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あじさい開花

5月31日(木)


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 宗務本所近くのあじさいがいくつか開いてきました!

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雪の下

5月30日(水)

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今、仏日庵さんから黄梅院の参道脇の壁にたくさんの

雪の下が生えています。

赤い班がかわいらしいですね。

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雪が上に積もっても、その下に緑の葉があることから

「雪の下」と名付けられたそうです。

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山吹升麻(やまぶきしょうま)です。

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葉が山吹に似ていることからこの名が。

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円覚寺境内でよく見かけるようになったこの猫、

首の下にけがをしているようで、少し心配です。

五百羅漢研究会

5月29日(火)その2


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 今日は午後から五百羅漢研究会でした。専門家の

先生に円覚寺所蔵「五百羅漢図」50幅をいろいろな

角度から解説していただいています。


 数年前に円覚寺山内の和尚様を中心に始められた

この会ですが、今では管長様や雲水さんも拝聴にいらして

います。


 五百羅漢図は、羅漢の神通力や仏教史上の逸話を

基としたもの、喫茶や食事など羅漢の日常生活などが

描かれています。(1幅に10人の羅漢さん×50幅で)

500羅漢。円覚寺の五百羅漢図は、張思恭筆とされる

もの33幅(重要文化財)と明兆筆とされるもの16幅、

狩野養川筆の1幅で成り立っています。


 毎年、宝物風入れ(11月初頭)の時に一般公開

されていて間近で拝見することができます。




舞子あじさい

5月29日(火)


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舞子あじさいです。まいこは舞妓さんではなくて、神戸の

舞子浜の舞子だとの説もあるそうです。<黄梅院>

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甘茶が色づいてきました!

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蕺草(どくだみ)です。独特の臭いがあり、何か毒でも

入っているのではないか?ということから毒溜め(どくだめ)

それがどくだみへと変化してこの名前がついたと言われて

います。清楚で可憐な花ですね。

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玄関前に咲いているのに今朝気づきました。

姫檜扇(ひめひおうぎ)と言うそうです。檜扇に

似ていることから。Sさん、教えていただき有り難う

ございました。

 それでは、みなさん、よい一日を!

「禅文化」

5月28日(月)


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禅文化研究所が発行している季刊誌「禅文化」に

「ひとくち法話」というコーナーで、ブログに掲載している

ような短くまとめた管長様の提唱を連載することに

なりました。

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先月、発行された224号です。見開き1ページから2ページ

の間に提唱と管長様が描かれた絵が載っています。

みなさん、ご一読くださいますように。

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 5月26日付けの朝日新聞be(土曜版)に土曜坐禅会と

蔦禅会坐禅会に関する記事が載りました。「サザエさんを

さがして」という連載もので、今回のテーマが「座禅」のようで

実際に記者の方が土曜坐禅会を体験されて書かれています。


自我がなくなると・・・

5月26日(土)月並攝心最終日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 朝比奈宗源老師が次のようにお説きになっています。

「自我というものが迷いの根本であるというけれど

その自我を滅し尽くす・殺すことは、そう簡単にできるもの

ではない。私達は常に自分中心の生活をしているから

それを否定することは、まるで魚に水から出よというくらい

困難なことだ。


 それでは、どうしたらいいのか?それは、菩提心を持つ

ことである。自分だけ悟って何かをしようというのではなく

自分よりも人に尽くそうという気持ち・利他心・慈悲心を

持つことだ。私達の心の本性は仏心であり、この慈悲心

に他ならないとこう信じることであります。


 何か人の為に一生懸命尽くして、その人が喜んでくれるのを

見れば私達も無条件に喜びます。他の人が(震災などで)

人の為に尽くして働いている姿を見ると私達もうれしくなります。


これが私達の心の本性が慈悲心である何よりの証拠であります。

この慈悲の心を育てていく、これが自我を克服する大きな道筋

である。」と。


 自我を滅していくことと、己を尽くしていく・無に成り切っていくこと、

利他・慈悲心を育ててそれを充ちあふれさせていくことは、実は

同じ事なんです。


 自我がなくなると何やらどうやって生きていったらよいのか不安に

なるかもしれませんが、無に成り切ることは同時に慈悲の心に

充たされることと同じなんです。

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<龍隠庵>

 今日で、月並大攝心は無事終了しました。みなさん、

有り難うございました。さて、本日の土曜坐禅会

初心者の部75名、2部55名でした。たくさんの方の

ご参加、重ね重ね、誠に有り難うございました。





振り払う

5月25日(金)月並攝心6日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 昨日、地裂け天崩れるがごとき坐禅という話をしましたが

