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春季学生大攝心受付け開始

1月31日(火)


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 平成24年 春季学生大攝心(2泊3日の泊まりの坐禅会)の参加者

受け付けを本日より開始しました。日程は3月2日(金)夕方5時集合

4日(日)お昼頃解散です。学生に限らず一般の方も参加できます。

詳しくは円覚寺本山のホームページをご覧下さい。

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 管長様が3月3,4日と提唱をしてくださいます。

直にお話を拝聴できることは、本当に貴重です。

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 施設の都合上、定員がありますのでお早めに

お申し込みくださいますように。お申し込み方法は、

円覚寺ホームページ上から申し込み用紙をダウンロード

して記入し、本山に郵送またはFAXするか、または

直接本山の受け付けで用紙をもらい記入して提出して

ください。



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第二回居士林だより編集会議

1月30日(月)



 今日は、午前中、白山道場・龍雲院で「居士林だより製本化編集会議」の

2回目の会合でした。今まで居士林だよりに掲載した管長様の提唱

三十数話とそれに写真を織り交ぜていく方針です。

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 白山の檀家さんであり、デザイン関係のお仕事をされている

田中さんがサンプルをいくつか作って下さいました。

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 これから提唱の内容になるべく合うような写真を選んで

どこにどう配置するかなどの作業にはいります。

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なるべくシンプルに提唱(お話)と写真だけが基本となっています。

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 こちらも田中さんが作って下さった表装のサンプルです。

  会議には、管長様も途中から出席くださいましていろいろと

 助言をいただきました。有り難うございました。

  
 遅くとも、7月の夏季講座には間に合うように作業を進めています。

皆さん、こうご期待ください!



 


竹葉模様

1月26日(木)その2


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お日様の光を一杯に浴びて、光輝いています。

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きれいですね。

(後記)

  今日で制末攝心も終わりです。有り難うございました。

 次の僧堂攝心は4月20日から26日です。皆さん、

 風邪がはやっていますのでくれぐれも体調管理に

 お気をつけくださいますように。

 

しじみ和尚

1月26日(木)制末攝心最終日


 管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

(なお、本日は講了といいまして、雪安居{10月から1月の攝心の

ある期間}最期の提唱となります。そこで講了にあたって

管長様の偈です。)

