スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

命は一呼吸にあり

10月31日(水)


管長様が先日の企業の坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私達はみんなすばらしい宝を持って生まれて来ているのに

そのことに気づかずに目先の損得に振り回されています。

一番の宝は、私達誰もが持って生まれた仏心です。


 仏心といってもピンとこないければ、この命と言っても

いいでしょう。では、その命とは何であるか?これは、

はたまた、つかまえどころがないように思われます。


 そこで、禅では、「命はこの呼吸にあり」という言葉を

大切にしています。この呼吸に限りない命のすばらしさを

感得していることであります。


 何もかも失ったとしても、何にもものがないとしても、

この一呼吸を楽しむことができる、そういう力を身につける

ことができれば、楽しみの極みであります。


 腰を立てお腹に気力を充実させて、この一呼吸の命をしみじみと

楽しんで味わってもらうのが坐禅の醍醐味であります。


 すばらしい心、すばらしい命、これを持って生まれてきたことに

どれだけ深く感動しているか?これがその人その人の一生涯に

大きな影響を与えて行くものであります。


 私達めいめいのこの命こそ、仏心であり、正しい智慧と深い慈悲を

担ってはたらいていく、何より尊い宝であります。


 このことをまず自分自身が見届けて、そして己の仏心を見失っている

人にも気づかせてあげたいと願う心を持ち続けることが大切であります。


blog-DSC00173.jpg

かなちゃんの最近のお気に入りの場所は、勅使門前の階段です。
スポンサーサイト

宝物風入(ほうもつかぜいれ)

10月30日(火)


blog-DSC00172.jpg

 今年の円覚寺・宝物風入(虫干しも兼ねた宝物の展示)は

11月2(金)、3(土)、4(日)で行われます。

 時間は9時から16時(最終日は15時半までです。)同時に、

普段は一般公開されていない舎利殿を特別に拝観することが

できます。

 週末の予定を考えている方、ぜひ、お寺に足を運んでみてください。

 なお、居士林での土曜坐禅会は通常通り行われます。

土坐2部では、管長様に「無門関提唱」をいていただける

予定になっております。


おかげさまで。

10月29日(月)


blog-DSC00166.jpg

 今日は、さわやかな秋晴れの一日となりました。

黄梅院の庭の秋明菊は、今がちょうど満開です。

blog-DSC00167.jpg

 秋の柔らかな光の中で、白と赤にお庭が彩られています。

blog-DSC00171.jpg

 さて、「円覚寺・居士林だより」をまとめて一冊の本に

しました「いろはにほへと」ですが、おかげさまで

市販することになりました。明日から神奈川県と京都の

大型書店を中心に配本される予定です。また、アマゾン等

ネット書店でも購入することが可能になります。

 みなさんからたくさんのご好評をいただき市販化の

運びとなりました。誠に有り難うございました。

 この本を読まれた方が、少しでも元気になったり

肩の荷がおりたり、癒されたりしていただけたら

何よりの幸いです。





自分探しの旅

10月26日(金) 入制大攝心 最終日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 自分を探す旅とは、この頃言われるような、ただ自分の好き勝手を

すればいいのとは全く違います。「本当の自分探し」の最初は、

己を殺す、つまり、自分中心のものの見方を否定していくことであります。


 その過程は自分を否定するのですから、苦しいものであります。しかし

その苦しみは、我が身をかわいく思う心であり、自分で自分を苦しめて

いるのです。


 修行を繰り返していくと、だんだんと我を離れてものをみることが

できてくる。そうすると、私一人がこうして生きるのにどれだけ多くの

ものが相関わっているのかが見えてきます。


 毎日、何気なくいただいている一杯のお粥に心の底から手を合わせて

いただくことができたら、強いていえば、それが成仏の姿であります。

人間を完成する、本当の自分になることであります。花が花を咲かせる

がごとく、我(われ)が我になる修行です。


 お日様が照らしてくれる、風が吹いている、井戸に水が湧く、

米や野菜がいただける、典座さんが苦労をしている・・・など

あらゆる慈悲の中に私達は生かされているのだとこう気づくはずです。


 そうしますと、必ず私達自身というものが、本来は慈悲の心ではたらいて

いるのが本当の姿であるとわかってくるはずです。


 最後は、我を離れて・忘れて、人の為に街へ行って尽くしていく姿が

十牛図の終わりであります。布袋さんは弥勒菩薩の化身であるといわれます。

弥勒は慈悲・いくつしみの菩薩です。


 これが私達の目指すところであります。

blog-DSC00163.jpg

十牛図 「返本帰源」

blog-DSC00165.jpg

「入鄽(てん)垂手」











10月25日(木) 入制大攝心6日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 どんな川も最後は海に流れ入り一つになるように

