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そうだ!円覚寺へ行こう!

11月30日(金)


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<僧堂前>

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<正伝庵>

(後記)

 円覚寺境内の紅葉も、ここ1週間が一番の見頃ではないかと思います。

皆様、土日は円覚寺でこの紅葉の美しさを堪能してみてはいかがですか。



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11月29日(木)

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<山門>

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<仏殿>

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<如意庵さん階段から>

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 日を追うごとにモミジが美しく色づいては、散っていきます。

その色彩に美しいと多々感動を覚える時でもあり、散ってしまった

モミジを見ては少し切なくなる季節です。






透き通る黄葉

11月28日(水)


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 毎年、このイチョウの黄葉の美しさには、はっとさせらせます。

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この体 この心 この暮らし

11月26日(月) 月並大攝心 最終日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「この体 この心 この(毎日の)暮らし」ということを申し上げます。

公案(禅の問題)の見解もみなこの中にあります。それを

公案を与えられるとみなさん方はあれこれと何やら考え込んで

行き詰まってしまう。


 しかし、公案の調べは「この体 この心 この暮らし」

これを出るものは絶対にありません。めいめい、この体を持って

生まれ、その中に心があって活動している。この心と体の活動が

毎日、ご飯を食べたり仕事をしたりと毎日の暮らしになっている。


 この体を持って生まれこの心をこうしていただいていて

毎日の暮らしをしている。このことに目を向かせる為に

また、そのことがこれ以上のものはないと気がつかせる

為にあらゆる角度から公案というものを調べていくのです。


 みんな「この体 この心 この暮らし」から離れて別の

ところに仏心、真理、法華の教えなどをみてしまうから

おおもとがおろそかになり、観念や妄想になってしまう。


 臨済禅師は仰せになっています。「ご飯を食べたり、

着るものを着たり、大便小便を出したり、お腹がすいたら

ご飯を食べ、くたびれたらたら眠る、これ以上のことは

ない。多くの人はなんだそんなことかと笑うかもしれない

がわかっているひとは、なるほどとうなずいてくれるはず。」


 ご飯を食べて出すということがどれほどすばらしいことか。

時には坐禅をして、静かに呼吸をして、夜になって疲れたら

眠ることができることがどれほど有り難いことか。このことが

命のおおもとであります。


 こう立ち返ってものを見てみますと、そんなにあわてなくても

穏やかに心になるし、思いやりの言葉も湧いてきます。そして

身近な人といっしょに幸せになっていくことが私たちの目指す

坐禅の修行であります。

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錦繍(きんしゅう)の円覚寺

11月25日(日)

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<大方丈>

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 秋晴れの良いお天気となりましたね。

法華経の中核

11月25日(日) 月並大攝心 6日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 法華経の教えの中核をなす言葉に「十如是(じゅうにょぜ)」という

ものがあります。それを(わかりやすく)次のようにまとめてみました。


「このように 生まれてきて

 このように 生かされて

 このように 生きている

 このように 今 呼吸をしている

 これこそ 仏心 如来 無量の命

 ありがたく 手を合わす」


  法華経の説く「一大事因縁」とは、みんなに仏様の智慧の眼(まなこ)を

開いてもらうことであります。みんな各々、仏様の心を持っている、仏様の命を

いただいているということをめいめいに気づかせてあげることです。


 仏様の智慧の眼とは、仏様の心とは何であるかというと、これが「十如是」

なのであります。


 このような姿・形、このような心、このような身体、このような能力

このようなはたらき・暮らし、このような命・ご縁をいただいて、結局

このような私になっているのです。


 この身体、この心、この命、この毎日の暮らしをしていく

それこそ、法華の真実であります。 


 あらゆるものは、みな仏心の光明で光り輝いているとまずは

感得して、お互い、手をとり、助け合い、思いやりを持って

いきたいものであります。

秋に染まる円覚寺

11月24日(土) その2


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<仏殿>

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<仏殿・居士林側>

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<居士林山門前から仏殿を望む>

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<居士林中庭から>

(後記)

