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いろは2集できました。

5月30日(木)


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 この「円覚寺・居士林だより」をまとめて本にしました「いろはにほへと」

第2集が、様々な方々のご尽力のおかげで今年も出来上がりました。

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 見開きで管長様の法話をまとめたものと円覚寺の四季折々の風景写真が

並んでいます。
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大遠諱(だいおんき)

5月29日(水)


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今日は午前中、遠諱・展示広報委員会に出席して参りました。

遠諱ポスター第1弾も出来上がり、円覚寺派の末寺にお配りしました。

 平成30年が釈宗演老師がご遷化になって100年、平成31年が

大用国師の200年となります。

 釈宗演老師は、明治時代の円覚寺の老師で夏目漱石が参禅をしたこと

で有名です。その体験をもとに漱石は「門」を書きました。また、シカゴの

万国宗教大会で講演をし、欧米に「ZEN」を紹介したパイオニア的存在です。

 その講演を翻訳したのが、有名な鈴木大拙さんです。


 大用国師は江戸後期のお方です。当時、廃寺寸前まで荒廃していた円覚寺を

様々な辛苦を経て再建を成し遂げたらました。特に円覚寺の修行道場を再興し

まさに円覚寺にとっては「救世主」のような老師です。


 現在の円覚寺があるのはまさにこの2人の老師のようなお方のおかげです。

これから皆様に、少しでもお2人の功績をお伝えできたらと思います。


 また、遠諱に合わせて受戒会も行われます。そのほかに博物館での

「円覚寺展」なども予定しております。随時、遠諱の関する情報を

皆様にお知らせできたらと思います。

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ネコの経行

5月28日(火)

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 文京区・白山神社を通りかかりましたら、

ネコが本堂のまわりを経行(きんひん)中でした。

ちゃんと足もしっぽもそろえて、歩く坐禅をしていますね。

本性に目覚める修行

5月26日(日) 月並大接心・最終日


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管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 各々持って生まれたものは仏心であります。仏様のこころと私たちのこころと

何ら変わることはない。その本心を見失い外の世界に振り回されたのが迷いの

世界です。


 外の世界をいくら研究し究めて、科学技術を発達させて、いろんなものをこれ以上

こさえようと、作ったものに人間がもう手を負えなくなってきているのではないか。


 外に向かう心を改めて、私たちはもう一度、内へ、つまり自分の本心に立ち返る工夫を

しなければならない。自分の本心に目覚める修行でありますから誰でもできるのです。


 もともと本心から迷いの心を起こしたわけだから、もと来た道をたどれば、本心に

至ります。

姿なき こころと知りて 使いなば

        広き宇宙に みちわたるらん


 その本心は仏様のこころと一つ、仏心・仏性は天地に満ちたもの、広い

宇宙に満ちわたったこころです。
 

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(後記)

今日の提唱の中で管長様が神道の身中祓詞(みなかのはらいのことば)という祝詞

を紹介されました。私たちのこころの本性には何のけがれもないことを言っている

祝詞です。以下、全文です。カッコ内は管長様の解説。

「天照坐皇大神の宣く。人はすなわち天下の神物なり。

(私たち人間は神様が作ったものであるという。)

須らく静まることを掌るべし。心は則ち神明との本の主たり。

 わが心神を傷ましむることなかれ。

(心はその神様の主である。心が神様を作り出す。十牛図にも私たちのこころは

諸仏の源であるとあります。この心と神様は一つのもの。だから、この心を

傷つけたり穢したりしてはいけない。)

是の故に。 目に諸々の不浄を見て心に諸々の不浄を見ず。

(目でどんな穢れたものをを見ても心では何の穢れも見ていない。)

耳に諸々の不浄を聞きて心に諸々の不浄を聞かず。

(耳でどんな穢れたものを聞いても心には何の穢れも届かない。)

鼻に諸々の不浄を嗅ぎて心に諸々の不浄を嗅がず。

口に諸々の不浄を言ひて心に諸々の不浄を言わず。

身に諸々の不浄を触れて心に諸々の不浄を触れず。

意に諸々の不浄を思ひて心に諸々の不浄を想はず。


比時に清く潔よきことあり。

諸の法は影と像の如し。

清く浄ければ仮にも穢るることなし。

(世の中のことは影、形が鏡に映るようなもの。

どんなに穢れたものを見ようと聞こうと、影が鏡に映るようなもの。

鏡は映すだけでそれ自体は汚れないように心の本体は何の穢れもしない。)

