照りつける日差しも

雨や雪もすべてを受け止めて呑み込んで包み込む。そしてすべてを肥料にして

草を茂らせ花を咲かせます。


 私たちの心にもどうしようない苦しみ、どうすることもできないねたみやうらみ

があろうかと思います。また、曾我兄弟の仇討ちのようにその時代に生まれたら

そう生きるしかない悲しみというものもあります。


 それらをすべて受け入れてくれるのが大地の心、仏心の心です。私たちが

誰一人例外なく生まれながらに持っている心なのです。

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<方丈前庭にて> 「はい、どうじょ。」




 

7月13日(土)


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 ナデシコ。暑さに負けずに太陽に向かって、精一杯咲いていました。

(東慶寺さんにて撮影)

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 キキョウ。見る人の心を清凉な気持ちにさせてくれる色ですね。

皆様、暑い中、お疲れ様でした。

 (後記)

 明日は午前9時から横田南嶺管長による日曜説教会です。毎回400人以上の方々が

参加する法話会でどなたでも拝聴することができます。

 なお、参加された皆様に冊子「円覚 盂蘭盆号」と標語(管長揮毫)を配布する予定です。

また、10時から12時の間、写経会を行います。延命十句観音経という般若心経より短い

お経を写してもらいますので30分~1時間で終わると思います。

 皆様のご来山をお待ちしております。

追伸 7月10日に当ブログで紹介した「クモラン(蜘蛛蘭)」、選仏場入り口前の

   梅の木に生えています。本当に「奇跡の生命体」のようです。

   ご覧になって、そして、大事に見守ってあげてください。

 

土日坐禅会は休会です。

7月13日(土)


 本日の土日坐禅会(土曜坐禅会 晩の部)は諸般の事情により

休会となりました。なお、土曜坐禅会(初心者の部 経験者の部)は

通常通り、行います。

 宜しくお願い致します。

居士林主事 合掌

講了

7月11日(木) 制末大攝心・最終日


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 雨安居(4月~7月の大攝心のある期間)も、おかげさまで

今日で無事に講了を迎えることができました。8月9月は大攝心のない月となり、

そして雪安居(10月~1月)が始まります。

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講了にあたっての南嶺老師の偈(漢詩)です。

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 皆様、有り難うございました。

自己中を殺せ!

7月10日(水) 制末大攝心・6日目


 南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。


 至道無難禅師に「殺せ殺せ我が身を殺せ 殺し果てて

何もなき時 人の師となれ」という言葉があります。自分中心にものを

考えるその思い・ものの見方こそ、殺し尽くせというものです。


 「いかなるか 苦しきものと 問うならば

              人を隔てる心と 答えよ」

という歌があります。何が苦しいか?苦しみのもとは何か?と訊かれた

ならば「あいつは好きだ、あいつは嫌いだ」と人を隔てるその心こそ

苦しみのもとであると知れという意味の歌です。


 その苦しみを作り出しているのは、相手ではなくて自らの心であると

気づくことができなければ、どこに行こうといつまでも苦しみの生涯を

続けることになります。


 自分中心なものの見方こそ自分を苦しめているのだから、その心こそ殺すべき

なのであります。苦しみの道理はただそれだけです。


 嫌だ、ねむい、だるい、・・・そんな思いをみんな殺し尽くす、私たちの修行は

それに尽きます。


 殺し尽くしたら今度は活かすべきものがあります。活かすべきは、平等のものの見方

慈悲の心に他なりません。


 「無」とは、自分中心のものの見方をすべて否定して、すべてを包み込むように

みんなを平等に見る、大きな慈悲の心・仏心であります。これこそが「無」であります。


 古人の言葉に「法とは己なきの尊さである」とあります。「オレがオレが」という

自分中心のものの見方をすべて捨ててみれば晴れ晴れしたところが広がってきます。

「自分中心のものの見方の為にすべてを誤解していたんだ」と気がつくことが

強いて言えば「悟り」なのではないでしょうか。そう気がつくと私たちの心は

無限の慈悲に満たされる。


「無垢 無邪気 無心 無防備 笑顔とは

            無から生まれるものと思えり」

という歌があります。自分中心のものの見方が尽きて無くなると

「無」なのです。


 ところが自分中心のものの見方にとらわれている人はその中に

閉じこもってなかなか、自分で気づくことができません。そんな

自分を克服する修行であります。

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クモランと言うそうです。浄智寺さんのフェイスブックで紹介されていたので