では、いったい、何が崩れるのか?これは決して外のもの・

よそのものではありません。己が崩れ落ちる、自分だと

思いこんでいたものがはっと崩れ落ちていくのであります。


 何かの問題に行き詰まるということは、(自分中心の)

意識・分別でもって「ああではないか、こうではないか」

考えることから起こります。そして、ますます(問題の

解決には)遠ざかってしまいます。


 己を殺して坐る以外には何ものもないのであります。

意識・分別の絶したところ、気力の尽き果てたところ、

そこで始めて、仏心光明の中にいたと気がつくので

あります。仏心の中にいながら、心がどん欲・怒り・

昏沈などに覆われていて気がつかなかったの

であります。


 これら心をおおうものを振り払っていく、穴をあける、

こそぎ落としていく。それには第一に腰骨を立てること。

本当に腰骨が立ったらあとのことはいらんくらいです。


 腰骨を立てて、気をおなかの下・丹田に允たしめて、

力をこめて強い呼吸をする。眠気を振り払うにはやはり

はっきりと自分の呼吸を意識する。


 そうして精魂果てるまで、全身全霊でやっていくしかない。

そこで体験したこと、自覚したこと、「ああなるほど」と気が

ついたことが本当の自分の宝となるのであります。





地裂け天崩れるような思い

5月24日(木)月並攝心5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 雪厳祖欽禅師が、師匠である無準師範禅師からの嗣法の香を

焚くときに「破蒲団上に地裂け天崩るる」という言葉を述べられました。


 師匠と弟子の関係は様々で、ほめてほめて、認めてあげて大事に

育て上げる場合もあれば、全く仇と敵のように敵対して、弟子も

恨み骨髄に徹して、そして法を受け継ぐ場合もあります。


 無準禅師と祖欽禅師は、全くそりが合わず、最後まで敵対して

祖欽禅師は血のにじむような修行をされました。たいへんな艱難

辛苦の上に修行をして、師匠には厳しくあたられ、十年の間、

苦しみぬいた末、法を継がれました。


 その時の言葉が「長い間、坐って坐って坐り抜いたから、

単蒲団(坐禅用座布団)はもうボロボロに破れてしまった。

大地が裂け、天が崩れるような思いをしてきたものだ。」

であります。これは、祖欽禅師の一つの率直な実感であろうと

思います。


 「地裂け天崩るる」ような思いをして修行をしてようやく得ること

できる心境であります。


 その祖欽禅師が修行をしているときに、昏沈(トロンとして眠たい)と

散乱(気が散って仕方がない)に悩まされ、同僚の僧に「どうしたら、

これを乗り越えられるか?」と訊きました。僧は言いました。

「猛烈に坐ることだ!尻あて(用座布団)を高くして、しっかり腰を

立てて渾身を尽くして呼吸と一つになれば、眠気は吹っ飛んで

しまう!」と。


 腰骨を立てて、全身の気力を丹田(おへその下)に允たしめて

気力を込めて出入りの呼吸です。一呼吸一呼吸に自分の

全身全霊を打ち込む。「(坐っていて目の前に見える禅堂の)

敷き瓦が割れるがごとく(の気迫で)坐れ!」と修行時分に

よく言われたものです。


「地裂け天崩るる」にはそういう厳しさが込められています。








 

十二因縁

5月23日(水)その2


  管長様が「十二因縁」について、赤ちゃんをたとえにわかりやすく

 説明されていたのでまとめてみました。


 1,無明・・・何にもわからない状態です。赤ちゃんは

 その後の人生どうなるのかはまったくわからない状態で

 生まれてきます。

 2、行・・・そこに命が作り出されて

 (母体で赤ちゃんが形成されて)