説を取らば得べからず皆花よりぞ木の実とは生る。我身は則ち六根清浄なり。

六根清浄なるが故に我が身中主安らかなり。

我が身中主安らかなるが故に天地の神と同根なり。

天地の神と同根なるが故に万生の霊と同体なり。

万物の霊と同体なるが故に為すところ願ひとして成就ずといふことなし。

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私たちのこころは晴れ渡った空。

5月25日(土) 月並大接心・6日目


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 管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 この声を聞いているものは何ものか?臨済禅師はそれを仏であると言いました。

聞いているものは何ものであるか?この体が聞いているのかというと、この肉体の

どこを切ったところで聞いているものは出てこない。


 昔の人は心というと心臓を思い浮かべましたが、それはポンプのようなもの。

それでは脳みその中にあるのかというと、脳は神経が電気回線のようにはりめぐして

いるだけで聞いているものはそこには見当たらない。


 しかし、何の姿かたちはないけれど明らかに聞いているものがある。それを

しいて言えば、仏心・仏性・生き通しものであると言えるのでしょう。


 聞いているものは何ものであるのか?をずっと究めていくと見ているもの

聞いているものがなくなってきます。見るものも見られるものも全く消え果て

しまう。


 煩悩が起こる様子というのは、ちょうど晴れ渡った空に雲が起こるようなものです。

煩悩はもともとそこにあるものではない。澄み切った空にポッと雲がわき起こったような

ものです。


 晴れ渡った空が私たちのこころの本性なのです。その晴れ渡った空のようなこころに

ふれることができて、「澄み渡った一面の空があるだけであった!そこには我(われ)と

いうものはどこにも見当たらない」と気づくはずです。


 我という 小さき心を 捨ててみよ

      三千世界に みつるいのちよ

とこの消息を歌にしています。


 また、別の歌に


 もとよりは 仏と同じ 我ながら

       何とてかくは 迷いぬるらん

 もとは仏様と同じであるはずなのにどうしてこんな風な迷い自分と

なってしまったのか。という歌です。こんな自分ではいけないと発憤しなければ

いけません。


 こころの本体は何であるかと深く思い聞いているもの、見ているものは

何もであるかと強く疑う心があれば、仏は必ず目の前にあらわれるのです。


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いのちの手を伸ばす。

人間の心というものは・・・

5月24日(金) 月並大接心・5日目


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ヤマボウシ <黄梅院>

 管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 人間の心というものは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、

声聞、縁覚、菩薩、仏の全部それになる可能性を持っているます。


昨日、古い山田無文老師の本を調べていましたら、こんな和歌が載っていました。

やがてして 月の世界に 遊ぶ日も
 
      ありなむ 人よ あらそうなかれ

 昭和四十年頃の歌です。昭和四十四年アポロ11号が月に着陸しました。

もうやがて、月の世界にもたどり着くであろう。お互い人間、あらそう

ことはないようにという意味ですが、確かに、今や飛行機で空を飛ぶのは

当たり前テレビやラジオどころか、インターネットで世界のこともわかる、

当時の無文老師も思いもよらぬほど、世界は発展しました。


 しかし、人の心はどうでしょうか。近隣諸国との領土の問題など、

ここはオレの領土と言い争ってあまり、原始時代とは構造はかわりません。

世界を見渡しても、悲しいかな、争いはなくなる気配もありません。


 時には菩薩のように尊いこころになったかと思えば

また修羅のごとくに、いがみ合ったりしてしまいます。


 今日のように科学技術がいくら発達・発展をしても不安というものは

なくなりませんし、争いも絶えません。こんな狭い僧堂でもささいな

争いごとは絶えません。


 しかし、私たちはお釈迦様の弟子として仏道の修行をしている者です。

めいめいの仏心に目覚めるというその為に修行をしている。戒律はたくさん

ありますが仏心を傷つけない、仏心をくらまさないというそのことさえ心に

おけば、戒律は自然と守ることができる。


 仏道の修行は各々持って生まれてきた諸仏と同一体の仏心の尊さに目覚めて

それを傷つけ、くらませるような行いは決してしないことです。仏心を活かし

目覚めて努力をしていく。


 たくさん公案(禅の問題)があるのも、様々な戒律や経典があるのも

みなこの仏心に目覚めさせりためのもの。仏心一つに目覚めていく。

その根本に立ち返っていかなくてはならないのであります。


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ヤマボウシは遠くから眺めると雪が積もった様です。

外に向かうは迷い

5月23日(木) 月並大接心・中日


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円覚寺境内もアジサイがちらほらと咲き始めました。


 管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちが持って生まれたこころというのは、みんな仏様と同じこころです。