 今日の土曜坐禅会は、初心者の部86名、2部は38名の方が

参加をされました。誠に有り難うございました。

何もかもなげうって

11月24日(土) 月並大攝心 5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 アントニー・デ・メロというインド出身の神父さんに

「何もかもなげうって 死さえもいとわない価値ある宝が

見つかったときこそ 人は本当の意味で生きる」という

言葉があります。


 論語の中には「朝に道を聞けば 夕べに死すとも可なり」と

ありますが、朝、本当の道を聞くことができたら、その晩に

死んでも悔いはないということです。


 孔子という人も自分の命をかけてその道を求めていたという

ことがこの言葉からうかがうことができます。


 お互い、自分のこの人生、何にかけるのか?どれだけ自分の

すべてをそこに打ち込むか?であります。それが人生の深さと

なります。


 命がけという言葉は容易に使うべきではないけれど、はやり

この道に命をかけるとうぐらいの気持ちを持ってもらいたい。


 能力のあるなしというのは、問題ではありません。大切なことは

やらなければならないことを自分が死んでもいい、命をかけるという

志であります。この志こそ大きなものを動かしていく力であります。


 自分に何ができるか?何か力になってあげることはないか?という

願いを持って周りの人に尽くしていく為には、それはあたかも

自分の命をなげうつって戦いにでるのと同じ強い気持ちを

持たなければなりません。

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僧堂山門前から大方丈を望む

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僧堂山門から




無心のはたらき

11月23日(金) 月並大攝心 中日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 三島・龍澤寺の中川宋淵老師がこういう句を残して

くださっています。


 秋ふかく 石がささやく 石の声


 我々は、坐禅をして無心になるというけれど、何も周りのことが

わからなくなる、聞こえなくなるようなことでは決してありません。

むしろ、「石がささやく 石の声」も聞こえてくようにならないと

いけません。


 庭に咲いている一輪の花が語りかけてくる、それに耳を傾ける

ことができる、これが無心の消息でありましょう。


 「語らざるは愁(うれい)無きに似たり」という言葉があります。

お寺には、いろいろな人が来ますが、黙っていて何もしゃべらない方も

います。けれども、そういう方の心の内にある愁や悲しみを察して

あげる、細やかな心配りこそ本当の無心のはたらきであります。


 何にもわからない、気づかない、人が苦労をしていても平気な気持ち

でいるのが無心なのではありません。


 (正しく)坐禅をすればするほど、細やかな心配りができるように

なります。五感、感覚が鋭敏になってくるのが本当であります。


 無心の修行とは、そういう微妙な細かい心配りができるようになる

ことであります。

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こちらの石、開板という木の板を打つ時に足下に

位置して、足を踏ん張る「踏み石」として人様の

お役に立っています。

<居士林>


丹田を練る

11月22日(木) 月並大攝心3日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちは、誰もが例外なく、仏心という尊い心を持って生まれています。

この心は、人を活かす慈悲の心としてはたらいていくこともできる一方で、

扱い方を一つ間違うと、犯罪を犯したり、人様にたいへんな迷惑をかけたり

とどのつまりは、命を殺(あや)めかねないものでもあります。


 仏心とそういった様々な犯罪を犯してしまう心とが別の心であるかと

いうと決して別ではないのであります。


 この心をいかに攝(おさ)めて、よく活かしていくか?これが私たちが

こうして取り組む坐禅であります。


 手を組み足を組み、腰骨を立てて、グッとお腹に力を込めて、細く長く

息をはく。まるで、お腹の中から細い糸をはくかのように、息をはいていく。

お腹、おへその下にグッと力をこめる。そうすると心というものは、自然と

穏やかに落ち着いていきます。


 落ち着くばかりか、お腹の底の方からコンコンと気力がわいてくる。

少々の寒さや眠気を克服していけるだけの気力がわいてきます。

 
 気力がわいてくる源という意味で丹田であります。ひたすら、この

丹田を練ることが肝心であります。

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<黄梅院>




天地一杯の命

11月21日(水) 月並大攝心2日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 仏心は天地一杯の命であります。春になれば、草木に花が咲く