 3、識・・・意識が芽生えて

 4、名色・・・親が名前をつけて「~ちゃん、~ちゃん」と

 呼ばれ、自意識が形成され

 5、六処・・・目で見て、耳で聞いて、鼻でかいで、、、と

 活動するようになり

 6、7触、受・・・赤ん坊がお母さんにふれたら気持ちいい

 お父さんにふれたらいやだなあと思う感受作用、好きだ

 嫌いだが芽生え、

 8、愛・・・それがさらに高じて好きなものにはどん欲になり

 9、取・・・とる、自分のものとしてしがみつく。赤ちゃんが

 ものを手で握れるようになると自分のものとして意識して

 離さないように。

 10、有・・・これは私の体、これは私のクツ、これは私の

 食べ物、、、自分の所有するものであると主張しここで

 争いが起きてくる。国同士の争いも原理は同じです。

 11、生・・・そうであるから、苦しみの生活をし

 12、老死・・・老いて死ぬまで苦しみます。

 以上のようにどのように迷いが生じ、どのように

 人は苦しんでいくのか、その様子が冷静に観察

 されています。

  
  結局は、何にもないところに、私達が勝手に

 自分があると思いこんで、他人と争っている

 だけなのではないか。その仕組みがわかっていれば

 何ということはないのであります。

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<方丈からの風景>

お化け屋敷のたとえ

5月23日(水)月並攝心中日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 悟りとは何か?と訊かれて、只一つ言えることは、悟りとは

気がつくこと、自分が迷っていたんだと気がつくことであります。

「何と自分は迷っていたんだ!」「何と自分は小さなことに

とらわれていたんだ!」と迷いの様子がはっきりわかることです。


 迷っていたことに気づいた人が、しいていえば「悟った人」で

あります。どうして迷ってしまうのか?どうして苦しみは

作り出されるのか?これを冷静に観察をする。その結果、

見えてきたものを真理と言っています。


 遊園地にお化け屋敷があります。何もわからない状態で

それに入ったら、それは恐ろしい。子供はそれが本物か

どうかわからないから、恐れ苦しみます。


 しかし、その仕組みがわかれば、恐れることはない。

どういう道理で、どういうつもりで、こういうものをこしらえて

あるとわかっていれば、お化けを前にしても、「なるほど、

よくこしらえてあるな。」「なるほど、よく工夫してあるな。」と

取り乱すことはありません。


 それと同じで、悩み苦しみの様子、仕組みがちゃんとわかって

いることが大切です。たとえば、相手が怒っていても、

「なるほど、こういうわけで怒っているのだな。」とわかっていれば、

こちらが取り乱すこともありません。


 仏教の「十二因縁」の教えは、人間の迷いを起こす道理

仕組みをきわめて冷静に観察しています。ものごとは、

原因があって結果が出てきます。時代が様々に変わろうとも

苦しみ・悩みが起こる原理・根本はそれほどかわりません。


 どのように迷い、どのように執着していくのかを、きわめて

冷静に観察していくと、行き着くところは「何にもないところに、

かってに思いこんで争っているだけではないか。」と

気づくことであります。

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生涯をかけて

5月22日(火)月並攝心3日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 明恵上人は、お釈迦様を求めながら、どうしたらお釈迦様に

少しでも近づくことができるかと生涯をかけて真剣に修行を

されました。


 上人はお釈迦を慕い、実際に天竺(インド)に行こうとされましたが

それは実現されませんでした。実際に天竺に行った方が良かったのかと

いいますとそうとばかりは言えません。実際にその天竺に行こうが

行くまいが、常にお釈迦様を恋慕する・恋い慕う、明恵上人の

行(ぎょう)・修行ぶりが実に尊いところであります。


 菩提心とは悟りを求める心であります。自分が救われる前に

まず人を救おうという心。明恵上人がどこまでも求めるものは

お釈迦様の悟りの心、つまり慈悲の心に他ならないのであります。

それをどこまでも恋い慕い求めていく。


 我々は、悟りと何ですか?とよく訊かれますが、

実際、悟りに到ろうが到るまいが、悟りを求めて日々努力

精進する行そのものが尊いのであります。


 ある方は「永遠なるものを求めて永遠に努力をする人を

菩薩という」と仰せになっています。


 悟りとは?と訊かれたら、「難しいのでわかりませんが、

しかし、その悟りを求めて日々努力をしています。」と

せめて、そう答えることができるようになりたいものだと

思っております。


 僧のあるべき姿は何であるか?どう修行したらお釈迦様に

一歩でも二歩でも近づけることができるか?それを生涯

求め続ける心が尊いのであります。

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聖観世音菩薩像



 

虚空を家と住みなして

5月21日(月)月並攝心2日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 風は息 虚空はこころ 日はまなこ