そんな尊いこころを持っているのにどうして現実は、こうな風になってしまうのか。

それは、一心の向けようによって迷いの凡夫となり、仏となるからです。


 こころをどこに向けるか?です。迷いというのはこころを外の世界ばかりに

向けることから生まれます。外の世界に向けるから、むさぼり、いかり、愚痴、

愚かさが増長してしまう。


 そして、せっかく持って生まれた仏心一つの尊さがわかっていないから

外のものばかりにとらわれてしまう。まず、自分の本性・仏心に目覚めて

そうして外の世界に引きずり回されないことが肝心です。


 親が生みつけてくれたものはこの仏心一つしかない。この仏心に外のものが

欲しい欲しいとどん欲の心を増長させ餓鬼の世界を作り出し、あんにゃろ、

こんにゃろと憎しみいかり心で修羅の世界を作り出してしまっている。


 外のものはどうであろうと一切執着を起こさない。この私たちの持って生まれた

尊いこころにまず目覚めることが大切であります。


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 今朝は暁天坐禅会の担当でした。16名の方がご参加くださいました。

最近、暁天坐禅会が終わって宗務本所に帰ってくるとだいたい、

かなちゃんがエサをもらうのを待っていてくれます。

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キャトフードをお皿に入れてあげると一心不乱に食べて

いつに間にか、どこかに去って行きます。良い境涯ですね。

苦しみを見る人

5月22日(水) 月並大接心・3日目


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ユキノシタ <黄梅院>


 管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 念起則覚(ねんきそっかく)、念の起こる様子に気づけという言葉が

あります。この言葉を聞いて思い出すのが、ある事故で首から下がマヒをして

しまったタイの体育の先生の本です。

 
 その方が仏教を学んで救われていく様子が描かれています。その方は、もちろん

坐禅はできない。そこでタイのお坊さんは次のように指導をしました。様々な

思いや考えや自分の体に起こる苦しみの様子をしっかりと観察してそれに気づけと。

ただ、それだけを教えました。


 そう教わって、この方は、自分の体が動かない絶望のどん底の中で、自分自身の様子を

きちんと観察することに徹しました。そして、まず、気づいたことは、「どうしてこんな目に

遭ったのか」「元気な体に戻りたい」などという自分の思いや考えが自分自身を苦しめている

ということでした。


 そして、さらに何年もずっと繰り返し繰り返し自分の心のうちだけを観察していると

この思いや考えは何の実体もない、しかし、その実体のないものに自分が引きずり回され

苦しんでいるとわかったのでした。


 考えや思いが起こる様子はあたかも大空に雲がわき起こるようなものです。その中に

自分が取り込まれてしまったら苦しみに陥ってしまう。しかし「即覚」です。冷静に

観察をする。そうすれば、思いや考えは心に現れた一つの現象にすぎない。心の本体

そのものでは決してない。


 つらいとか苦しいという感情は、空っぽの心が先にあって、そこにお客がやってくる

がごとく、ふっとわいてくる。そして用事が済んだらお客がさっていくように、

さんざん考えた末に、思いや考えは消えてしまう。


 その様子を繰り返し眺めながら自分の心が思いや考えに占領されないように

しっかりと気がついて守らなくてならない。これをやっているうちにその方は

自分は苦しみの人ではない。確かに体は苦しみかもしれないが私の心は何の

苦しみも傷もついていないと気づくのです。


 諸行無常 是生滅法という言葉がありますが、よく誤解をされて

使われています。諸行無常とは物理的にものが移り変わることだけを

言っているのではありません。


 諸行の「行」とは、心のハタラキです。念がわいて起こって持続させるハタラキをいう。

思いや考えを引きずる、持続する様子です。これが無常であると言っているのです。


 思いや考えは生じては滅する、ただ、それだけのものであるということです。

そして生じて滅し終わったら、心の本体は常にきよらかで安らかな、涅槃寂静

であると。それは私たちの心の様子です。


 そのタイの方は自分の念がわいてくる様子を観察することによって、

苦しみに引きずられる人でなく、苦しみがわいてくるのを見る人、

見定めることができるようになりました。


 その瞬間、私のこころには何の苦しみもない、何の障害もないと気づいた

のでした。


 






 
 

青空にわく雲ようなもの

5月21日(火) 月並大攝心・2日目


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ハクロウヤナギ <黄梅院>

 管長様が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 心がすべてを作り出す。この私たちの一念・思いが起こって様々な世界を