選仏場前の梅の木まで見に行ってきました。

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確かに名前に通り「スパイダーのようなラン」です。

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枝の裏側に本当に目立たぬように地味に、しかし、しっかりと

お花を咲かせております。

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 このクモラン、着生場所から引き離した場合、絶対といっていいほど

再活着しないそうです。それは、一説には樹皮に棲む菌類と共生関係にあるため

なのだそうです。命のつながりって深いですね。







 









一つの真理を見いだす

7月9日(火) 制末大攝心・5日目


 管長が提唱されたことをまとめてみました。


 洞山禅師に「糞掃堆頭(ふんそうたいとう)に一顆の明珠を拾い得たるが如し」

という言葉があります。ゴミやかすやはきだめの中から一つの真理を見つける

ということです。


 私たちの修行(人生)も良いこと悪いこと、くだらないと思われることなど

様々なことを経験しながら、その中にひとかけらの明珠・宝・喜びを見いだす。

それによってすべては報われる。それが修行(人生)というものではないでしょうか。


 何かをちょっとやっただけで、こんなくだらないことはやってられるかと逃げ出す

のが正しいのか、それとも、一つの真理を見いだすまで何年、何十年とやってみるのが

正しいのか。


 こんなことはくだらんと言ってやめてしまう人は、結局、どこへ行ってもくだらんと

文句を言うものです。大切なのは、そのくだらんと思う中に一つの真理を見つけること

です。そこでやめてしまったらいつまでたっても何にもなりません。


 雑務と思われるようなことでもそういうものを繰り返し繰り返しやっているうちに

ひとかけらの光るものを必ず見いだすことができるはずです。


 曹洞宗のある禅師は「糞掃堆頭に一顆の明珠を拾い得たるが如し」を

「ゴミだめの中から一つの真理を見つけた」というよりも

「ゴミだめと思っていたものが全部真珠であったと気づいた」と

意訳されたそうです。


 今までゴミやはきだめのようにくだらないと思ってやったいたことが

実は全部真珠のように尊いことであったとこう気づくことが肝心です。


 毎日やっていることをゴミやかす(くだらないこと)と思うのかそれを

真珠の山と思うのかは、全部、あなた自身の心の問題です。


 その心を改めて、ゴミだめが全部そのまま真珠の山であったと気づく

修行です。

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<力強く生きる姿の端的です!>



 

慚愧の心

7月8日(月) 制末大攝心・中日

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<黄梅院にもヤマユリが咲き始めました。>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 江戸時代後期の月船和尚というお方は、若い頃、たいへんな修行を

積んでいったんは住職になったにもかかわらず、それをよしとせずに、

もっと禅の本来を求めてその寺を捨ててその地を離れ、今の横浜・永田の地に

小さな庵を結んで修行に打ち込まれました。


 古人先徳は、文字通り、自分のすべてをかけて道を求めて、それを体得し

そしてその教えを人々に伝え広めて、人々に安らぎと喜びを与えていきました。

そうして心の安らぎを得た信者さんによって伽藍などがととのえられ、今こうして

私たちは何不自由なく修行をさせていただいています。


 代々、何千年と祖師方が法を求めて伝えていただいたその余徳によって

私たちはこうして修行をさせていただいているのです。


 月船和尚はそんな風に自己に厳しく禅を純粋に求めるような身でありながら

この世で無駄飯を食べたそのご飯代のつけを支払う為に閻魔大王のところに

いくのだと、なお、慚愧の心を持っていらしたのでした。


 とても私たちはそのような祖師方の修行には及びませんが、「ああ、誠に

申し訳ない」「まだまだ、修行が足りない」という慚愧の心、これだけは

失わずにいたいものです。


 

牛小屋と黄色の葉っぱ

7月7日(日) 制末大攝心・3日目


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 中国の唐の時代に薬山和尚というお方がいました。まだ、禅の草創期の頃で