  海山かけて 我が身なりけり


 自分という小さなものに、小さな自分の小さな世界の

中で毎日あくせくして苦しんでいる。牢獄の中で修行を

していると思っていると誠に哀れであります。


 それよりも、自分が天地の主人公になった気持ちで、

禪堂で坐っていただきたい。外に吹いている風と自分の

呼吸は一つである。この広い大空と我がこころは一枚である。

あのお日様と我が目は一つである。海も山もみな我が身、

我がこころである。


  あら楽し 虚空を家と住みなして 

    須弥を枕に うたた寝の春


 このくらいの大きな気持ちで坐ってもらいたいもので

あります。


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甘茶が咲きました。ガクアジサイの変種です。<黄梅院>


 4月8日のお釈迦様の誕生日(花祭り)に仏像に

甘茶を注ぎかけますが、これはお釈迦様が誕生時に

八大竜王がこれを祝って産湯に甘露を注いだという

故事によるものだそうです。



 

自分を抜きにして

5月20日(日)月並攝心初日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 いろんな現実の問題に遭遇したとき、ああであろうか、

こうであろうかと考えること、策を弄することは、たいがい

自分の都合の良いものしか見えていないのでかえって

窮してしまう。


 自分を一つ抜きにして、自分を一度消してみれば、

森羅万象はありありとはっきりしてくる、そのまま

自分に映ってきます。


 自分を消してみるとは、自分中心のものの見方・

意識・分別(ふんべつ)を一度否定してみることであります。

これを禅の言葉では「自分を殺す」といいます。


 自分を否定してみる、自分を抜きにしてものごとを見てみる。

そうするとものごとはありのままに現れてくる。あとはそのところに

従っていくのが賢明な生き方であります。


 自分を無にすると心にかくも豊かなものが流れ込んでくるものか。

山の景色、緑、杜鵑の初鳴き・・・。そこから、無限に豊かなものが

あふれ出してくる。そして、究極の目指すところである慈悲の心も

現れてくるのであります。


 自分の内と外とが一枚である、一枚であったと気がつく経験が

大切であります。その為には自分を消す修行であります。只今

やっていることに全身全霊集中し、成り切っていくことであります。

(後記)

  本日5月20日より26日まで、円覚寺僧堂では月並大攝心です。

 さて、昨日の土曜坐禅会は、初心者の部94名。2部65名。合計159名。

私の知る限り最も多い参加者数でした。参加された方、誠に有り難う

ございました。

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おがたまです。和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から

転化したものだそうです。辺りが高貴な香りに充たされて

います。<黄梅院・玄関先>






 

白露錦(はくろにしき)

5月17日(木)


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いぬこりやなぎの園芸品種「白露錦」です。

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葉の色が緑→緑に淡いクリーム色の班→その度合いが強まる→

全体が白→淡い桃色ないしサーモンピンクと変化していきます。

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「五色柳」とも呼ばれています。

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<黄梅院・山門側>

救っていきたいという心へ

5月16日(水)