作り出すのです。


 昨日スポーツ選手のことをお話ししましたが、その方にまた、次のような

ことも申し上げました。無心になるのはなかなか難しい。それよりも雑念が

わいたときにその雑念の起こる様子をよく観察してみてはどうかと。


 どういうときに雑念が起こるのかその様子をよく観察し自覚することが

大事です。人間生きている間、念がなくなることはない、わいてくるものです。

だから、退屈もせずにこうして生きている。


 念のわいてくる様子に気づく、念の起こる源は何であるか?それは

よそから起こるのではない。ちょうど晴れ渡った青空に雲が起こるようなもの。

青空は私たちの本心・本性・仏心です。


 仏心の中で、ちょうど青空に雲がわくように、一念・思いが生じる。

その一念が向かうものごとに対してむさぼり・いかりなどになって様々な

世界を作り出す。


 しかし、いくら雲に覆われたからといって空がなくなるわけことはない。

私たちは、そのうちに必ず晴れるということを知っている。私たちの念も

雲を見ているのと同じです。雲が浮かんでは消えていく景色のようなものです。

そこに実体はありません。


 念が起こる源をたどっていけば、そこは生ずることもなく、滅することもない

仏心一枚の世界です。どんなに念が起こったとしても、朝比奈宗源老師の言葉を

借りるならば、仏心には罪やけがれはとどかない、仏心は常にきよらかで安らかで

私たちはその中に生まれ息をひきとる。どんな姿をしていても仏心であった。の

世界です。


 そう徹することが私たちの修行の根本であります。

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舞子アジサイ



 


 




無心を求めて

5月20日(月) 月並大接心・初日


 管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。


 昨日、大きな大会でも実績をあげられた、現役のスポーツ選手にお会いする機会

がありました。話を聞いてみるとその方は坐禅がしたいのだという。

何で坐禅なんですか?と尋ねると無心を求めたいとお答えになりました。


 その競技というのは、特におなかにグッと力を入れることが大事で、

丹田に力が入っていないと話にならない。そしておなかに力を入れていても

ほんのわずかでも呼吸が乱れ雑念が湧いてくるとうまくいかない。


 それで本当に無心になる工夫をする為に坐禅をしたいのだとおっしゃいました。

このような方の工夫はごまかしがきかない。ほんのわずかでも雑念が混じって

しまったら、すぐに結果に出てしまいます。


 こういう一般の人が無心を求めて坐りに来るのです。本当に無心になるというのは

どういうものか?という疑問を持ち坐禅を求めてくる中で、我々、坐禅を専門として

修行しているものが、座布団の上で雑念・妄想、はたまた眠りこけていたのでは

大いに反省をしなければならないのではないでしょうか。


 私はその方に申し上げたんです。本当に無心になることは誠に難しい。

私も何十年坐禅をしていますが、はたして本当に無心になったのかわかりません。

だから、今なお無心を求めて日々修練をしています。と。


 我々は、無心に向かって自分の身を削ることを惜しんではいけません。


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ガクアジサイの変種、甘茶です。<黄梅院>

何気ない日常の中に

5月19日(日)


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 我々は坐禅の修行だ、仏法だと言ってますが、何か特別なことをして

何か特別な経験をしなければいけないというわけではありません。

本当のところは何の特別なことはありはしないのです。


 何か特別なことがあると思い求める心こそ一番の迷いのおおもとです。

何やら特別なことはありやしないかと探し求めるこころがなくなったとき

はじめて、安心、満たされるものがある。


 真理というものは朝から晩まで説きづめに説いている。行じづめに

行じている。何も禅の修行といってこうしてこの居士林に来て着物を

着けて袴をはいて難しい顔をしているばかりが修行ではありません。


 電車に乗っているとき、おうちでご飯を食べているとき、TVをみながら

くつろいでいるとき、ぐーすか寝ているとき・・・などみんな禅の暮らし

です。禅そのものを行じている様子です。


 毎日の暮らしの何気ない一言、何気ない動作、たとえば、朝だったら

おはようございます、ごはんを食べるときはいただきます・・・など

何気ない暮らしの一つ一つにちゃんと仏心が光輝いている。


 そういうところにはっと気が付いて、この何気ない暮らしの中に

どれだけ深い感謝の気持ちに満たされるかです。私は修行の深さという

のはそういうものだと思います。


 何気ない暮らしの中でどれだけ感謝に満たされ周りの人に対して

思いやりのこころ、祈りのこころに満たされているかです。そのことに

気づくことが、しいて言うならば「悟り」ではないでしょうか。


 数を数えたりなどいろいろな呼吸法がありますが、それは外に

向かってはたらくこころを断ち切る為には非常に有効ですが、

やはり究極のところは何気ない呼吸が理想なのだと思います。


 何気ない呼吸の中にこそお釈迦様の説法が見事にはたらいている。

それに気が付かんが為にいろいろな呼吸をして意識を向けさせている

のです。


 いたるところ日常の一挙手一投足、何気ない一呼吸、何気ない一言

・・・などにキラキラと光り輝くものがある。

(後記)

