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100巡礼

6月29日(土)


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 今日の居士林での土曜坐禅会初心者の部は、先週に引き続き96名もの

方々が参加くださいました。2週連続、満員御礼です。皆様、有り難う

ございました。

 さて、明日、午後4時からBS日テレで「100巡礼」という番組が

再放映されます。管長様が僧堂を紹介される映像などが出ています

ので皆様、ぜひ、ご高覧ください。
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大用国師 毎歳忌

6月28日(金)


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 今日、江戸後期の禪僧、大用国師・誠拙禅師の毎歳忌が僧堂に於いて

行われました。

 倒産しかけた会社にその人が派遣されると、その人の指導の下に会社が

だんだんと軌道に乗り、復興していく。そういう人を「会社再生の請負人」

と呼びます。


 大用国師も当時、かなり荒廃していた円覚寺をはじめ、京都の天竜寺

、相国寺などをたいへんな逆境をはねのけて、次々と再建・復興するなど、

まさに「道場再建の請負人」とも呼ぶべきご生涯を送られました。

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 円覚寺では、平成31年に行われる(大用国師・ご遷化)250年遠諱に向けて

着々と準備を進めております。

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大用国師の戒め

6月26日(水) 半制大攝心・最終日


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの修行の眼目は我見、自我を削って無我に徹すること、

これ以外にありません。


 明日から大用国師・誠拙禅師の毎歳忌となりますが、その頂相(ちんそう)に

誠拙禅師が弟子に説かれたいくつかの戒めが書かれています。


 その一つに「人の過失を見ることなかれ」とあります。人の過ち、ごまかしを

見るなということです。これはお釈迦様以来の教えで「法句経」に「他人の過失を

みることなかれ。他人のしたこと、しなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、

しなかったことだけを見よ」とあります。


 人のことをとやかく言うのではなく、ただ、自分がどうであるか?を見ていけ

ということです。これが修行において一番大事なことです。私たちは修行をしながら

ついつい人の観察ばかりをしてしまいかねません。


 こういう狭い道場でいっしょに朝から晩まで暮らしていれば気に入らないと思う

人も出てきます。見方を変えれば、そういう中で修行をすることこそ自分の我(が)、

わがままを削り無くしていく最良の場です。


 思うようにまかせない状況、気の合わない人、嫌な人というのはかえって修行に

とっては好条件となりうるのです。そういう中で自分の我の強さに改めて気がつかされる

のです。


 また、誠拙禅師は「無事にして山を下りることなかれ」つまり、修行に来たからには

これだというものを何か一つでも体得してから帰れと説かれています。


 私たちは仏心の光の中におりながら、その光を見ることができないでいます。

この光の中にあるんだと気づくことが大事です。では、そう気づくにはどうしたら

いいか?


 「影あり 仰げば 月あり」という言葉がありますが、無我、無、暗さ、闇の世界に

徹してこそ、初めて光に気がつくことができるのです。無の闇の中に徹してこそ

「ああ、光の中にあったんだ!」とわかるのです。

 
 私たちは光の中にいのちをいただいて、この光の中に生かされています。

このこと一つがどんなに尊いことか体得することです。自分自身がその光の

尊さ、有り難さに気づかずしてどうして人に光の中にいることを伝えることが

できましょうか?

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<降りしきる雨の中で>





 
 



 

仏心光明の中

6月25日(火) 半制大攝心・6日目

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<僧堂・中庭にて>


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 思益梵天経に次のような話があります。ある人が「本来私たち誰もが持っている