迷いや悟り、自分や他人、人も木も鳥も獣に至るまで

みんな仏心の海で1つになるという世界を表しているのが

一円相であります。


 己を無にするといいますが、「無」という字を辞書で調べて

みると、もちろん、「ものがない」と言う意味がありますが、その

他に「豊か」という意味があります。草木が豊かに茂っていること

いう意味があるのです。


 私達の修行は、己を無にするのと同事に「何と豊かなものに

満ちあふれていることか」とこう気づくことであります。


 (円覚寺・前管長様の)栽松老師は、よく一円相を書いてその下に

「おかげさま いっぱい」とお書きになっていました。

 
 栽松老師は、あえて「仏心」と言葉をお使いになりませんでした。

それは、「仏心」という言葉が頻繁に使われていた為に「仏心」と

いうものが何かよそに別にあるもののように思いこんでしまいがち

になるということからでした。


 ですから、「仏心」という言葉を使わずに、もっと身近に感じて

もらえるような言葉である「さまざまなご縁」や「おかげさま」と

いう言葉でご教化をされました。


 この一円相や「無」というのは、単に何にもないのということでは

はありません。実に豊かに満ちあふれているものなのです。


 我という 小さな心を 捨ててみて

  大千世界に みつるいのちよ


 過去久遠劫の遠い昔より生き通しのいのちであります。

blog-DSC00161.jpg

「十牛図」 忘牛存人

blog-DSC00162.jpg

人牛倶忘







念に気づく

10月24日(水) 入制大攝心5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 もう手のつけられないような大きな山火事も、その最初は

マッチかタバコくらいのわずかな火であったはずです。わずかな

火のうちであれば足で簡単に消すことができます。それが気がつかぬ

うちに木から木へと燃え移り、最後は山全体が火の海となってしまって、

こうなるともう手のほどこしようがない。


 「迷い」も似ています。最初は、ほんのささいな一念です。それを

考えに考えて、どんどんと念をつなげて、迷いを自分で大きくしていく。

そして気づいた時には自分ではもうどうしようもない状況になって

しまっている。


 最初は「嫌だな」と思っていたぐらいが、念をつないで「根畜生め」

になり、最後は「殺してやる」となってしまうともう取り返しがつきません。


 最初の一念なら、それはささいなものなので、簡単に消すことが

できるのです。その一念が出た時にそれを消すことができれば、

人間はそんなに迷わなくてすむのです。


 迷いとは念をつないでいくことです。念の起こることは

やむ得ないことですが、その念を持続させない、断ち切ること

が大切であります。それには自分の呼吸に集中すること

であります。


 一生懸命、呼吸に意識を集中していると念が起こる様子が

わかります。念が起こった時点で気づくことです。「ああ、

念がわいていきた、自分は迷っていた」と気づいた時点で

念や迷いは消滅するのです。夢もこれが夢であると気づいた

時に夢が終わるようなものです。


 迷っているということは、迷っていることに気づいていない

状態をいうのです。「ブッタ」とは、「気づいた人」という意味

であり、「覚」とは「気がつく」ということです。


 「自分はなんとつまらない妄想を繰り返していた」と気づけば

それがそのまま本来の自己に立ち返ることであります。


 そう気がつかさせるために、呼吸を一つ二つ・・・と

数えていく。そして、「只今の自分」に立ち返るのであります。

blog-DSC00149.jpg

十牛図 「見跡」

blog-DSC00154.jpg

「見牛」

blog-DSC00158.jpg

「牧牛」

blog-DSC00159.jpg

「帰牛帰家」




 








 

牛を飼い慣らすように

10月22日(月) 入制大攝心3日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 坐禅を10年やっても20年やっても、おそらく生きている間、