もちろん立派な伽藍もなにもありません。薬山和尚は農家の牛小屋を借りて

専ら坐禅に励んでいました。


 農家の人達はそんな薬山和尚を気味悪がって出て行かせようとしましたが

出て行かない。そこで牛小屋に火をつけてしまいました。やれやれこれで

出て行くと思いきや、和尚、焼け跡で坐禅をしているではありませんか。


 その話を時の太守が聞きつけて、その心意気に感銘し、和尚の為に山を

買い取り庵を建ててあげたのでした。和尚はその庵に牛小屋という名前を

つけて坐禅を始めました。


 そうこうするうちに、うわさをを聞きつけた人々が集まり大きな修行道場に

なりました。


 こんな逸話があります。薬山和尚はみんなといっしょに食事をしなかった。

それでいて一人元気にしている。かくれて別のおいしものをたべているのでは

ないかと疑った修行僧の頭が和尚の行動を観察してみました。


 すると、和尚が台所の裏で小さな鍋でぐつぐつと何かを煮ている。何だろうと

思いきやみんながいらなくなって捨てた黄色い葉っぱや野菜の切れっ端を集めて

きて煮ていたのでした。


 薬山和尚は言いました「いやあ、私はみんなといっしょに食事をとるほど

修行をしていません。ですから、かれこれ10年ばかりこのようなものを集めて

食べています」


 古人はこのような苦労の中で四弘誓願実践の為に修行をされました。

これに見習って多くの先人たちも坐禅に打ち込まれました。私たちも少しでも

それにあやからなくてはなりません。

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<居士林・カタバミの花>

 今日は午後から居士林で蔦禅会(坐禅会)でした。17名の方々がご参加

くださいました。皆様、有り難うございました。

清濁あわせのむ

7月6日(土) 制末大攝心・2日目

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<正伝庵の蓮>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの心は大海のように限りがなく広く深いものであると

古人は言っています。そして深い深い池のように静まりかえったもので

あります。


 それなのに私たちは普段、嫌なものを見たり嫌な人に会ったりすると

自分の心がかき乱される、けがされると思いこんでいます。はたして

本当にそうなのでしょうか?


 私たちの心は大海のように広く深いものであるから、少々のことで

濁ったり清らかになることはありはしません。清きもけがれも共に

合わせのみこむような広さと深さを持っているのが本来の私たちの

心です。


 清濁やどうしようもないものまで、みんな認めて許し受け入れることの

できる広い心が本来持って生まれた心です。


 ですから「あいつは立派だからいい、あいつはどうしようもないからいっしょに

いたくない」と自分の狭い了見で人を区別し差別し、隔てる心を持つことは

恥ずべきことです。


 そのような人を隔てる心を捨てるのが本当の修行であります。


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終わることのない願い

7月5日(金) 制末大攝心・初日


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<カンゾウ・甘草>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの雑念・妄想・執着というものは断とうとしてもなかなか

断てるものではありません。だからといってそれであきらめてしまったら

それで終わり、取りかえしがつかなくなってしまう。そこで何よりも

大切なのはあきらめずに断とうという願い・誓いを持ち続けることです。


 学ぶこともそうです。私たちは物事を学べば学ぶほどおよびがつかないと

わかります。いくらやっても、およばないからとそこでやめてしまったら

そこまでです。逆に、いくらやってもきりがないからこそ、私たちは

学び続けるんだいう誓い・願いを持たなくてはならない。


 また、「世の中が平和でありますように」「みんなが幸せでありますように」

といくら祈ったところで世界の争いや人々の悩み苦しみは尽きることが

ありません。しかし、やっても仕方がないとやめてしまったらそれまで

です。


 そういうときこそ、「世の中が平和に幸せになりますように」という

尽きることのない誓い・願いを持って生きる覚悟が必要です。


 何事もやったって仕方がない、しょうがないとあきらめてしまったら

それきりです。そこで重要なのはあきらめずにやり続けるんだという

願いと誓いです。


 終わることない願いを持って生きるのが私たち修行者の努めであります。

(後記)

 今日から11日まで円覚寺僧堂では、制末大攝心(集中修行期間)に入りました。





 



 