心の光明に気がつくためにはどのような修行をしたらいいですか?」と尋ねました。


 文殊菩薩は「あらゆる行の中で我見を清浄にすることが大事である」と

答えました。我(われ)なし、無我です。我というものが本来、空(くう)である

と見るのが真実のものの見方です。


 無我の法を得たるがまことのものの見方、我が空であると見たものが

真の仏を見たものである。我というものがどこにもないことこそ仏性である

とそのお経には説かれています。


 仏性というのは何も仏性というかたまりがあるわけではない。我に対する

執着・とらわれからきれいに離れたところがそのまま仏性であります。

自分に対する執着・とらわれを離れたこころの様子に他なりません。


 執着・とらわれを離れたなら、そこは仏心光明の中です。そのことに

気がつき目覚めたならば、今ここにいるところが仏心光明の真っ只中です。


 自分の置かれた環境で無心にあい努める、それ以外に仏心に目覚めたものの

姿はありません。今、この目に前で只今なすこと、見ることが尽く真実の姿です。

この我に対する執着・とらわれから離れる修行です。



塵芥の堆(つみ)の中にも

6月24日(月) 半制大攝心・5日目


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様の根本の教えに

「都大路にすてられし 塵芥(ちりあくた)の堆(つみ)の中にも

げに香りたかく こころたのしき 白蓮は生ぜん」というものがあります。


 街で捨てられたゴミだめの中にもきれいな蓮の花が咲く。塵芥の中に

香り高い蓮が咲くとあります。蓮の花を咲かせようと思ったら泥の中に

埋めなければなりません。修行もそうであります。


 泥の中に埋められて「あいたまらん」と逃げ出してしまえば蓮の花は

咲くことはありません。それまでのことです。その泥こそが蓮の花にとって

の最大の肥料であります。


 それと同じように、私たちの経験する思うにまかせない逆境や辛い苦しい

体験が修行にとっては糧(かて)となり肥料となる。


 お釈迦様の教えを「妙法蓮華経」と言います。泥の中に根を張って

太いレンコンをこさえて、蓮華の花が咲く。清浄できれいな無菌のような中で

花を咲かせるのでは決してありません。


 維摩居士に「衆生病むがゆえに我もまた病む」という言葉があります。

世間の人々が苦しんでいる、辛い中にいる。おろかさや愛欲にまみれている。

それゆえに「我も病む」です。その中に自分も入っていって修行をしていく

ということです。


 自分だけが清らかで、自分だけが正しいと言って、苦しみ悩む世間を離れてしまう

のではなく、むしろその中で「げに香りたかく こころたのしき 白蓮の花を咲かせる」

というのが私たちの本当の修行であります。

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(後記)

 かなちゃん、最近の定位置は方丈の縁側です。かなちゃんにとって

この場所が夏の避暑地のようなもののようです。人目につく場所なので、

時には人だかりができるほどのすっかり人気者に。この寝姿を見たら、

触りたいと思ってしまいますが、でも、皆さん、かなちゃんはもう

おばあちゃんです。時には、遠くから眺めるだけで、ゆっくり寝かせて

あげてくださいね。



 











気に入らんと騒いでいるのは

6月23日(日) 半制大攝心・中日

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<未央柳>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。

 
 何が問題を引き起こしているのか?「気に入らん!」と何が騒いで

いるのか?というとそれはあなた方の心一つです。心と言っても奥深いものの

方でなくて頭の中で理屈を考えこね回しているそれであります。


 「小さな体、小さなものにこだわることなかれ。大きく坐れ」と昔の人は

言っています。天地宇宙をひっくるめて一枚の座布団として坐れ。そうして

みれば自分のこの体、この心なんてのは小さなごまの実、芥子粒のようなもの

です。


 何が気に入らんとギャーギャー騒いだとしても、それは芥子粒のような小さな

頭の中でゴチャゴチャと言っているにすぎない。


 「これじゃ、いかん!」「あいつは気にくわない!」「こんなところは嫌だ!」

と騒いでいますが、その本人が本当に気に入らんのは、その人自身の心なのでは

ないでしょうか?


 自分の頭の中で作り出している自分の心の状況に自ら振り回されているにすぎない

のです。みんな小さな頭でギャーギャーと騒いでいるにすぎない。


 坐禅をしたならば、自分のこの体一つ、呼吸一つに徹する、成り切ることが

肝心です。この呼吸は天地・大宇宙と一枚の呼吸です。


 何もかも 息一つぞと なりにける

         この身このまま 極楽浄土


という歌があります。


 少しばかり思うようにいかないと人はそこから避けようとします。しかし、

気にくわない、思うようにいかないような逆境の中で坐禅をするのが本当の

修行であります。



 


 




 

今この時この場この自分自身に

6月22日(土) 半制大攝心・3日目

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 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 無常だけは誰も逃れることはできません。どんなに学問を積もうが