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「洞山の真子 俗に混じて融ず

蜆を摝し 蝦をろうして 以て腹に充つ

神前の酒盤を撃砕し去れば

今に到って 眠り熟す 紙銭の中」


 曹洞宗の祖である洞山良价禅師の法を受け継いだ

お弟子に蜆子和尚と呼ばれる人がいました。別段、大きな

寺に入るわけでもなく、大勢の雲水を・弟子を指導するわけでも

なく、俗世間の人達の中に入り、すっかりとけ込んで、

飄々とご自身の境涯を過ごされた方であります。


 しじみやエビを川でとってお腹を充たしておりましたので

「しじみ和尚」と呼ばれるようになりました。「飢え来たれば

飯を喫し、困じ来たれば睡る」とう言葉があります。自分で

食べるものは自分でとって暮らす生き方が一番自然であります。

動物も自分でとって食べて、あとは寝ている。それが一番自然と

いえば一番自然であり、そこに余計な理屈はありません。


 しじみ和尚さんは神社の祠をねぐらとしておりました。祠の

中には、ご祈祷・お供え用の紙で作った「紙銭」がたくさん

積んであり、その中で寝ていました。


 ある和尚さんがしじみ和尚が本物かどうか試してやろうと

寝床である紙銭の中に隠れてしじみ和尚が帰ってくるのを

待ちかまえていました。帰ってくると、突然紙銭の中から

飛び出して、しじみ和尚にこう問いかけました。

「あなたの禪とはいったい何であるか?」

しじみ和尚は即座に答えました。

「今そこにお供えしてある御神酒じゃ!」と。

神前の祠の中ですから、二人の前には御神酒が

お供えしてありました。


 このはたらきは見事でありますが、かといって御神酒が

禪であるととらわれてもいけない。そこをぶち壊してはじめて

禪であります。


 そうして見てみると、遠い昔のことではない今に到るまで

紙銭の寝床でグッスリ眠りこけているではないかといこと

であります。


 しじみ和尚の人生、これもまた一つの禪の姿であります。

ただ、なにもせず、あちらこちら、ぶらぶらあるいているだけだと

言う人もいるかもしれません。しかし、大きな目で見れば

人間の真実というのは生まれてきてからは、自分で自分の

食べるものをとって食べて、後は死ぬまでの間、あちらこちら

ぶらぶらして過ぎしているだけではありませんか。


 しじみ和尚のような人が伝記として残されている。これが

禪の懐の広いところであります。「各々因縁あり」であります。

それを縁として、それぞれの立場でそれぞれの己の本分を

尽くしていくことが修行であります。どこにいっても、私達に

とっては修行であります。


 何事も修行と思いする人は

   身のわざわい消えはつるなり








そら

1月25日(水)その2

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今日は、気温は下がりましたけれど空がきれいでしたね。

「山の上の雲」です。

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夕暮れ時、黄梅から眺める。

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雲の切れ間から夕日が光を発し、この美しさです。

この風景を見ていると、自然と心がなごみます。

何もしないことの尊さ

1月25日(水)制末攝心6日目


 管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 修行というものは、どこまでも無心・無我であります。

心の本体は無一物であります。ついつい一生懸命修行を

やるうちに「おれはこんなにやったんだ」という気持ちが

どこかに残ってしまいますが、これがまた災いと相成る

ものであります。


 もう、修行したというふりもない。

「悟り終われば 未だ 悟らざるに同じ」

悟ったとか修行したと見えることはないのであります。

こういうのを本当の無我・無心といいます。


 縁側のネコがゴロンと横になって日向ぼっこをしている。

別段、人に何かしようとう気はさらさらない。しかし、火の側に

近づけば自然と温かくなるように水の側に行けば涼しくなるように

何ら計らいのない無心・無我のはたらきによって、人は自ずから

穏やかになっていくのであります。


 和尚さんとして説教をすることや檀家さんにいろんなことを

やるのはいいのだけれども、余計なこと言わずに黙ってそこに

いてあげる、その場についてあげることも大切であります。

無心・無我でそこにいてあげることはきっと大きな力になる

のだと思います。


 最近、ある老師がお書きになった本をいただきました。

その表紙をめくると最初に次のような言葉がありました。

「我々はもっと何もしないことの価値を知らなければ

ならない。」


 私達は何もしないことの尊さをもう一度気がつかなければ

ならないのであります。

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生涯修行

1月24日(火)制末攝心5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 修行というものは、(生涯をかけて)長い間やっていくもの

であります。強いていえばこれでいいということはありはしない

のであります。途中と言えば永遠に途中でどこまで行っても

切りがない。それでいて「途中にあって家舎を離れず」で

ありますから、永遠に途中でありながらその一歩一歩が

完成品であり、終着点であります。


 修行には決してこれでいい、これで終わりというものは

ありはしないのであります。修行はどこまでも求めていく

続けていくものであります。


 みなさん、和尚さんになればお葬式の時に「喝!」を唱えます。

これは全力で一生懸命やればけっこうなのですが、そう簡単には

いかないものであります。


 本当にこの一喝で聞いている者の自我意識というものが残りなく

滅却しているかどうか?そんな力のある一喝が自分にはできるか

どうか?やはり生涯をかけて問い詰めていかねばなりません。


 一喝のもとに自我意識・分別・妄想があとかたもなくなくなる。

そして、この大地・世界、この世の中のすべてを我が兄弟・

我が子・我が孫と見て、いくつしむような、そんな大慈悲の心に

自分がなっているかどうか?


 この一喝のもとにここにいる人達を救いとっていくような

そんな力が自分に備わっているのか?


 (そう自分に問いかけ)「まだ足りない!まだ足りない!」と

思いながら命ある限り修行を続けていくのが私達の道で

あります。


 

雪景色

1月24日(火)


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 昨夜からの雪で鎌倉も白に染まりました。

今朝の朝日を受け始めた黄梅院の山肌です。

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空の青と雪の白!本当に心洗われる美しさです!

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夕日に紅に染まったり、雪に白く覆われたりと

山は様々な表情を見せてくれます。

己なき者にこそ

1月23日(月)制末攝心中日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「護生(ごしょう)は須く是れ殺すべし

     殺し尽くして始めて安居(あんご)」と言う言葉があります。


「護生」とは命を守ること、今風に言えば命を全うすること

また、人様の命を救うことであります。「殺し尽くす」とはいったい

何を殺すべきなのでしょうか?学者の方は、それは仏見だ、法見だ

知識だ、分別だといろいろと言われていますが、殺すべきは

我(われ)の一点であります。


 自我意識・「オレがオレが」という心、この一点を殺し尽くすのであります。

そうして本当に無心・無我のはたらきこそ、一番命を活かし、相手を

救っていくことになるのであります。


 新聞記事にこういうことが書いてありました。この頃よく

「傾聴ボランティア」という言葉をよくきくようになりました。

人の苦しみをこう聴いて差し上げる活動です。ところが

これがなかなか難しい。


 困っている人のところにあんまりいろんな人が傾聴ボランティアに

行って、「苦しくはありませんか?辛くはありませんか?」と訊くもの

だから、むこうの人はもううんざりしているとのことでした。


 聴いてあげようというような気持ち、つまり自我があると

むこうは救いとならないのであります。本当になかなか

難しいことであります。


 そんな問題に対して全国犯罪被害者協会の代表をされている方

がこんなことを言われています。(この方も全く理不尽に奥さんを

亡くされている経験をされています。)