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 珍しいものが発見されました!雲水さんが円覚寺山内の妙香池を掃除して

いたら、何と!鈴木大拙居士の犬の首輪に着けていたであろう身分証の

金属が見つかりました。「雑司ケ谷五百七十二番地 鈴木貞太郎 飼犬」と

刻まれています。

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裏には犬の絵が。大拙居士ファンにはたまらない発見ですね。 

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 明日から26日まで円覚寺僧堂(専門修行道場)では1週間の集中修行期間

(月並大接心)に入ります。




 





拝みたくなるような・・・

5月17日(金)


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 早朝6時ごろの円覚寺参道です。朝日が差し込み、神々しい風景が

現出していました。

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思わず、手を合わせて拝みたくなるような光景です。

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(後記)

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 ひこばえとぐっすり眠るかなちゃん。こちらも拝みたくなるような

寝顔ですね。

夕化粧

5月16日(木)

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今、円覚寺山内・龍隠庵さんでは夕化粧(ユウゲショウ)が見頃です。

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 午後遅くに開花することからこの名前がつけられたそうですが

実際には昼間でも開花しているものもあります。

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 米大陸原産で明治時代に観賞用として移入されたものが帰化したもの

だとのこと。

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 夕方からは月1回東慶寺さんを会場として行われる円覚寺開山

無学祖元禅師の語録を学ぶ会でした。床の間には管長様が東慶寺の

副住さんの為に揮毫された無学祖元禅師の漢詩が掛かっておりました。

会が始まる少し前から雨が降り始めました。

 夕方に 夕立に遭う 夕化粧

でした。

祈りの力

5月15日(水)

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<方丈の池> 最近、つがいのカモの姿をよく見かけます。

今日は僧堂(専門修行道場)の講中斎という行事でした。

 毎年5月15日に僧堂を支えてくださっている方々をお招きして

日頃のお世話になっていることに感謝をする日であります。

 雲水さん手作りの昼食を食べていただいて、法話、法要に

参加していただいております。

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 管長様が法話をされましたのでまとめてみました。

 
 人生、行き詰まり、自分はもうだめかというような、いよいよ

どうにもならない時に私たちを支えてくれるものはいったい何でしょうか?


 それはその人を祈るこころであろうかと思います。たとえば母親が

自分の子どものことを思い祈るこころです。祈りのこころというのは

目には見えない。


 また、子ども本人が気がついている場合もあれば、そうでない場合もある。

しかし、気がついている、ついていないにかかわらず、こういう祈りのこころと

いうのは必ず本人に伝わるものです。


 そして本人がいよいよ行き詰った時に大きな支えになるのだろうと思います。


 私たちはいよいよどうにもならない時にこそ幼いころの思い出がふと頭に

浮かびます。親のことを思い出します。そういうことをふと思い出すということは

やはり、目に見えないところで祈ってくださっている人がいるおかげなのだろうと

思うのです。

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 私たちは一人一人の力ではたいへん弱いものです。それが大勢の人に

支えられて今こうしてあります。大自然、草や木や鳥、虫などの姿に

そして、また、目に見えない祈るというこころに支えられて生かされて

いるのです。


 私たちも誰かの為に、身近な人、被災地の人、困っている人などの

為に、祈りを捧げましょうではありませんか。それは決して無駄では

ありません。必ず大きな力となりうるのです。

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ネコの額ほどの・・・

5月14日(火)


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 今日は、黄梅院の小さな畑に、キュウリ、ナス、ししとう、ピーマンの苗を

植えました。

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 管長様から、「どんなに忙しくても、たとえ小さくても構わないから、

禅僧は畑を耕さなければならない」と和尚になって間もない頃に教えて

いただきました。

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 それから、毎年、本当に細々ではありますが、この時期に苗を植えるように

しています。野菜を育てることから学ぶことは、実に多いですね。

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 最近、糠床を手に入れました。便利なもので、スーパーで糠床がそのまま、