のも、秋にこうして紅葉するのも、虫が鳴くのも、鳥が空を飛ぶ

のも、みんな一杯の命であります。


 草木、虫、けもの、山河大地、みなひっくるめて一枚の仏心です。

仏心の他に蟻のひげ一本もありはしない。この世に、仏心ならざるものは

ないのであります。


 坐禅をして、今まで自分だ自分だと思いこんでいた、この何かかたまり

のようなものがガラガラと音を立てて崩れると「自分は、なるほど、

天池一杯に満ちあふれている、生まれたということもない、死んで

どこかにかくれるということもない、もうこの天地一杯に充満していて

どこにも行きようはありはしない。」という無我の道理に気づくはずです。


 この道理に気づいて「もう、どこにも行きはしないのだ。今に生き通しの

命である。」と自分の身体全体が喜びに打ち震えるでしょう。


 無常であり無我ということは、決して時間的に暗い、物寂しい見方では

ありません。また、涅槃寂静というと、何やら死んで枯れてしまうように

思われがちですが、そうではなく、天地一杯に充満した命の大いなること

深さであります。

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どんな時代であっても・・・

11月20日(火) 月並大攝心初日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 村田和上という方はすべてを捨てて念仏一筋のところが、

私たち禅僧以上に徹底していたので、何人もの禪僧が和上に

問答に行きました。若き日の朝比奈宗源老師もその一人で

ありました。


 ある禪僧が和上に「善悪とは、どういうことでしょうか?」と

たずねました。「何が善で何が悪か?」これは、非常に

難しいことであります。


 「昨是今否(さくぜこんひ)」という言葉がありますが、

昨日まで良いことが今日はもう一変に悪いことになることは

多々あります。


 「何が善で何が悪か?」について和上は、たとえ話を用いて

こうお答えになりました。


{ある町で大火事があって、町の大部分が焼けてしまった。

調べてみると、ある男が保険金欲しさに付け火をしたそうな。

町中の人はみんな怒ってその男を悪魔のように言い立てた。


 ところがあちらこちらから、義援金や見舞いの品、あるいは

補助金が集まって来て、町は前よりも立派になった。となると

町の人々は、前は悪魔呼ばわりしていたのに、今度はあいつの

おかげで町が良くなったと功労者扱いになってしまったとさ、

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。}


 人間の世の善悪とはそういうものであります。

私たちが求めるものは「世の中の善悪にかかわることのない

真実は何であるか?」であります。これは、みなさん、自分で

求めなくてはなりません。


 お釈迦様は、それを無常・無我・戒律の五戒であると仰せに

なっています。どんな時代でも決して移り変わることのない真実

、微動だにしないものを自分で体得していただきたいと思います。

明日から

11月19日(月)


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 明朝から26日まで、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、1週間の

集中修行期間に入ります。

 僧堂師家(指導僧)である管長様をはじめ雲水さん、(在家の)居士

、有志の和尚さんなどが禅堂につめて、坐禅に集中的に取り組みます。

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<参道>

円覚寺 秋百景

11月18日(日)


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<妙香池>

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<僧堂前>

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<仏殿>

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<居士林>

 昨日の大風の影響で、円覚寺境内は落木と落ち葉でいっぱいでした。

早朝から、管長様をはじめ雲水さん、土日坐禅会の参加者、暁天坐の

有志の方などで山内掃除(境内掃除)をしました。おかげさまで、

一般の観光客がいらっしゃる頃には、すっかり、きれいになりました。

 日を追うごとに色づいてくる紅葉、楽しみな季節の到来です。


 午後から、居士林で蔦(ちょう)禅坐禅会でした。蔦禅会は、

ハーバード大同窓会とブラウン大同窓会と居士林が主催となって

行っている坐禅会です。同時通訳(英語)してもらって

指導をしています。


 最初に、坐相説明をしてから、15分の坐禅を3回ほどして、

残りの30分を円座になって質疑応答の時間にしています。


 今日の参加者は、18名でした。同窓生に限らず、ご縁のある

方々が参加をし、8割が日本人の方です。

 
 海外で禅をひろめたのは、円覚寺の釈宗演老師や円覚寺と深い

かかわりがある鈴木大拙さんでした。そういった良い伝統を

少しでも坐禅会を通して守っていけたらと思います。




秋の嵐の中で

11月17日(土)