 昨日の僧堂・講中齋の提唱の中で、

管長様が気仙沼市階上中学校の卒業式答辞に

ついて話されていました。その中学校は3月12日に

卒業式を予定していましたが、あの大地震・津波にあい、

3人の生徒が亡くなり、後日、親が子供の遺影を抱く姿

などある悲しみに包まれた卒業式となりました。

 
 そのような中での卒業生代表の15歳の青年の

卒業式答辞です。彼が涙をこらえながら、

答辞を読む映像がマスコミ等で報道され、大勢の

人の感動を呼び起こしました。以下全文です。


「本日は、未曾有の大震災の傷も癒えない最中、

わたくしたちの為に、卒業式を挙行していただきありがとうございます。

ちょうど、十日前の三月十二日、春を思わせる暖かな日でした。

わたくしたちは、そのキラキラ光る日差しの中を、希望に胸を膨らませ、

通いなれたこの学舎を、五十七名揃って巣立つ筈でした。

前日の十一日。

一足早く渡された、思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、

十数時間後の卒業式に、思いを馳せた友もいたことでしょう。

「東日本大震災」と名づけられる、天変地異が起こるとも知らずに・・・

階上中学校といえば「防災教育」といわれ、

内外から高く評価され、十分な訓練もしていたわたくしたちでした。

しかし、自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、

わたくしたちから大切なものを、容赦なく奪っていきました。

天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。

辛くて、悔しくてたまりません。

時計の針は、十四時四十六分を指したままです。

でも、時は確実に流れています。

生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、

強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。


命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。

しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、

助け合って生きていく事が、これからの、わたくしたちの使命です。


わたくしたちは今、

それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。

どこにいても、何をしていようとも、

この地で、仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。

後輩の皆さん、

階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、

いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごして下さい。

先生方、

親身の御指導、ありがとうございました。

先生方が、いかにわたくしたちを思って下さっていたか、

今になってよく分かります。

地域の皆さん、

これまで様々な御支援をいただき、ありがとうございました。

これからもよろしくお願い致します。

お父さん、お母さん、家族の皆さん、

これからわたくしたちが歩んでいく姿を見守っていて下さい。

必ず、よき社会人になります。

わたくしは、この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。

最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。

平成二十三年三月二十二日

第六十四回卒業生代表  」


 管長様がこれについて次のようにお話しされました。

{「天を恨まず」という言葉は多くの人が感動しました。

おそらくは、天を恨みたかった、運命を呪いたい、

また、なぜ自分はこんな目に遭うのかとどれだけ

苦しんだことことでしょう。その青年、今、何をしていると

思いますか?


 今、石川県輪島市にある日本航空専門学校で

ヘリコプターのパイロットに勉強をしていると新聞記事で

知りました。被災地の現場でヘリコプターが大勢の人を

助ける人を見て自分もそうなりたいと思い勉強をしている

のでしょう。


 救われたいという気持ち、救いを求めるという気持ち、

自分が救われると自分も人を救っていきたいという気持ちに

なる。この心は一つであります。


 お釈迦様は「人間、本来仏の心を、慈悲の心を持って

生まれたきた」と仰せになりました。彼の生き方を知って、

改めて、なるほどと感銘を受けました。}

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<妙香池前・木々の間から朝日の差し込む風景>




 




悲しみを抱いて

5月15日(火)


 管長様が本日の僧堂・講中齋で提唱されたことを

まとめてみました。


 東日本大震災の一周忌の慰霊祭において宮城県を

代表して南三陸町に住む奥さんがお言葉を述べられました。

 この方は津波で、お世話をしていたご両親と子供2人を

亡くしてしまいました。ご長男のご遺体は自分の妹を

抱きかかえる姿で見つかったそうです。


 3月11日の午前中、ご長男は役場に婚姻届をだして

お昼をお母さんといっしょにしてまさにj幸せの中という

時のすぐあと、大震災が起こりました。


 大切な人を一度に亡くした奥さんは、生きる希望を

全くなくしてしまいました。受け入れがたい現実、

やり場のない怒り・悲しみ限りのない絶望。

自分が生き残ったこと、自分が生きている

ことが申し訳ないとう自責の念に苦しみました。


 その奥さんが次のようにのべられました。

「愛する人を思う気持ちがある限り私達の悲しみは

消えることはありません。遺族は一生その悲しみを

抱いて生きるしかないのであります。だから、私達は

涙を越えてもっと強くなるしかないのです。」


 仏の言葉に「常に悲しみを抱いて」というものが

あります。また、観音さまの心は大慈大悲であります。

大きな悲しみを抱いているからこそ、人の悲しみを

わかること、察すること、声を掛けて、手を差し伸べて

あげることができるのです。


 また、奥さんは言いました。「絶望の中で何が頼りに

なるか?それは、亡くなった子供達は、今の私をどう

思っているか?亡くなった両親は今の私をどう思って

いるか?と常に亡くなった人と対話をすることです。


 いつまでも、私が悲しみにうちひしがれていたら、

子どもや両親どう思うか?そう考えるとしっかり

しなければという思いになる。


 常に亡くなった人と対話して、そして亡き人と

今いっしょに暮らしているのだとそう思うことで

悲しみを乗り越えてきた。」と。


 観音さまの心、慈悲の心こそ私達が持って

生まれた本心なのであります。






 









 






ありのままに見る智慧

5月14日(月)