売っているんですね。ビニール袋に入っていたので、プラスチック容器に

移し替えて使っています。この大きさですと冷蔵庫にも入りますので

いたみにくいです。キュウリ、ナス、ニンジンなどを切って入れておくだけで

翌日または翌々日には、シンプルでヘルシーな一品が出来上がります。

 糠漬けは、野菜そのもの味を最大限活かして食べることのできる、

まさに日本人の知恵の結晶のようなものであるとしみじみ感じます。

 今回植えた野菜たちで糠漬けを食べる日が来るころが、

今から待ち遠しいです。

 みなさんもぜひ、試してみてください。

 

ツバメ・坐禅会

5月13日(月)

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今朝、仏殿での暁天坐禅会の時に、床に草交じりの土のかたまりが落ちていたので

なんだろうと思いきや・・・

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上を見たら、梁にツバメが巣があるではありませんか。

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 オスとメスのつがいが交互に訪れては、口にくわえている土で

巣を作っていました。

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 ツバメの口でくわえられる土の量は、ほんのわずかですので、

何度も何度も飛来しては巣を作ることを繰り返していました。

 窓際で坐禅をしている人の横をスルーッと通り抜けては巣に向かう

姿はなかなか風情のある風景でした。





インダラ・ネット

5月12日(日)


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<紫蘭>

管長様が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 華厳の教えに、帝釈天の宮殿には因陀羅網(いんだらもう)という大きな美しい

網がかぶせられているとあります。この網は平たいものではなくて、ちょうど

ジャングルジムのような立方体のものです。


 その網の結び目ごとにきれいな珠が一つ一つついている。そうすると一つの

珠の光というのはめぐりめぐってあらゆる全体の珠と映りあう。そして、また

あらゆる珠の光が一つの珠と映りあう。


 どの珠もつながりあっているいて、一つだけ取り出すということはできない。

一つの珠の光が全体の珠の光へと輝き、映りあう。こういうものの見方です。


 そして世の中に存在している私たちのいのちも皆さんのいのちも、木や草や

島にいたるまで、別々のいのちのように見えますが、実は、網の目の珠のように

つながっていて別々のものは一つとしてないのです。


 お互いが支えあいながら存在するのであって一つだけ取り出すということは

できない。私という一人の人間もあらゆる人、全体と関わり合いながら生きている

生かされているという教えです。


 その網の目全体と関わり合って、その網の目全部をひっくるめて仏と言ったり

毘盧遮那仏というのです。大きな仏様のいのちとは、あらゆるいのちのつながり

あった全体をいうのです。


 この頃、科学の世界でも地球を一つのいのちだと言ったり、あるいは大宇宙も

一つのいのちであるというものの見方があります。まさに華厳の見方に通ずる

ものがあります。


 この地球も宇宙も丸ごと一つの大きな仏様のいのちである。その大きないのちの

中で自分自身、一つのいのちを一部をいただいて生かされている。大きな仏心の

中でお互いが合い関わりながらこのいのちをいただいているのです。


 それぞれが相手に対して光を与え思いを伝えながら、照らしあいながら

この全体が生きているのです。こういう教えが華厳の因陀羅網です。


  栂ノ尾の明恵上人という人は、(人ではなくて)島(そのもの)に対して手紙を

書いたという記録が残っています。華厳の教えを学んで実践している明恵上人に

とっては、道端に咲いている花だろうとその辺に寝ている犬やネコだろうとあるいは

遠くの島であろうと自分と関わりのないものは一つとしてないのでしょう。


 むしろ、私と同じ一つのいのちであるという平等のものの見方です。それが島で

あろうと気持ちを通わせることのできるものであったのです。同じいのちであるから

明恵上人のとっては実に自然な当たり前のことであったのです。


 何を見てもどのものをとってもそこには仏様のいのちが宿っている。ですから

あの島も私たちのいのちも他ではない。そういうものの見方です。


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<なにわいばらとハチ>

(後記)

 昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部76名、2部56名、

今日の午後からの蔦禅会は20名がご参加くださいました。

皆様、ご参加いただき誠に有り難うございました。

招霊(おがたま)の花

5月10日(金)


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今年も黄梅院に招霊(おがたま)の花が咲き始めました。

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この香りをお伝えできないのはとても残念ですが、まさしく

御霊をお招きするような高雅な香りです。

黄梅院の境内に入るとかすかにその香りを感じることができます。

和名は神道思想の招霊(おぎたま)から転化したものだそうで、

榊(さかき)の自生しない地域では神前に供える玉串として代用されたり、

神木として神社の神域に植樹されることもあるそうです。

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ひらひらと蝶が。

(後記)