 今日の土曜坐禅会は、激しい風雨の中にかかわらず初心者の部、

2部ともに30数名の方々が参加されました。本当に足下の悪い中、

居士林にお出でいただき、誠に有り難うございました。

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管長様揮毫。

 今日の風雨で、円覚寺山内は、いたるところ、まさに「落葉多」

の状態です。明日は早朝から、土日坐禅会に参加している居士も、

管長様をはじめ雲水さんといっしょに山内掃除(境内掃除)と

なりそうです。



次の世代に

11月16日(金)


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竜胆(りんどう) <僧堂>


 今日は、午前中、万年会総会に出席して参りました。

万年会というのは、平たく言えば、円覚寺専門修行道場

(通称 円覚僧堂)OB会のようなものです。


 僧堂の正式名称は、万年山 正続院ですから、「万年会」。

ご老僧から若い和尚さんまで38名が参加されました。


 さて、今晩から明日の午前中まで、居士林で「如意団単独攝心」

が行われます。「如意団」は、一橋大学の坐禅部であります。

今回は12名の現役大学生が参加します。


 これからの時代を担う世代の人達に坐禅を体験してもらうことは

本当に貴重なことであります。


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 さて、こちらの写真は、絡子(らくす)の裏に管長様が揮毫

なさったものです。お母さんが赤ん坊に接するような気持ちで、

自分のまわりの人やものをいくつしみなさいという言葉が

書かれています。これがまた、最近、赤ちゃんが産まれたお寺の

奥さんにお渡しするものですから、なかなか、奥ゆかしいですね。







気持ちを込める 

11月15日(木) その2


 管長様が僧堂攝心(先月の10月23日)で提唱されたことをまとめて

みました。


 私たちの何気ない仕草、一挙手一投足というのは、お檀家さんなどに

全部見られているはずであります。ですから、お経だけ読めればいいもの

ではありません。


 お経を読むにしてもどれだけ「今、命あることは有り難いことか」という

気持ちを持って、それに深い感動をしてしみじみ読むことができるかが

肝心要であります。


 坐禅堂に入るときも、ただ形だけ、手を合わせ頭を下げるのではなく、

「坐禅をさせていただいて有り難い、どうか宜しくお願い致します」という

気持ちを込めて合掌低頭をすることが大事であります。


 講座の前に講本(テキスト)をひろげる時も、「この教えをいただいて

本当に有り難い」という気持ちがあれば、講本を押し戴いた時に一瞬止まる

はずであります。この間が大事なのです。「有り難い」という念があれば、

合掌して頭を下げても一瞬止まるはずです。


 あるいは、食事の時、「このようにお粥をいただけて、本当に有り難い」

という気持ちがあれば、手を合わせた時に一時(いっとき)止まる。

そこに気持ちが籠もるのです。

 
 また、我々でも、お布施をいただいた時、「これはこれは、お布施を

いただきまして恐れ入ります」と押し戴いて必ず止まるはずです。



 規則とか型というのは、形だけ教えたり、覚えたりすればそれでいい

というものでは決してありません。「有り難い」という気持ちを込める

ことが大切なのです。


 「有り難い」という思いや念を込めて、ちょっと間を置くこと、

 一瞬止まって気持ちや念を込めることであります。

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万作(まんさく)の葉っぱにも秋が訪れました。

 <黄梅院>





 


 


11月15日(木)