本当の安らぎの場所

7月4日(木)

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 管長様が昨日提唱されたことをまとめてみました。


 臨済禅師が繰り返し説くことは、外のもの、人の言うことにだまされない

たぶらかされることなく正しいものの見方をしなさいということです。


 長いこと坐禅をしろとか呼吸を長くしろというのは枝葉末節であって

正しいものの見方をすることが何より大切です。


 では正しいものの見方とは何でありましょうか?それは世の中を無常と

見ること。常であるものは一つとしてないということに気がつくことです。

また、無我と見ること。これは自分だと言って執着、とらわれるものは

何一つありはしない。


 それから、一切は苦しみであるということ。思うようにはいかない。

そしてその中にあって己を捨てる、なくすところにまことの安らぎが

あるということ。これこそが正しいものの見方です。


 無常である、無我であると正しくものを見て知っておればどんな世界で

あっても大手を振るって歩いていくことができるのです。

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(後記)

 今朝方、故郷にいる母から突然の電話があったものだから、何だと思いきや

「オレオレ詐欺」の電話がかかってきたとのことでした。何でも急病にかかって

しまったから、医療費が早急に必要になったとのことを言ってきたようです。


 故郷から鎌倉に出てきて十数年になりますが、これで4度目です。確か前回は

会社のお金を紛失してしまって、上司にわからないように処理をしたいから早急に

お金を送ってくれだった思います。


 手を変え品を買えよくもまあ、人をだまそうとするものだなあと

あきれてしまいますが、「母親の子を思う気持ち」はいくつになっても

変わりませんからあれほど注意を促されていても、気が動転してひっかかって

しまうようです。


 母親がいつも言うのは「声が同じだったから、信じそうになった。」ということ

です。後で冷静に考えれば不自然なことばかりなのですが、「子を思う親の心」

を逆手にとって、気を動転させて、判断が鈍らせるのが犯人のねらいのようです。


 皆さん、くれぐれも気をつけてくださいますように。


 


 



毎日の当たり前の暮らしが

7月3日(水)


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 臨済禅師は繰り返し仰せになっています。この毎日やっている

普段の当たり前の暮らしこそ最も尊いものであると。


 おなかがすいたらご飯を食べて、くたびれたら眠る。服を着たり

大便・小便を出す。それらの当たり前のことこそ最も尊いのです。


 自分でご飯を食べることができる、自分で服を着ることができる

自分で大小便をすることができ、疲れたら眠ることができる。これが

できるということは本当に大変なことなのです。


 そういうことが自分で当たり前にできるということが実は最も尊く

素晴らしいと気づくことが肝心です。


 若いときなどは、体がピンピンしているのでもっと何か業績を

つくらなくてはいけない、もっと学ばなければいけない、もっと何か

をしなければいけないと追い回されてしまいますが、結局、その結果

何になったのか?何が残ったのか?


 業績、や学問もそれなりの価値がありますが、やはり人間の真価は

当たり前にご飯を食べて服を着て大小便をしてそしてくたびれたら

ぐっすり眠ることができることがどれほど有り難いことであるかに

気づくことができるかであります。


 そういうことに何とも言えない尊さがあることに気づけるかであります。

それに気づいたらもう外のものに振り回されることはないのです。

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うちわ

7月2日(火)


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 円覚寺では8月15,16,17日と山門周辺で盆踊りを開催しています。

これらの色紙は、その盆踊りの時に配布するうちわの図柄として

管長様が揮毫をされたものです。
 
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 最近は、山門のまわりに2重3重の円ができるほど大勢の方々が

盆踊りを楽しんでいます。

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(雲水図は、本山の売店と黄梅院のお施餓鬼用のものです。)

 どなたでも参加することができますので、家族、友達等、お誘いあいの上

ぜひ、お越し下さいますように。

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今年もお施餓鬼の季節が始まりました。今日は円覚寺山内・如意庵の兼務寺

昌清院さんのお施餓鬼でした。

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7月1日(月)


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「美しく生きるとは 一筋に生きることだ

一筋に生きるとは 自分を生かす

一つのことに 一心不乱になることだ

坂村真民全集第四巻より」

管長様揮毫。

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