人間は外の世界にひかれてしまい、この迷いが尽きることは

ありません。


 只、迷ってしまったとしても、もう一度腰骨を立てて、お腹に

力をこめて、自分の呼吸に立ち返ることによって、本来の自己に

立ち返ればいいのであります。


 お釈迦様は「牛をよく飼い慣らしていくように自分の心を

調えなさい。」と仰せになっています。牛が寄り道してよその

草を食べようとしたら、そのたびごとに、手綱をぎゅっと引っ張って

戻すように、坐禅も心がよそにとんでしまったら、そのたびごとに

自分の呼吸に意識を戻らせることです。その繰り返しです。


 このように本来の自分に立ち返る訓練をして常に冷静な判断が

できる状態にいれば、迷いはなくなることはないけれども、

可能な限り、速やかに本来の自分に立ち返ることができます。

その力を身につけてもらうのがこの攝心であります。


 牧牛(牛を飼い慣らすこと)と攝心(心をおさめること)は実は

同じ意味なのです。牛はただ野放しにしておれば、わざわいを

おこすかもしれませんが、これをよく飼い慣らせば貴重な労働力

となります。活かしてはたらかせることができます。


 私達の心も野放図にして、欲求に引きずり回されればわざわいと

なりまねません。そうならないように、心を攝(おさ)める手法や

方法をしっかりと身につけて、本来自分が持っている力を発揮できる

ようになることが私達の修行であります。

blog-DSC00148.jpg

十牛図 「尋牛」 本来の自己さがしの始まりです。

blog-DSC00153.jpg

円覚寺派・北天院の先住・櫻井一溪和尚様がお描きになった

十牛図です。



私達の心のおおもと

10月21日(日) 入制大攝心2日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 お互いのこの心をはっきりとさせる、これが私達の修行の目的で

あります。私達のこの心は向けようによっては、仏ともなり、鬼とも

なります。心をどこに向けるかによって、迷いともなり、悟りとも

なるのです。この迷いが全部除かれて、お悟りがあらわれてくるわけ

ではないのであります。


 結論を言ってしまえば、私達各々が生まれ持っているこの心と

いうのは、誰一人例外なく、仏様と同じ源を持つ心なのであります。


 しかし、現実は、この本来生まれ持っている素晴らしい心を自分で

蓋(ふた)をしてして、覆い隠してしまっているのです。


 怒り、貪り、憎しみという蓋。暗い、沈む、ざわめくという蓋。

疑い、ためらいという蓋・・・。そうして自分で自分に蓋を閉ざして

しまって、自分を見失っているのです。このように、只、五欲の趣く

ままにしてしまえば、心の迷いのようすであります。


 この心の内に目を向けるのが坐禅であります。この心のおおもとは

何であるか?見たり聞いたりしているこの意識の一番のもとはなんで

あるか?と尋ねに尋ねていきます。


 そうすると、それこそ、そこは、生まれたと死んだとか、自分だとか

他人だとか、というもののない平等一枚の世界に気づきます。


 朝比奈宗源老師の言葉をお借りすれば「永遠に安らかな、永遠に

浄らかな、永遠に静かな、光明、光に満たされている。仏心には

罪やけがれは届かないから、仏心はいつも浄らかで安らかである。」


 これが私達の心のおおもとであります。


このことをはっきりとさせるのが私達の修行であります。

blog-DSC00144.jpg

タンポポ <居士林>

blog-DSC00145.jpg

 昨日の土曜坐禅会は、初心者の部70名、経験者の部42名

晩の部9名でした。これだけ大勢の方が円覚寺・居士林で

坐禅を経験していただけることは、本当に有り難いことです。








 


開講

10月20日(土)入制攝心初日


blog-DSC00142.jpg

 今朝より入制大攝心が始まりました。開講にあたっての

管長様の偈頌です。

「新涼座に入る 万年の秋

 伴を結ぶ 満堂龍象儔(ちゅう)

 只此(ただこれ)更に回避するに処なし

 須く鞭撻(べんたつ)を加えて心牛を獲すべし」


恐れながら、意訳してみました。


「禅堂に吹き込む風も涼しくなって、すっかり秋になったわい。

ともに切磋琢磨せよ!前途有望な雲水諸君。

もう、どこにも逃げ場はないぞ。正面から打ち込んでいけ。

自ら鍛えに鍛えて、自分の中の仏に気づくべきだ。」

blog-DSC00143.jpg

明日から

10月19日(金)


blog-DSC00133.jpg

 明朝から26日まで、円覚寺僧堂(専門道場)では、入制大攝心

(坐禅の集中修行期間)となります。

blog-DSC00141.jpg

僧堂の師家(指導者)である管長様をはじめ、雲水さんや有志の

和尚さん、居士(在家の修行者)さんらが1週間、僧堂にこもって

集中的に坐禅に打ち込みます。

blog-DSC00139.jpg

姫蔓蕎(ひめつるそば)。

身の引き締まる季節の到来です。


自らに由る

10月17日(水)