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もう長く使われていない古井戸です。この錆(さび)具合が

何とも寂(さび)を感じさせてくれます。 <正伝庵>

真の宝

11月14日(水) その2


 管長様が前回の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


「オレのだ!オレのだ!」とため込むことばかりに執着していれば

最期死を迎えてそれら手放す時の苦しみははかりしれません。

はじめから無一物というところに親しんでいるのが「禅」の生き方で

あります。


 「何にもないことに楽しんでおれる」という、こういう心境を養って

おれば、「あればあったでよし、なければなくてよし」という心鏡を

養っておれば誠に賢明な生き方です。


 今あなたにとって一番の宝は何でありますか?人に訊けばそれぞれ

言うでしょう。先祖代々伝わっている掛け軸だとか、家屋敷・田畑だ

とか、また、自分の家族だとかそれはわが子であると。


 しかし、一番の宝はこの各々持って生まれたこの命、この心であります。

これ以上の宝はありません。


 お釈迦様は「やがて死するもの、今、命あるは有り難し」という言葉を

遺しています。この「今、命あるは有り難し」ということにどれだけ

深く感動した体験があるかが、お坊さんとして、宗教者として、はたまた

誠に人生を生きるものの値打ちなのではないでしょうか。


 大切なことは、知識が豊富であるとか、財産がたくさんあるとか、

社会的地位が高いとかよりも、真に「今、命あるは有り難し」という

この一事にどれだけ深い感動を持っているかであります。

(後記)

   今までの管長様の提唱で、その時紹介できなかったものを、

   折に触れて、紹介していきたいと思います。

色づきはじめました。

11月14日(水)


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 円覚寺山内もモミジが色づきはじめました。

青空とトンビと黄葉、絵になりますね。

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<龍隠庵>

成佛の姿

11月13日(火)


 管長様が一昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民先生に

{鳴いて 鳴いて 鳴き通し 鳴いて 落ち葉と共に消えていく

 こおろぎたちの見事な成佛}

 という詩があります。


 成佛とは秋の虫のように鳴いて鳴いて鳴き尽くして

自分の命のあらん限りを尽くしていったその姿を言います。


 これから紅葉の季節となります。「円覚寺の今年のモミジは

どうですか?」よく訊かれます。人間は勝手に去年と比べて

どーだこーだと言いますが、モミジにしてみれば、どんな年で

あっても、どんな色づきであっても、その年限りの精一杯の姿

であります。


 紅く色づいた時ばかりがモミジの姿なのではありません。

新緑の時も夏の青葉の時も、落ち葉の時もはたまた、枯れて

しまった後もモミジの精一杯の姿であります。それは命の姿

成佛の姿です。


 私たち人間も苦しんでいる姿、迷っている姿、年をとっていく姿、

病気の姿、そしてやがて死を迎えて、もう一歩言えば、死んだ後ですら

命一杯、精一杯のすがたであろうかと思います。


 モミジが紅や黄に染まって自分のなすべきことを尽くして風に

まかせて散っていくように、私たち一人一人も、欲望や怒りに

振り回されず、自分の務めを精一杯果たして散っていくことが

お互いの真の成佛であります。


(後記)

   寒暖の差が激しい日が続いています。みなさん、体調を

  崩されないよう、お気をつけくださいますように。
 

本当の自分探し

11月12日(月)


 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 心が外の世界に触れて、様々な欲望、憎しみ、怒りなどが起こり、

まるで野生の牛が暴れ回っているようになってしまうと、大切なものを

見失ってしまいます。


 むしろ弱い心、迷いの心に打ち克つ力が必要です。

お釈迦様は、「千人の敵に勝つよりも一人の自己に打ち克つものこそ

真の勝者である」と仰せになっています。


 この自分に打ち克つ、欲を調(ととの)えることこそ私達の修行で

あります。その心を調えることこそまさしく坐禅であります。


 仏の教えは、この心をよく調え、自分にとって一番大切なことは何かを

見つけて、そこに自分のすべてを注ぎ込んで、与えられたこの命を

精一杯生きていく道であります。


 心を調える為に腰を立て呼吸を調えていく。あまり考えすぎると

かえって大切なもを見失ってしまいます。そうせずに、静かに自分の

心を澄ましていく。


 そうすると周りのことがよく見えてきます。そして、「自分がなんと

まわりにわがまま・迷惑をかけていたんだ」とこう気づいたら進歩した

と言えましょう。


 大勢の人のお世話があったからこそ今の自分があるということに

気づきます。そう気づきますと必ず、それらの人々へのご恩返しに

何をして差し上げることができるかと自分で考え求めていくように

なります。


 それが本当の自分探しなのであります。


(後記)