 明日の居士林での土曜坐禅会2部は、管長様に無門関提唱をしていただく

予定となっています。これで丸4年間以上提唱をしていただいた無門関も

今回が最終章です。なかなか感慨深いものがあります。

なお、次回からは新たに、臨済録を提唱していただく予定になっています。

 皆様のご参加をお待ちしております。

白山道場・龍雲院お施餓鬼

5月9日(木)


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 今日は、管長様の兼務寺である白山道場・龍雲院のお施餓鬼でした。

龍雲院は渡辺南隠老師中興、小池心叟老師再中興のお寺です。

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 お施餓鬼は、仏壇と反対側の外に向かってごはんや海産物、野菜などが

ささげられた棚を設け、自分のご先祖様はもちろん、有縁、無縁のあらゆる生きとし

生けるもののために食べ物を布施しその霊を供養する儀式です。
 
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 12時50分から管長様による法話。

100人以上のお檀家さんがお集まりになりました。

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 管長様の受業師であられる龍雲院前住・小池心叟老師の遺徳を偲ぶお話を

されました。

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 法話後、古今亭志ん橋師匠による落語。

小池老師からの深いご縁でもう20年以上、お施餓鬼で落語をされています。

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13時から大施餓鬼法要。円覚寺派東京教区和尚様ら15名が参列。

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水向け。施餓鬼棚にむかってお水を捧げます。

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行道(ぎょうどう)。諷経をしながら堂内をまわります。

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 最後に法名簿を読み上げ、三界万霊十方至聖の為にご回向を

します。



飯舘村の暮らし・写真展

5月8日(水)


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 今日から12日(日)まで円覚寺塔頭・如意庵さんを会場とし、

「飯舘村の暮らし」写真展が催されています。時間は、10時~16時

(最終日は15時)。総門入り口で通常の円覚寺拝観料(300円)を

おさめた方なら誰でも入場できます。

 浪江町に住んで看護師として働きながら、折に触れて飯館村に通い、

山里の暮らしを撮り続けてきた、管野千代子さんの写真展です。

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管野さんは、現在、福島市に仮住まいしながら、定住の地を探しているそうです。

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 写真には、飯館村の人々の、震災前の豊かな暮らしの営みが

活き活きと写されています。大自然の中で生まれ、大自然の中で恵みを

いただいて生き、そして大自然に帰っていく。そんな大自然と一つになった

生活がうかがわれます。そういう生活をしている人のなんと表情が豊かで

活き活きしていることか。

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 そして、それが原発事故によって失われつつあるという事実に私たちは

目をそむけてはならないと思います。

 ちなみに5月9日は14時から管野千代子さんによるギャラリートークを

予定しているとのこと。皆様、ぜひ、ご高覧くださいますように。

庭石菖(にわぜきしょう)

5月7日(火)


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庭石菖(にわぜきしょう)というそうです。(himeuzuさん、ご教授有り難うございました。)

<黄梅院>

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明治の中ごろに北米から日本にやってきた帰化植物とのこと。

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石菖の葉に似ていることからこの名が。

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いのち、きらきらですね。

大托鉢

5月6日(月)

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今日、円覚寺僧堂(専門修行道場)は門前に托鉢です。

先頭の直日さんから最後方の押手(おして)の管長様まで総勢20名の

大托鉢です。(全員を写真におさめようとしたら人物がこんなに小さく

なってしまいました。)

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 托鉢は1軒1軒くまなくまわり、お宅の前で四弘誓願文というお経を唱えます。

托鉢中も坐禅をしているときと同じように呼吸を調えます。そうしないと、

鎌倉は坂道が多いので呼吸が乱れ息が切れてしまいます。息が切れてしまったら

お経も読めません。托鉢修行という言葉があるように、文字通り、托鉢は修行なのです。







無功の功、無力の力

5月5日(日)


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 禅では「無事」とは、求めることをやめることをいいます。

悟りとは何ぞや?仏心とは何だ?と求めることをやめて身を解き放っていく。

何かをつかまえよう、つかまえようとすることばかりを工夫をするのではなく

時には、無事に解き放ってやってみればかえってわかるのではないでしょうか。


 無功の功、無力の力という言葉があります。みなさん方のように一生懸命坐禅を

しているばかりが仏心・仏性なのではありません。無力の力なんていうのを学ぼう

と思えばあの(円覚寺にいる)ネコを見るのが一番です。


 あれは無力に徹している。私たちもとてもあそこまでは及びません。

全く無抵抗で、全く無力で、全くこの飾り気がない。今、ここに(居士林に)

来る途中も道のど真ん中にはらを出して寝ていました。


 なんとも無防備な姿なのですが、誰にもおそわれはしない。逆におそわれるどころか

みんなにかわいがられ、喜ばれています。あそこまでいけばたいしたものです。


 気張って坐禅をしているばかりが仏心なのではありません。あのネコは

無功の功、無力の力、仏心・仏性の真っ只中で見事にさらけだしている。

そういう姿に見えませんか?