 管長様が本日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 仏教を学び修行しようとする人は、何よりもまず、正しくものをみる、

まっすぐにものを見るのが一番大切であると臨済禅師はおおせに

なっています。

 
 多くの知識を得たり、膨大な教典を読んだり、長く坐禅ををする

よりも正しいものの見方を身につけることが肝心なところであります。


 その正しいものの見方を身につける為に、自分中心のものの見方

から離れる為に、坐禅をするのであります。今の時代を生きている

私達が、正しいものの見方ができるように昔の書物やお経や語録を

学ぶのであります。


 なかなか難しいことでありますが、この正しいものの見方が

手に入れば、迷いや苦しみに対して主体性を持って生きることが

できます。


 また、臨済禅師は、他人の言葉にふりまわされるなとも仰せに

なっています。他人の言葉や書物に書いてあることに惑わせられ

ないようにと。お経の通りに、教祖の言う通にすることを否定されて

います。そして、尊いことは、自分で正しく判断することのできる

力は、私達一人一人に生まれながらに備わっていると繰り返し

説かれています。


 それでも、今を生きている私達は、現実的に正しいものの見方が

できないでいます。その原因は自らの内に正しく判断する力がある

にもかかわらず、それを信じることができないで外に向かって

求めてしまっているからであります。


 迷いと悟りは方向の違いと言います。心を外に向かって求める

のが迷いであり、自分の内を照のが悟りであると。


 外のこと(他人の言葉や書物に書いてあることなど)に振り回されず

「自由」つまり、自らに由りなさい!と臨済禅師は、すでに「自由」という

言葉を中国・唐の時代に提唱されています。


 外に向かって求めるこころをやめれば、あなた方はそのまま仏である、

お釈迦様やダルマさんと何の変わりもないと。

blog-DSC00132.jpg

紀伊上臈杜鵑(きいじょうろうほととぎす)

<龍隠庵>



舍利講式

10月14日(日)


blog-DSC00129.jpg

 この厨子の中に円覚寺に伝わる舍利(お釈迦様の遺骨)が

安置されています。明日は舍利講式です。午前5時半から、仏殿

→舎利殿→大方丈と儀式を行います。

 blog-DSC00130.jpg

秋の風景と・・・

10月12日(金)


blog-DSC00124.jpg

嫁菜 <黄梅院>

blog-DSC00125.jpg

関屋秋丁子(せきやのあきちょうじ)

blog-DSC00126.jpg

実葛(さねかずら)

blog-DSC00127.jpg

杜鵑(ほととぎす)

(後記)

 昨日は、管長様のところに、寺田一清先生御一行が

わざわざ大阪からお見えになりました。

 寺田先生は「修身教授録」や「立腰教育」などで有名な

森信三先生に長年お仕えしたお弟子さんです。

坂村真民先生の話題等、お二人ともたいへん意気投合

しておられるご様子でした。

 明後日の日曜説教会の時に、森信三先生のことばを

集めた小冊子「立腰のすすめ」をみなさんの配布する

予定です。

 また、日曜日は午後2時から羅漢講式(翌日は舍利講式)

という儀式を方丈で行います。舍利(お釈迦様のお骨)を

須弥壇に奉ってお経などを諷誦します。1年に1度だけ行われる

円覚寺に伝わる舍利のご開帳です。



 




ポタリ ポタリ

10月11日(木)

blog-DSC00121.jpg


blog-DSC00122.jpg

 みなさま、一日お疲れ様でした。

麝香草とハチ

10月10日(水)


blog-DSC00114.jpg

 今、黄梅院では愛鷹麝香草(あしたかじゃこうそう)があちこちに

花を咲かせています。ブンブンとハチさんが花の中に入って蜜をいただき、

花粉を体に着けて他の花に運んでいました。

「共存共栄」してますね。




翡翠(カワセミ)

10月8日(月)

blog-DSC00106.jpg

 円覚寺山内の妙香池には、時々カワセミ(翡翠・川蝉)が飛んでいる

姿を見かけます。虎頭岩の上から獲物をねらっている姿です。

blog-DSC00111.jpg

カワセミと言ってもミンミン鳴く蝉(せみ)とは関係なく、

青土を表す「ソ二」という言葉が「ソビ」→「セミ」と転じて

「セミ」になったとのことです。

blog-DSC00109.jpg

両翼の間からのぞく背中の水色が鮮やかで美しいですね!