 管長様が昨日の午後、企業向け坐禅会で提唱されたことを

まとめてみました。


 坐禅をすると無念・無想になると言われたりしていますが

しかしながら、何も考えなくなる、何も思わなくなるということは

人間として生きている限りありえないのであります。


 坐禅の目的は無念・無想であるというより、むしろ、この

心というものをいわば鏡のようにして外の状況・周りの状況が

きれいに、くっきりと映ってくる、見えてくることであります。


 坐禅の一つのねらいは智慧というものを養うことであります。

普段は私達は自分に関心あるものしか見えていなく、自分に

興味のあるものしか聞こえていない。また、心に悩みがあるときは

外の世界がどうであるか全く入ってこないという経験もよくあると

思います。


 坐禅のねらいである智慧とはなんでありましょうか?それは

ありのままにものごとを見る、ありのままに状況を見て取ること

ができることであります。しかし、これほど難しいものもない

のであります。結局、人は、自分と関わりがあることをどうしても

ひいき目に見てしまう、自分の都合の良いように解釈して

しまうのです。


 智慧というのは、原因と結果がありのままにわかることです。

今、どうしてこういう結果になったのか?今、こういうことをしたら

どういう結果となるだろうか?あらゆることは原因があり結果がある

それ以外ありえないのであります。


 原因と結果ははっきりとしていてくらますことはできません。

ですから、結果といものは受け止めるしかないのであります。

今、あらわれている結果を素直に冷静にありのままに見て取る

のであります。


 私達が変えることがことできるのは、今新しい原因を生み出して

いくこと、将来に向かって結果を変えていくことだけであります。

こういうことを冷静に判断する智慧を身につける、その為に

自分の都合を抜きにして静かにものを見る、坐禅はいわば

一つのその訓練であります。

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<居士林・堂内>

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<居士林・山門から>



 

千手観音

5月13日(日)


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 「初心」「初初しさ」は尊く大切にしなければならないもの

だけれども、同時にもろく折れやすいものでもあります。

折れないためには、では、どうすればよいでしょうか?


 先日、赤ん坊を抱く機会がありました。赤ん坊は、

何にもできませんが、ものを食べさせてもい、着替えさせて

もらい・・・と親や周りの人がどれだけ手をかけているか

、自分がこの頃どれだけ手をかけて育ててもらったのか

改めて思ったものであります。


 自分が今日までどれだけ多くの人のお世話になったか、

どれだけ多くのおかげさまをいただいて生きてきたのかと

思うと、折れそうになる初心を支えることができます。

 
 坂村真民先生に「手が欲しい」という詩があります。


「目の見えない子が描いたお母さんという絵には

いくつもの手がかいてあった

それを見たときわたくしは

千手観音さまの実在をはっきり知った

それ以来あの一本一本の手が

いきいきと生きて見えるようになった

異様なおん姿が すこしも異様ではなく

真実のおん姿に 見えるようになった

・・・。」


 目の見えない小さな子供がお母さんの絵を書きますと

お母さんの手がたくさん書かれました。ご飯を食べさせて

くれる手、着替えを手伝ってくれる手、どこへ行くにも手を

引いてくれる手、・・・そんなたくさんの手がありました。


 千手観音は千本の手を差し伸べて、私達を救って

下さるということを表しているのであります。


 私達一人一人は、こうして千も万もの手に支えられて

今こうして生きている、生かされているのです。自分一人

では、決してありはしないのです。親はもとより多くの人に

お世話になり、生きている人だけでなく亡くなった方にも

見守られて、生かされているのであります。


 この私をどれだけ多くの人が、どれだけ多くの力が、

どれだけ多くの手が・・・と思いをめぐらすことによって

折れそうな初心も逆に芯のある心に変わってくるはず

であります。

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<黄梅院・千手観音菩薩像>









 

紫蘭(しらん)

5月11日(金)


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<文京区白山・龍雲院>

(後記)

 いつも、多くの方にコメントをお寄せいただき

誠に有り難うございます。お返事は、なかなか

できませんが、必ず拝見して、参考にさせて

いただいております。これからも、宜しくお願い

致します。


いろはにほへと

5月10日(木)


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 円覚寺・居士林だよりの製本化版、題名「いろはにほへと」が

Tさんを中心に編集に携わっていただいた方のおかげで

、仕上がりまであと少しのところまで来ています。

 先日、管長様に「いろはにほへと」の題字を揮毫して

いただきました。

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横長で、管長様の法話と円覚寺の風景や花などの写真が

だいたい見開きで掲載されています。

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7月には皆さんが手にとってご覧になることができそうです。

宜しくお願い致します。

(後記)

 明後日の土曜坐禅会2部は、管長様に無門関提唱を

していただける予定となっております。



意訳 延命十句観音経

5月9日(水)