 
 ネコであれば歯を食いしばってネズミを追い回していなければネコではない、

あれはだめなネコだといえますか。それは狭いものの見方です。


 年老いて、道にゴロンと横になっているネコは、無功の功、無力の力、

仏心・仏性の真っ只中に身をされけ出している姿そのものなのです。

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かなちゃんもとうとう管長様の法話の話題になりました。

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つゆ草。

(後記)

 大勢の方々がお見えになっている国宝・舎利殿特別拝観も今日で終了です。

拝観できるのは16時までですので、まだの方は、お早めに。

 昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部96名、2部58名でした。

たくさんの方々がご参加いただき、誠に有り難うございました。


国宝舎利殿特別公開・初日

5月3日(金)


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 今日から円覚寺・国宝舎利殿の特別公開が始まりました。

5日(日)までは舎利殿の間近でお参りすることが出来ます。

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 朝から実に大勢の参拝の方々がお見えになっていました。

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 中央にぽつんと位置するのが舎利殿です。谷戸と呼ばれる

丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形に建てられいます。

円覚寺がいかに自然に恵まれているのかわかりますね。

ちなみに舎利殿は真南に向かって建てられていますので、背景の

山上にはちょうど北極星が表れます。視覚的には、星たちは

不動の北極星を中心に回りますから、不動の象徴ということで

なかなかロマンのあるお話です。

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 御朱印書きの和尚さん、雲水さんも忙しそうに筆を動かせて

いました。最近、「御朱印ブーム」なるものを感じます。

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舎利殿拝観の特別御朱印「舎利瞻礼(せんらい))」

瞻礼は、仰ぎ見て礼拝すること。

 今、総門入り口近くの売店にて円覚寺音声ガイド(有料)を

貸し出しをしているそうです。円覚寺内にある建物などの解説を

聞きながら参拝したい人にお勧めです。また、売店では本や葉書、

また、管長様プロデュースの落雁などここ円覚寺でしか手に入らない

各種の「円覚寺グッズ」が取りそろえられています。記念にどうぞ。

 また、明日は、居士林での土曜坐禅会(初心者の部13:10~14:20)も

あり、坐禅も体験できます。

 皆様、週末は円覚寺へお越し下さいますように。

国宝舎利殿特別公開

5月2日(木)


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 明日、3日(金)から5日(日)まで円覚寺の国宝・舎利殿が

特別公開されます。時間は9時から16時まで。総門入り口で、通常の

入場拝観券(300円)をお納めいただいた方なら誰でも拝観出来ます。

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 普段は、舎利殿周辺一帯が専門修行道場ため、残念ながら柵越しに遠くに

舎利殿をながめることができるだけですが

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<専門道場の門> 普段はここまでですが・・・

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 このゴールデンウィーク3日間は、特別に開放され舎利殿の近くまで行き

お参りすることができます。

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 神奈川県で唯一の国宝建築である舎利殿、そして、今現在28名の雲水さんが修行を

している禅の道場の雰囲気に接することができます。

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 舎利殿向かって右の建物は、普段は修行僧が坐っているバリバリ

現役の禅堂です。

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舎利殿は細部もきめ細やかです。弓(波)のような形から弓(波)欄間。

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扇を広げた形の扇垂木。

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 御朱印もいつものの他に特別御朱印「舎利瞻礼」が書かれるそうです。

 また、この日は円覚寺の売店で物品等をご購入をされた方全員に舎利殿参拝記念

ステッカーをお配りするそうです。(ドジョウ居士もご満悦のご様子です。)

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皆様のご来山をお待ちしております。


今月のお言葉

5月1日(水)


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管長様揮毫、坂村真民さんの詩。

(後記)

 今日は、午前中、居士林で淡青坐禅会(20名)でした。

夕方から1泊の大学生坐禅会(18名)が始まりました。

明日は国宝・舎利殿特別公開など、ゴールデンウィーク中の

円覚寺の見どころを紹介します。
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