どんなに財産を貯めようが、どんな地位や名誉、功績があろうが

無常だけは隠しようがない、逃れようがない。


今はたとえ、若くて健康であっても、老いること、病気になること、

死ぬことは誰にも避けようがありません。この無常であるということを

痛切に目をそらさずに見つめていくのが私たちの修行です。


 無常ばかりはどこにいこうが逃れようがないから、それを受け止めて

生きるほかありません。また、無常に触れてこそ、はじめて何に

気がつくのかというと、人は必ずこの時この場に生きることの大切さに

気づきます。それ以外にないのです。


 大きな病気などをして無常に直面したときに、人は今この時この場で

生きているんだという単純明快な事実に気づかされる。無常というのは

「ちょっと待ってくれ」とか「少しよそにいかしてくれ」とかという

自分の都合やわがままをいう隙間を与えてくれない。


 今この時この場この自分自身を精一杯生きるよりほかにありません。


 私たちの修行は万事を捨てて今この時この場この自分自身に成り切る

修行です。今この時この場この自分自身、この一呼吸に己のすべてをかける、

己の力の限りを尽くす、それ以外にありません。


 無常を逃れることはできないという思いを持って今この一呼吸に

全身全霊を尽くして取り組んでもらいたい。


(後記)

 明日、日曜説教会後の写経は、諸般の事情により、休会となりました。

皆様、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願い致します。

 本日21時からのテレビ東京の番組「出没!アド街ック天国」は

北鎌倉特集です。先日、居士林にも取材が来ました。

皆さん、ご覧になってください。




 


 


 

どうにもならないところに

6月21日(金) 半制大攝心・2日目


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<萩・黄梅院>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 理論理屈、言葉ではもうどうにもおさまりがつかないような理不尽なこと

は世間でも避けることはできません。なぜ、あんな人があんな目に遭わなければ

ならないのかと思うことも多々あります。そんな時に逃げてばかりいるわけには

いきません。


 ある人は、お寺に入ってみたものの、お寺の生活が自分と合わなかったのか

「縁あれば即ち住し、縁なければ即ち去る」という言葉を残して去ろうとしました。

それを聞いて、そのお寺の禅師は「縁あればとどまり、縁なければ努めるんだ」

と仰せになったそうです。


 どうにもならないから「はい、さようなら」とやれば、何とも禅宗らしいと

思われるかもしれませんが、どうにもならんところで「縁なければ努めるんだ」

という気持ちで事に臨むことも大事です。


 私たちの修行もどうにも行き詰まったところ、どうにもならないところに

入っていって、そこからどうにもならないからやめようとか、どこか他の場所に

行こうというのではなく、強いて言えば、その中に「ひたりきる」、そのどうにも

ならないところに活路を見いだす修行です。


 あの白隠禅師でさえ、修行時分に仲間から様々な嫌がらせを受けたという記録が

残っています。しかし、白隠さんはそう言う状況の中で「これではいかん、こんな

状況を何とかしなければ」と努めに努めて、今日に至る禅を再興されました。


 ある老師は「名刀正宗は八十六万七千四十たび鍛えに鍛える」と言われました。

何度も何度もたたかれながら、余計なものが飛んで行って鋼(はがね)が鍛えられて

いく。私たちの修行もそうです。


 大相撲のぶつかり稽古もそうです。ぶつかっては投げ倒されてを何十、何百、

何千、何万回と繰り返しているうちに知らず知らずのうちに足腰が鍛えられ、

関取としての体と根性が鍛えられていくのです。


 そういう心構えで修行に臨んでいただきたいと思います。




 



自ら問いかける修行

6月20日(木) 半制大攝心・初日


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<僧堂中庭にて>

 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 論語に「之(これ)を如何(いかん)せん、之を如何せんと日(い)わざる者は、