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 以前に管長様がこちらの「延命十句観音経」の印刷物を

お作りになりましたが、今回、この裏にさらに意訳がつきました。

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管長様が平易に延命十句観音経の真髄を意訳して

下さっています。

「観音様
 
どうか人の世の苦しみをお救い下さい

人の苦しみをすくおうとなさる

そのこころこそ仏さまのみこころであり

私たちのよりどころです

この仏さまのこころが

私たちの持って生まれた本心であり

さまざまなご縁にめぐまれて

このこころに気がつくことができます

仏さまと 仏さまの教えと

教えをともに学ぶ仲間とによって

わたしたちはいつの世にあっても

変わることのない思いやりの心を知り

苦しみの多い中にあって 人の為に尽くす楽しみを知り

この慈悲のこころを持って生きることが本当の自分であり

汚れ多き世の中で 清らかな道であると知りました

朝に観音さまを念じ 夕べに観音さまを念じ

一念一念 何をするにつけても

この思いやりのこころから行い

一念一念 何をするにつけても

観音さまのこころから離れません」


 まさに仏さまの教えの「結晶」「集大成」のような

意訳です。







文目・綾目・アヤメ

5月8日(火)


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黄梅院の裏にある井戸の近くに文目(あやめ)が

咲き始めました。剣形の葉がきちんと並んで

生える葉の様子から文目(筋道、模様の意)の名が

ついたとも言われています。

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  また、この写真にように花弁の基の黄色の

部分の縞(しま)模様を「綾目」で表現したとも。

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つぼみ。

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こどもバッタと。

金の延命十句観音経

5月7日(月)


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 管長様が、金箔の墨で浄写された「延命十句観音経」です。

末寺のお寺さんから写経のお手本にと依頼されたそうです。

わかっていないという尊さ

5月6日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「あの人は(ものが)見えている」とか「あの人は

(ものが)わかっている」とかよく言いますが、果たして

見えている・わかっているのが良くて、見えていない

わかっていないことが悪いことなのでしょうか?


 よくいかにもわかったように説明する人がいますが、

本当にわかったというのがわかっているのでしょうか?


 皆さん、もし「私は大宇宙のことをすべてわかりました。

究めました。」という人がいたらどう思いますか?

まず、その人はあやしいし、科学的に良識のある人とは

思えないでしょう。逆に「宇宙の最先端を学べば学ぶほど

わからなくなる」という人の方が頼りになるのであります。


 原因と結果の道理は複雑に入り組んでいて学べば学ぶほど

わからないということに気づかされるのであります。


 仏心の世界も同じで、我々は仏心のことをわかりようがない

のであります。仏心の世界も坐れば坐るほどわからないと

気づくのであります。けれども、確かなことは、たとえ

わからなくても、私達は仏心の中に生かされているという

ことであります。


 我々が見たり聞いたりしてわかっていることは、ほんの

極一部、小さな世界であります。おおよそ、自分にとって

都合の良いものしか見ていないのであります。そんな程度の

目で見て、耳で聞いて自分の都合の良いように解釈を

しいているにすぎません。それでどうして広い仏心といものが

わかるでしょうか?


 修行をして気づくことは「ああ、今まで私は何にも見えて

いなかった、何にもわかっていなかった」ということであります。

 達磨様から六代目の慧能禅師は、「我仏法を得せず

(私には仏法のことはわからない)」と仰せになっています。

 円覚寺の堯道老師は「瞎漢というはまことの活眼である

(見えない、わからないと気づくことが本当にすぐれた眼力

である)」とおおせになっています。


 見えていない、わかっていないという尊さであります。











 

満員御礼

5月5日(土)


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 居士林の庭の梅です。あっという間に大きくなって

いました。今日の土曜坐禅会は、初心者の部89名

2部36名でした。居士林にあふれんばかりに人が

坐っていました。参加者の方、有り難うございました。

 


如意庵特別公開

5月4日(金)その2


 今日は、舎利殿特別公開ということもあって大勢の人で

円覚寺山内がにぎわっていましたが、ふと見ると山内・

如意庵さんの山門前にも大勢の人が列をなして並んで

いました。後で住職さんにお伺いしてみると、昨日、今日、

明日とお寺を一般公開しているとのこと。

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お庭を拝見でき、

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また、時間によっては、本堂にあがってお茶と手作りのスイーツを

楽しむことができるそうです。それによる随意のお布施は、

東日本大震災の被災者に寄付されるそうです。

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前住さんが描かれたふすま絵も展示されています。

みなさんも舎利殿とともにご参拝ください。

仏の子 その3

5月4日(金)


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 円覚寺山内の和尚さんが、赤ちゃんが生まれたご挨拶にご夫婦で