その色の美しさに思わず、見とれてしまいます。

この美しい外見から「渓流の宝石」とも呼ばれています。

blog-DSC00108.jpg

 シャボン玉が光の具合によって様々な色に見えるように

カワセミも本来は青くはなく光によって青く見えたり

緑にも見えるとのこと。宝石の「翡翠(ヒスイ)}は

この鳥の羽の色に由来して名付けられたそうです。

 日本のカワセミは河川の護岸が進むと巣の出来る場所を

失い20世紀に著しく減少したそうです。こういう動植物と

共生できる環境を少しでも後世に伝えていきたいものです。

白花彼岸花

10月7日(日)


blog-DSC00075.jpg

 今年は暑い日が続いたせいか、彼岸花が咲くのが遅れ、円覚寺境内でも

まだあちこちに咲いているのが見受けられます。今年の特徴は不思議なことに

白い彼岸花が赤いのに比べて圧倒的に多いことです。


 白い彼岸花を調べてみると、なんと驚くべきことに赤い彼岸花

(支那彼岸花)と黄色い花の鍾馗水仙(しょうきすいせん)が

 自然交雑して出来たものだとのこと。


 赤い花と黄色い花が交じってなぜ白に?と素朴に疑問が湧いて

きますが、お互いがお互いの遺伝子を阻害して、結局、白に

落ち着いたというのが有力な説だそうです。


 そう見ると自然の世界というのは実に奥が深いものですね。



 (後記)昨日の土曜坐禅会初心者の部は、80名もの大勢の方に

    ご参加いただきました。みなさん、有り難うございました。

    



達磨忌 当日

10月5日(金)


blog-DSC00100.jpg

 今日は、午前5時半から仏殿での達摩忌(鼻祖忌)に出席して参りました。

達磨大師は、インドの「香至(こうし)」という国の王子と

して生まれながらも、出家して、身の危険も顧みず中国に渡り

禅の教えを伝えた方です。当時の中国は南北朝時代で、達磨さんは

最初、南朝の「梁(りょう)」に行きましたが、そこの帝が達磨さんの

力量を見抜くことが出来ず、達磨さんは「葦(あし)」の船に乗って

長江を渡って北朝の魏(ぎ)に行き、有名な嵩山少林寺などで教化を

されました。

blog-DSC00099.jpg

管長様が儀式中にお唱えになった達摩忌(鼻祖忌)の偈です。

blog-DSC00101.jpg

勅使門前の階段下でくつろぐかなちゃんです。

blog-DSC00102.jpg

煩悩について

10月4日(木)


 管長様が暁天坐禅会の方との質疑応答の中で「煩悩について」

お答えになった事をまとめてみました。


 煩悩のもとは何か?と問われて、強いて言うならば、我々の

生きているいのちそのものなんです。煩悩と仏心は別物だと

思いますか?相反するものだと思いますか?


 水に喩えるならば、津波・洪水といった恐ろしい面に遭遇した

人はもう、水は恐怖でしかありません。しかし、水の本質は何であるか?