吾之を如何ともすること末(な)きのみ」という言葉があります。


 ただ他人から言われたことを言われたとおりにやるのではない。

どうしたらいいのか?どのようにしたらいいのか?と自ら問いかけてくる

ような者でなければ、私にはどうしてあげることもできないという意味の

言葉です。


 円覚寺開山・無学祖元禅師の語録の中にも「瞎驢(かつろ)磨(ま)を推す」

という言葉で、目の見えない驢馬が言われるがままに、訳も分からずに、さぼっていると

たたかれるからとの理由でグルグルと回って臼を押しているように、そういう修行では

あってはならないと戒めています。


 お釈迦様も仏道は磨牛のごとくあってはならないと仰せになっています。

牛が臼をひかされていますが、牛自身、何の為にやっているのか?これをやって

どうなるのか?疑問を持たずに、やらないと叱られるからの理由だけでグルグルと

臼をひくために回っています。そういう修行では、何の為にもなりません。


 新しく入ってきた人は、いろいろと覚えることで精一杯であろうかと思いますが

「どうしてなのか?」「どうすればいいのか?」と自分から疑問を持ち、これを

問いただしていこうという気持ちがなければ、いくら指導をするといってもどうにも

なりません。


 ただ、言われた通り言われたことやるばかりではなく、「これはなぜなのか?」

「どうしてなのか?」「どうしたらいいのか?」と自らに何度も問いかけて求めて

修行に取り組んでいただきたい。

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<アジサイ・雨に濡れて>

明日から僧堂大攝心です。

6月19日(水)


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 明朝から円覚寺専門道場(僧堂)では、1週間におよぶ攝心(集中坐禅修行期間)に

入ります。この期間は托鉢や畑仕事などをせずにお寺にこもって坐禅に集中します。

「攝心」とは心を攝(おさ)めると書きます。攝には散乱しないようにおさめるという

意味があります。姿・形はもちろん心をおさめる修行であります。

(後記)

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 今、円覚寺の売店では円覚寺オリジナル「ペットのお守り」がたいへん好評だそうです。

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 首輪につけてペットの健康長寿と交通安全を祈ります。

(イラストはある和尚さんの奥様が描かれました。)

観音懺法

6月18日(火)


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 今日は16時から山門の2階に於きまして観音懺法という儀式が

行われました。

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総長さんをはじめ山内の和尚さんが集まり、観音経普門品を奉読致しました。

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こちらは管長様が描かれた今年の布教標語です。

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 かなちゃん、自由自在です。暑くなってくると定位置が勅使門前から

方丈の縁側付近に移動する傾向にあるようです。ちょうど暑さを凌ぎやすい

場所なのでしょう。

明日は観音懺法です。

6月17日(月)


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 今日は良い天気となりましたね。雨に濡れるアジサイも良いですが

太陽の光を浴びるアジサイも格別です。

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 午前中、本山に於いて大遠諱・展示広報委員会が開催されました。

 今回は、円覚寺公式ホームページの変更について、管長様にもご出席いただき

話し合いを致しました。ホームページ上で遠諱の詳細なことなどを発信できるように

なる予定です。その他、「大遠諱」だけでは何のことかわからない人が

多いので、キャッチフレーズ的な副題をつけることやいわゆるゆるキャラと呼ばれる

「円覚寺のマスコット」を創作してみてはどうかなどの意見が交わされました。

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<参道・仏日庵さん前>

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 明日は16時から、山門上で観音懺法(せんぽう)という儀式が

行われます。この儀式は、「観世音菩薩の広大な霊感を請い、祈祷・報恩

・追悼のための行う」と辞典には説明されています。「もともとは禅寺の一大行事で

雨乞いの為の祈祷であった」と先日の勉強会の時に講師の先生がお話されていました。

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<十一面観音>

山内の和尚様方が山門の上(2階部分)に上がり、本尊・十一面観音の前で

観音経を読誦します。円覚寺では、観音懺法は管長様のご安泰を祈る儀式の

意味合いもあり、その為、管長様ご本人は山門の上には上がらないというしきたり

が受け継がれています。


 関係者以外は、山門の2階に上がることはできませんが、建物近くで

お経を聞き、儀式の雰囲気を味わうことができると思います。また、アジサイも

今が一番きれいな時期です。皆様、ぜひ、ご来山くださいますように。

 

今生きていることへの感謝を学ぶ

6月16日(日)

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<アジサイと山門>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 仏道修行というのは何もお寺に行って長く修行をしないと手に入らないものでも