   
  先日、ある方から相談を受けた管長様がご相手の

  お話を全部聴いた後で最後にこういう言葉を掛けられた

  そうです。

  「何もかも忘れる時間を持ってくださいね。」

  仕事のことも家のことも何もかも全部忘れるような時間を。

  釣りでも坐禅でも何でもかまわないから、そういう時間を

  持ってください。と。

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心叟老師7回忌

11月9日(金)


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 今日は、東京・白山の龍雲院(白山道場)に斎会のお手伝いに

行って参りました。龍雲院は現在、管長様が兼務住職をしています。

そのお寺の先先住である研山和尚様の50回忌と先住であり、

管長様の出家・得度のお師匠様であられる心叟老師の7回忌

でした。
 
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 まるで生きてそこにおいでになるかのようなすばらしい頂相が

掲げられていました。

心叟老師は、建仁寺・竹田益州老師の法を継がれた方の一人で、

龍雲院(通称 白山道場)において坐禅会など多くの人々の教化に

尽くされ、まさに「衆生無辺誓願度」の一生を送られました。

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 斎会にあたっての管長様の偈頌です。

恐れながら、意訳してみました。

「今日、研山和尚の50回忌と心叟老師の7回忌を迎えた。

お二人のことをいろいろと思い慕うこの斎会。

いただいたご恩すべてに報いることはかなわないけれど

せめて、今はただ、一握りのお香を焚いてお二人に捧ぐ。」

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 建長寺や京都・東福寺の管長様、祥雲寺の老師様などが

参列され、厳かに式が営まれました。

11月8日(木)


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 思わず心がなごんでしまうような良いお顔立ちをしていますね。

龍隠庵で撮影しました。

11月7日(水)


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 今日は午前中、淡青坐禅会でした。参道脇の生け垣には、

サザンカでしょうか、ちらほらと花を咲かせ始めました。

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まめな人がいるものできれいにお賽銭が積み上げられいますね。

<景福荘入り口>

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紫紺の菊 <龍隠庵>

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 先月、中央公論新社さんから居士林での坐禅などのついて

取材を受けましたが、その記事が載った雑誌が11月5日に発刊

されました。

 担当のライターの方が、それまで何度か土曜坐禅会に参加されて

いた人でしたので、管長様の法話等を織り交ぜながらうまくまとめて

います。ご覧になっていただけると幸いです。

人生はレンタルである

11月6日(火)


 管長様が前回の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 先日、ある雑誌に「人生というのはレンタルである」という言葉が

を見つけました。レンタル、借り物であります。この体、この命は全部

一時(いっとき)いただいて、一時お借りして、一生涯使って、そっくり

そのままお返しするという意味だそうです。おもしろい表現であります。


 あらゆるものはみなお借りしてもとに返すのであります。もちろん

私達の命もそうです。空間的には天地一杯、時間的には過去無量劫である

大いなる命の中から、一時の命をこうしてお借りして・与えられて、

命ある間は精一杯活かして尽くして、あとは大いなる命に帰っていく

だけであります。


 無量の命に仏教では誰でもわかるように阿弥陀様という名前を

つけました。「南無阿弥陀仏」とは無量の命に全部帰って行くという

ことであります。


 そして、この無量の命、どこにあるのかというと、今こうして

見たり聞いたりしている私達の心のはたらきこそがそれであります。

今のこの一念が無量の命そのものなのせす。


 朝比奈宗源老師は、「仏心(無量の命)の中に生まれ、仏心の中に生き

仏心の中に息を引き取る」ということをを坐禅をして悟るのが、

一番だけれども、たとえ、そうはいかなくても、そのことを信じることだけで

悟るのと同じであると仰せになっています。


 その中に あるとは知らず 晴れ渡る

           空に抱かれ 雲の遊べる


 という歌があります。空は仏心・無量の命、雲は私達の

一時お借りしている命であります。

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典座 <僧堂>

(後記)
   