と尋ねていくと自分たちが毎日飲んでいるのも同じ水であります。

自分のいのちを支えているのも同じ水です。それどころか、私達の

この体も水でできています。


 津波・洪水のように現象だけを見ると、きわめて恐怖の対象に

なることもあります。こころも同じであります。こころのはたらきに

煩悩という名前をつけたら、犯罪や暴力といった「悪いもの」に

なってしまいますが、煩悩もいのちそのもののはたらきなんであります。


 水が津波・水害となる一方で同じものが恵みの雨、私達のいのちの

支えになるように、煩悩もいのちそののはたらきと同じなんであります。


 そうとはいえ、やはり人に攻撃的となるような煩悩は制御して

いかなくてはなりません。

 お釈迦様は「川を治めるようにこころをおさめなさい。」と仰せに

なっています。


 煩悩をきちんと自分で制御できるようになると、だんだんと

煩悩の本質と仏心の本質が変わらないと気付いてきます。

そうなればあえて断除する必要はありません。


 全部煩悩がなくなってしまうことは生きることを否定すること

と同じであります。ですから、人を攻撃するような、被害を

与えるような煩悩を抑えて、人に喜んでもらいたいというような

良い欲望に変えていくことが大切であります。


 煩悩の本質は仏心と一つであります。

blog-DSC00084.jpg

(後記) 今朝は、年2回の恒例となりました、暁天坐禅会の方々

(16名)との粥坐会でした。会場は如意庵さんで

和尚様が用意されたお粥をみなでありがたくいただいてから、

本堂へ移り、管長様をお招きしての質疑応答の時間と

なりました。

blog-DSC00087.jpg

 管長様と暁天坐禅会の方々との活発な質疑応答が行われました。

blog-DSC00090.jpg

 管長様は一つ一つの問いかけに、和やかな雰囲気の中で

真摯に丁寧にお答えになっておられました。

blog-DSC00096.jpg

 夕方から仏殿での達磨忌宿忌に出席して参りました。

明日10月5日は達磨大師のご命日です。午前5時半から仏殿で

法要が営まれます。








 

開山忌 当日

10月3日(水)

blog-DSC00083.jpg

本日は、円覚寺開山・無学祖元禅師のご命日です。

禅師は1279年に中国(宋)から来日され、北条時宗公に

請じられ、1282年に円覚寺を開創された方です。

 元寇という国難を乗り切った北条時宗公の精神的な指導者

であったことは有名であります。

blog-DSC00081.jpg

円覚寺派の和尚様方など大勢集まり、法要が厳かに営まれました。

blog-DSC00080.jpg

管長様の偈です。

(後記)

 おかげさまで開山忌は無事に終了いたしました。

心配された天気も、ちょうど巡堂の時は、上がり

行うことができました。みなさん、有り難うございました。

 さて、10月5日(金)は達磨大師がご遷化された日です。

明日は午後4時から仏殿で達摩忌宿忌の法要が行われます。

当日の5日(金)は午前5時半から仏殿でお経を奉誦致します。

blog-DSC00078.jpg

かなちゃん、しいちゃんに続く円覚寺第3のネコの撮影に

成功しました!

blog-DSC00079.jpg

 名前はシューちゃん(本名シュークリーム)だそうです。

非常に警戒心が強くほとんど近づくことができませんが・・・。

 テリトリーはまだ確立していないらしく、円覚寺の

あちこちで見かけます。ちなみに餌はかなちゃんとけんかに

ならないように反対側の出入り口でもらっています。



開山忌(宿忌)

10月2日(火)

blog-DSC00062.jpg


blog-DSC00063.jpg

 午前中、円覚寺派の和尚様方と雲水さんなどで仏殿等を

五色の幕を張るなどして莊嚴(しょうごん・・・飾り付け)

をしました。

blog-DSC00067.jpg

円覚寺開山・無学祖元禅師像です。

blog-DSC00064.jpg

明日、お像をこの輿に載せて諸堂を巡ります。

blog-DSC00072.jpg

 午後3時、宿忌の入場風景です。赤い大傘の下、管長様、その後ろに

5人の侍者が並んでいます。

blog-DSC00071.jpg

明日は、開山忌当日です。10時:舍利殿開始。10時半過ぎに

仏殿に移動してお経、幼稚園生の舞、そして「巡堂」と

なります。

blog-DSC00065.jpg

巡堂で使用する太鼓と鈸(はつ)です。




明日から

10月1日(月)その2


 今日も夕方から開山忌の習礼(リハーサル)に行って参りました。

太鼓や鈸(はつ)をならしてお堂を巡る「巡堂」は、山門の前など

本番と同じ場所で最終の音合わせをしていました。

blog-DSC00054.jpg

浴室(跡)前で

blog-DSC00055.jpg

山門前で

blog-DSC00056.jpg

選仏場前で

blog-DSC00058.jpg

 10月3日(円覚寺開山・無学祖元禅師が遷化された日)に対して

その前夜に物忌みをすることを「宿忌(しゅくき)」と言います。

明日は、その宿忌です。午後3時から仏殿→舎利殿とお経を奉誦

致します。


今月のお言葉

10月1日(月)


blog-DSC00052.jpg

管長様揮毫。坂村真民先生詩。

blog-DSC00038.jpg

台風一過、スカッとした良い天気になりましたね。

 さて、今月は、10月2,3日と開山忌、4,5日と達摩忌、

14,15日と羅漢講式・舍利講式と本山行事がたくさん

行われる月です。みなさん、ぜひ、お寺に足を運んで

ご覧下さいますように。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。