滝に打たれたり断食をしなければならないというものでもありません。

臨済禅師は、「正しいものの見方をする」が一番重要である仰せになっています。


 何も特別なことしなくても日常の中で今こうして生きていること、こうして

毎日食事ができることに喜びと感謝をする、こういうものを本当に感じることが

禅・仏教の教えに相成りません。
 

 朝、目が覚める度に生きていることに大きな喜びを感じて感謝をする。

坐禅をしていてもただ、姿形ばかりしているのではなく、その一呼吸一呼吸に

息をすることのできることに感謝をする。それが本質でないかと思います。


 今現在こうして生きていること、いのちがあるということ、こうして話を

聞くことができるということ、呼吸をしているということ、心臓が一時も

休まずにはたらいているという、この大きないのちの力に感謝をする一日を送る、

それが一番の修行であります。

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<雨上がり、葉に水泡が>

(後記)

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 管長様が右に置いてある大筆を使って揮毫された大書です。

円覚寺派・末寺の山号が書かれています。

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「忍を懐いて慈を行ず」

 


絶妙なバランスの上に

6月14日(金)


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 今日は朝から雨ですね。葉っぱの上にも、本当に絶妙なバランスの上に水滴ができて、

しばらくすると、流れて落ちていくのを繰り返しています。

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 私たちのいのちもこの水滴のように絶妙なバランスの上にいただいているのかなと

ふと思ってしまいました。

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アジサイも雨をいただいて活き活きとしています。

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 こちらは、僧堂の雲水さんが円覚寺境内で収穫した梅を漬ける作業

をしている様子です。梅の黄色がきれいですね。

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 6月18日は観音懺法(せんぽう)という儀式が山門の上で行われます。

それに向けてに和尚さんや雲水さんなどが掃除をしていました。

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山門上から仏殿を望む。

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何だか矢沢永吉さんを彷彿させるようなポーズをとる、躍動的な

十二神将像。もちろん、ディスコではなくて、山門上に

安置されています。

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 こちらも十二神将像の一つです。十二神将に共通しているのは

やはり、おなかの下、下腹部の丹田がゴムまりがあるようにぷっくりと

充実していることです。丹田に重心を置いて作られているなと

つくづく感じます。

 坐禅をするときも丹田を意識して、それを充実させるように

坐ります。こういったお像を拝見すると丹田が重要なことをヴィジュアル的

によく表しているなあと関心させられます。

(後記)

 明日の土曜坐禅会2部では、管長様に提唱をしていただく予定と

なっております。「無門関」が前回で終了しましたので、今回から新たに

「臨済録」を提唱していただく予定です。

住職研修会2日目

6月13日(木)


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 今日は、円覚寺派住職研修会の2日目です。

 本山に泊まった和尚さん方は、午前5時に起床して5時半から

坐禅・読経でした。

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9時から、7年後に遠諱が近づいているということもあって

玉泉寺閑栖住職 鈴木省訓師に「大用国師について」お話を

していただきました。

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 その後は、早稲田大学日本宗教文化研究所 西山美香先生に

「夢窓国師について」ご講演をしていただききました。


住職研修会

6月12日(水)


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今日から明日のかけて、円覚寺派の和尚さんを対象とした住職研修会が

始まりました。四十数名の和尚様が各地から集まりました。

 開講式での総長さんの挨拶の様子です。

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 管長様のご垂示。

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 今回の講習会は、妙心寺派宝泰寺住職・藤原東演先生をお招きして

法話の仕方を学びました。藤原先生は「法話でも仕事でもちゃんと

向き合って、たとえ自分が未熟でも受けていくことが大事だ」と

最後に仰せになっていました。

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 そのあと、事前に選ばれた5人の若い和尚さんが法話の実演をしました。

 法話を聴いている和尚さんには、法話に関するアンケート用紙が配られ

各法話が終わるごとに回収され、参加者の前で感想や批評が読み上げられました。

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お坊さんばかりを前にしてお話をすることは相当なプレッシャーだと

思いますが、若い和尚さん、見事に奮闘していました。


今、アジサイが見頃です。

6月11日(火)


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 今、円覚寺の境内ではアジサイが見頃の時期に入りました。

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 こちらのアジサイはただの白ではない、何とも言えぬ薄い色が含まれて

います。

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 アジサイとひとくちに言ってもよくよく見ると色も形もそれぞれ