管長様のところにお見えになりました。先日の写真の赤ちゃんは

男の子でしたが、この赤ちゃんは女の子です。2人とも、

管長様が懐妊を知って昨年秋に被災地を回った途中、

日立市の円覚寺派寺院で安産祈願で有名なお寺があり

そこに立ち寄って、この2人の安産祈願をしてお札を

いただいてきただけに、管長様もことのほか無事出産

したことを喜んでおられました。

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舎利殿特別公開、今日は雨があがったこともあって

大勢の賑わいです。今日、明日、明後日までです。

みなさん、この機会、ぜひ、ご参拝くださいますように。

仏の子 その2

5月3日(木)


 昨日の新聞のコラム欄に、昭和天皇と戦災孤児

との次のような逸話が載っていました。

 陛下が昭和24年に佐賀県に行幸された時の

お話です。


{寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を

養っていた。陛下は部屋ごとに足を止められ、子供

たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を

掛けて回られた。ところが、最後の部屋では身じろぎも

せず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。

 
 「お父さん、お母さん?」 少女は2基の位牌を抱きしめて

いた。女の子は陛下のご下問に「はい」と答えた。大きく頷かれた

陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。


「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き上げ途中で

病のために亡くなりました。」「お寂しい?」と質された。少女は

語り始めた。


 「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は

亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっと

また会うことができるのです。お父さんに、お母さんに会いたいと

思うとき、御仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの、

お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも

私の側にやってきて抱いてくれます。だから、寂しいことは

ありません。私は仏の子供です」


 陛下は女の子の頭を撫で「仏の子はお幸せね。こらからも

立派に育ってくれよ」と仰せられた。見れば、陛下の涙が畳を

濡らしている。女の子は、小声で「お父さん」と囁いた。

陛下は深く深く頷かれた。}


 心の奥底まで響くお話ですね。



教えないという教え方

5月2日(水)


 管長様が淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 ある人から、「和尚さんになったら人前で法話をしますが

修行道場ではどういう話をするのか勉強をするのですか?」

と問われました。結論を言いますと、人前で話をするための

勉強は全くないのであります。


 では、なぜそういうことを教えないのでしょうか?「門より

入るものは家珍にあらず。」という言葉がありますが、外から

もらったものは本当の宝ではないのであります。宗派に

よっては決まった話を丸暗記して人前で話をするところも

あるようですが、私達の禪はそういうことをやらないことに

重きをおいています。


 では、何を話すのか?自分の体験したこと、自分の

この体で得たことを話すのが一番説得力があります。

自分の体験したことを自分で話をするのであるから

何もよそから教わる必要もありません。


 禪では、毎日の暮らし(朝早く起きて、お経を読んで

坐禅をして、お粥を食べて、掃除をして・・・)全部、丸ごと

修行でありますから、その自分で体験したこと、感じたことを

素直に話をすればいいにであります。


 ですから、教えないのであり、教えたら逆にウソに

なるのであります。たとえ人から教わった話を人に

しても相手の心には響かない。自分の本当のものに

なっていない話をしても人の心には響かないのであります。


 教わらなくてできる話が本当の話であります。ですから、

教えないということに値打ちがあるのであります。


 修行というのは、いろんなことを習い覚えるというよりも

自分自身、苦労して苦しむことであります。そして、その

身をもって苦しんだその体験だけが人にといてきかせる

話となるのです。ですから、修行の間は苦労をさせる。


 いかに悩ませるか、いかに苦労をさせるかであります。

自分自身、苦しみぬいた体験が、苦しんだ分だけ自分の

本当の宝になるのであります。そして、それが人の心に

響くものとなるのであります。


 そして、自分で苦しみ悲しんだその体験こそが、今度は

同じ苦しみを持つ人に対して、唯一慰めてあげることの

大きな力となっていくのであります。


 世の中、(様々なことがありますが)理屈のつけようが

ないこと、もっともらしい理屈をつけても、解決しないこと

ばかりであります。やはり、理論・理屈でおさまるもの

ではないのであります。


 その中で苦しみながらも手探りで、一日一日、一時一時

最期の時まで全力で生きていく。その体験だけが本当の

自分の宝となるのであります。

(後記)

 明日より6日まで国宝舎利殿の特別公開となります。

みなさん、ぜひ、この機会にご参拝くださいますように。







 

今月の言葉

5月1日(火)

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管長様揮毫。坂村真民さんの詩。

(丹田とは下腹部のこと。)
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