   宝物風入、遠諱委員会が無事に終わり、ほっと一段落です。

  写真は、専門道場の典座(てんぞ)、つまり、台所です。

今でも、薪を使って料理を作っています。


  




遠諱(おんき)委員会 発足 

11月5日(月) その2


 今日は、本山での遠諱(おんき)委員会に行って参りました。

今から7年後、平成31年は、円覚寺中興の祖・大用国師(誠拙禅師)の

200年遠諱にあたり、平成30年は夏目漱石が参禅したことでも有名な

釈宗演老師の100年遠諱になります。そもそも、遠諱(忌)とは、

祖師または故人の遺徳をしのんで寂後、はるか後に行う法要です。


 そこで、その遠諱に向けての第1回目の会合が行われました。

法務、建設、展示・広報・出版の4つの専門委員会に分かれ、

これからの方針などについて話し合われました。


 一、法務委員会は、授戒会、法要、報恩攝心等を担当。

 二、建設委員会は、遠諱にあたって、建物などをを増改築したり

   することを担当。

 三、展示・広報委員会は、ポスター作成、円覚寺の宝物データベース作成

   また、東京国立博物館での「円覚寺展」を目指し活動していきます。

   管長様からは、会発足の冒頭の垂示で、「広く一般に向けて、円覚寺と

   これまで縁のなかった人とも縁ができるように」と仰せになりました。

 四、出版委員会は、誠拙禅師の遺墨集など記念出版にあたります。


 各委員は円覚寺派の和尚さんの中から選ばれ、「円派」をあげて

 遠諱事業に取り組んで参ります。


遠諱委員会が終わったあと、引き続き教学委員会でした。

冊子「円覚」は、次が300号記念号で、朝比奈宗源老師や松尾太年老師

などの選りすぐりの文章を集めた特別版となります。あとは、写真を

つけるなど最終的な段階に入りました。みなさん、次の「円覚」

正月号、こうご期待ください。

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<円覚寺山内・景福荘>

(後記)
 
  今回、有り難いことに展示・広報委員を担当させていただく

ことになりました。早速、子ども向け布教の目玉となる、

 今はやりの、ゆるキャラマスコット「せんとくん」ならぬ

 「おんきくん」を提案しましたが、一笑されてしまいました。






 

   




トム君

11月5日(月)


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 翡翠(カワセミ)のトム君です。(如意庵さん命名)

居合いの達人が剣を抜く直前のような緊張感で、水の中の

獲物をねらっていました。

<妙香池>

(後記)

  平成24年度 円覚寺・宝物風入は、昨日、無事に終えることが

 できました。たくさんの方にお越しいただき誠に有り難う

 ございました。

宝物展 明日で終わりです。

11月3日(土) 宝物風入 中日


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国宝・舎利殿 特別公開中です。

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開山堂(円覚寺開山・無学祖元禅師のお廟)の前に

舎利殿が位置しています。

(舎利殿正面向かって左から撮影)

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(舎利殿正面向かって左後方から撮影)

 宝物風入は、明日の15時半までです。

まだ、お越しでない方はぜひどうぞ。

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 今日の土曜坐禅会初心者の部は、100人を優に超える数の方が

参加されました。居士林に座布団の敷ける限り坐っていただきました。

ご参加くださり誠に有り難うございました。


国宝・舎利殿特別公開

11月2日(金)

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 円覚寺・宝物風入が今日から4日(日)まで行われます。

同時に国宝・舎利殿がこの期間だけ、一般公開されています。

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普段は、舎利殿周辺が修行道場であるため、公開されていませんが、

この期間だけは、間近で舎利殿を拝観することができます。

(舎利殿の建物の中に入ることはできませんが。)

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舎利殿の中の様子です。真ん中に舎利を安置する厨子。

向かって右が観音菩薩、左が地蔵菩薩です。

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朝日射し込む殿内。

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繊細な模様を彩なす天井。

 大方丈での宝物展とともにぜひご覧になってください。

 なお、明日の居士林での土曜坐禅会は通常通り行います。

2部は管長様に「無門関提唱」をしていただける予定です。

 
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