違うんですね。改めて気づかされました。皆さんも、様々な種類、様々な色の

アジサイを楽しんでみてください。

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こちらは岩タバコの花です。<龍隠庵参道>

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紅白入り交じった京鹿の子の花。

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お地蔵さまに小さなアジサイの献花。

原点に立ち返る

6月10日(月)


 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 心が外に向かってしまうのは迷い。心を内に向けるのが悟りであると

昔の人はそのように言っています。


 坐禅をして今一度、外のものばかりを追い回すのではなくて、「この見ているものは

何ものか?この聞いているものは何ものか?食べたり感じたりしているものはいったい

何ものであるか?」と立ち止まって考えることが必要です。


 私たちは肝心なものを忘れてはいけません。それはこころがあればこそ、

いのちがあればこそものを見ることができ、外の音を聞くことができ、

舌で味わうことができ、呼吸をすることができると言うことです。


 そのいのち、こころは仏様のいのちでありこころであります。

そのいのち、こころの尊さに気がついたなら、これは決して自分ばかりではない

まわりの人もみんな同じ尊いこころ、すばらしいいのちを持って生きているんだ、

また人ばかりではない、草や木や鳥やけものに至るまでみんな同じこころといのちを

持っているのだとわかります。


 今生きてこうしていのちがあるということ、これほど素晴らしいものはないのです。

ただ、普段、便利さを追究すあまり、何でも手間を省いているような生活ばかり

していると、「いったい何が大事であるか?」「自分が何をしようとしているのか?」

という肝心なところを私たちは見失いつつあるのではにでしょうか?


 食べるということ、いのちをいただいているということ、息をしているということ、

こうして生きているとうこと、いのちがあるとうこと、そしていのちをいただいている

ということ。こういう原点に立ち戻るのが私たちの禅の修行であります。

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今日は円覚寺・大書院に於きまして「大坐禅会実行委員会」が開催されました。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念として平成28年の秋頃に

日本武道館のような大きな会場で何千人もの方にお集まりいただき、大坐禅会を

行うという目的のもと、このような会合が開かれ、様々な意見が交換されました。

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 建長寺の管長猊下をはじめ、各僧堂の老師様など錚錚(そうそう)たるお歴々方

がご出席されました。

 横田南嶺管長からは「今までに坐禅に縁がある方はもちろん、それまで縁のなかった方

にもぜひ参加していただきたい」と仰せになりました。

 「大坐禅会」に対する要望やご意見がありましたら、こちらのブログの

コメント欄にお寄せ下さいますように。参考にさせていただきたいと思います。
 
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 僧堂の雲水さんは、円覚寺境内の梅取りをしていました。この収穫した梅で

梅干しなどを作ります。


 

写経会 始めました。

6月9日(日)


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 今日の日曜説教会後から、円覚寺主催の誰でも参加することが出来る

写経会が初めて開催されました。合計36名の方にご参加いただきました。

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 雲水さんによって、墨のすり方から始まって書写の仕方など一連の詳しい説明

を受けてから書き始めました。

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 参加された方から次のような感想のコメントをいただきました。


「般若心経でなく延命十句観音経にされたことで、写経に慣れていない、そもそも毛筆に馴染んでいない者にとり

ましても試み易いものになっていると、何度も感じながら写しておりました。般若心経に比べ時間もそれほどかか

りませんし、また字数が少ない分、字も大きめなので、とても書き易かったです。

 
 管長様の字は写させて戴いていて、失礼な物言いでないとよいのですが、とても気持ちがよかったです。

管長様の字には生きた勢いがあって、写させて戴きながら、毛筆で字を書く喜びとはこういうことかと思う瞬間が

何度もありました。ありがとうございました。


 墨や硯だけでなく、筆も良いものなのでしょうか、とても書き易かったです。以前若い人がよく訪れるという宿

坊で写経をしたとき墨汁と使い古したようなばさばさの筆を出されてがっかりしたことをふと思い出しましたが、

今回良い品を使わせて戴き、丁寧に日々を営まれている円覚寺の生活の一端に触れさせて頂いたようにも感じられ

て、とても有り難く思いました。


 写経後にあるお寺に伺ったところ、説教会には出て写経は見送った方たちが興味を示されて、いろいろ訊かれた

のですが、皆さんもっと時間がかかって大変そうだと思われていたようでした。写経の案内の張り紙の下にお手本

を掲示するなどされると、これくらいの字数・字の大きさならやってみたいと思われる方は結構多いのではないで

しょうか。」

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ちなみにこれが管長様が浄写された写経のお手本です。

般若心経ほど長くはないので参加された皆様は30分から1時間くらいで

写経することができたようです。

 次は第4日曜日(6月23日)の日曜説教会後10時から12時に開催する予定です。

皆様、ご参加をお待ちしております。

写経始めます。

6月7日(金)


 円覚寺では、6月9日(日)から皆様に写経をしていただけることに

なりました。

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毎月の日曜説教会後の10時から12時に大書院にて行います。

(なお、日曜坐禅会は、通常通り、平行して行われます。)

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白隠禅師がすすめられた「延命十句観音経」を書写していただきます。

 管長様が書写されたお手本をもとに写経用紙に書いていきます。

写経料は納経料を含む一千円です。お手本と使用した小筆は各自お持ち帰り

ください。次回小筆を持参した方は七百円となります。

 総長さんが香りの高い墨と立派な硯を用意してくださいましたので本格的な

写経の気分を味わえるのではないかと思います。

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管長様に手本を見せていただきました。

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方丈の庭園を眺めながら、一時、写経をしてみてはいかがですか。

 なお、座席数(約50席)に限りあり、混雑することが予想されますので

皆様、なるべく分散してご参加くださいますように。

門前托鉢

6月6日(木)


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今日、円覚寺僧堂(専門修行道場)は、円覚寺の門前付近に托鉢です。

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 直日さんを先頭に一番後方には、管長様がおつきになり、総勢15名の

行列です。

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 先ほどブログに「今日はじめて托鉢にお寄りいただきました。

ありがとうございました。」と鎌倉市山ノ内に住む主婦の方から

コメントをいただきました。

(後記)

 今日の写真はI和尚さんに撮影していただきました。

6月5日(水)


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仏性

6月4日(火)


 管長様が企業坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

「もとよりもほとけとおなじわれながら
         なにとてかくはまよいぬるらむ」

私達は本来、諸仏菩薩に少しも異なることの無い智慧の大光明を持ち、

仏心・仏性の真っただ中におります。


しかしながら、水の中で泳いでいる魚が水というものを知らないように、

仏心の中にいて仏心に気づかないのが私達凡夫です。

それゆえ迷いが生じ、悩み苦しみに苛まれています。


「ふかくおもひたけくうたがふこころあらば
         ほとけの性はめのまへに見む」


眼前の対象を見ている者は誰なのか。

今聞いている者は誰なのか。

またこのように疑う自分とはいったい何者なのか。


目前の事柄だけにとらわれず、その根本をたどり、

迷いの本体、すなわち自己を深く掘り下げていけば、

必ず私達の眼前にみほとけの世界が満ち満ちてくる。


私達は普段生活してますと、どうしても目先の利益にとらわれ、

心が曇ってしまいます。


坐禅は、心のゴミをこまめに取り除いてゆき、

本来の清浄なる仏性に目覚めていく修行なのです。


























6月3日(月)


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円覚寺境内のアジサイも全体的に見て3分咲きくらいといったところです。

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今週末あたりが見頃ではないでしょうか。

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 今日は午後からBS日テレの番組「日本100巡礼」撮影でした。

管長様が舎利殿や坐禅の心得などを案内役の女優さんに説明し、

そのあと居士林に移動して実際に坐禅をしてもらいました。

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かなちゃんはいつもの場所でお昼寝中。

神の手

6月2日(日)


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夕日とハスの葉。光の影が、ちょうど掲げた左手の指の先から光を発している

ように見えます。

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アジサイ。うっすらと紫がかっているのがキレイですね。


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小宇宙。

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線香花火のような繊細な花です。

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空に向かって。

ホタルブクロ

6月1日(土)


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 今月の掲示板です。管長様揮毫。坂村真民さんの詩。

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選仏場脇の参道。ホタルブクロが咲き始めました。

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 居士林の庭の梅の木です。実もたわわに、もう少しで収穫です。

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