「あの時、まわりにいろんな人が来てくれたが一番救いに

なったのは朝晩必ず現れる野良猫でした。何もものを言わずに

黙ってやってきて、そして黙って帰って行く。あの野良猫が私に

とって最高の支えとなりました。慰めの言葉はいりません。」


 野良猫にはなんとか癒してやろうとかそんな気持ちはかけらも

ありませんが、人を癒してしまう。これが無心・無我の妙なる

はたらきでありましょう。


 「護生は須く殺すべし 殺し尽くして始めて安居」

殺すというと何やら物騒な表現ですけれど

己なきものにこそ 安らぎあり

であります。

(後記)

   かなちゃん・しいちゃんに感謝ですね。



菩提心なき者は・・・

1月22日(日)制末攝心3日目


 管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「拘楼孫仏(くるそんぶつ)以来、菩提心なき者はことごとく魔道に

おつる。」と白隠禅師は繰り返し仰せになっています。


 遠い昔の仏様以来、「菩提心」つまり仏心(自分を救うよりも

人様を救っていこうという心)を持って修行しない者は、みんな

悪い方向へいってしまうということであります。


 法華経に、人々を思いやり、いくつしむことはまるで赤子を

思いやるようにという言葉があります。私達は、己の仏心を

いかにはたらかせていくのかが修行であります。


 今朝こんなことがありました。一人が午前3時頃にお寺に

不審者が現れて去っていったと報告に来ました。また、

別の一人から、境内に雨に濡れた迷子がいるから、

熱海の方まで送っていくので参禅に遅れますと連絡が

ありました。


 話をよく聞いてみると同じ人を見て、片方は不審者だといい

もう片方は困っている迷子と言っていたのでした。


 不審者と言った方は、そのまま日常通り朝のお経を読み

坐禅をし、迷子と言った方はその人にコンビニで食事を

買ってあげたりしながら、よく話を聞くと、知的障害を持った

青年で西の方から電車に乗ってきてお寺に迷い込んだと

いうことでした。そして、ご家族の方に連絡して熱海まで

付き添って行ってあげたのでした。


 この場合、坐禅をしお経を読むことが菩提心でしょうか。

親切に送り届けてあげることが活きた仏心・仏性のはたらき

ではないでしょうか。


 法華経に「仏様の部屋に入り、仏様の衣を着て、仏様の

座席に座る」とあります。つまり、大慈悲の心を部屋とし

柔和・忍辱を衣として生きるとうことであります。


 一人の人を見てこの人をどう見るか?どう

慈悲の心を持って接することができるか?

大切な課題であります。

(後記)

    この件は、「不審者」に思ったのは和尚さんで

  「困っている迷子」に見たのは、臨床心理士を

   していて、参禅もしている居士の方でした。



  




禪を活かす!

1月21日(土)制末攝心2日目


 管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 鈴木大拙居士が仰せになっています。

「人はみな禪の中で生きている。しかし禪によって暮らして

はいない。禪に気がついてそれを活かして生きている人は

少ない。」


 この場合の禪は、仏心・仏性と同義であります。人々はみな

仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。

しかし、そのことに気がついている人は少ないし、気がついても

それを活かしている人はまれであります。


 そして、仏心とはとりもなおさず慈悲の心であります。みんな

慈悲の心の中に生かされているにもかかわらずに、そのことに

気がついていないのであります。


 この仏心・慈悲の心にいかに目覚め、気づき、そしていかに

それをはたらかせていくか?であります。


 臨済・黄檗禅師のようなはげしい問答となってお互いの迷いや

煩悩を取り除いていくはたらきとなってあらわれる場合もあるし、

潙山・仰山禅師のようにやわらかくおだやかなやりとりの中で

活かしていく場合もあります。


 いろいろな活かし方があるのです。

禪とは何であるか?

1月20日(金)制末攝心初日


 管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


禪とはなんであるか?これは私達が生涯かけて追い求めていく

課題であります。前管長様の慈雲老師は「禪寺、禪寺と言うけれど

そこに本当に禪はあるのか?」とよく仰せになっていました。


 八百屋にいけば野菜がある。魚屋にいけば魚があるが禪寺に

禪はあるのか?と。


 禪とはどういうものであるか?これは非常に難しい。しかし、

あのお寺は禪寺らしい、あのお坊さんは禪僧らしいところが

あると一般にも言われます。


 ある老師は「例えば、お母さんが縫い物をしていて夢中に

なって、ふと気づくと食事の支度の時間をとっくに過ぎている。

 またお百姓さんが強い雨の中、よく研いだ鎌で草刈りをしていて、

ふと気がつくともう日が暮れてしまっている。そういうときにふと

心の中によぎる満足感、{今日一日よくやった!一生懸命よくやった!}

そこに禪の味わいがあるのではないか」と仰せになっています。


 一つのことに打ち込むこと、一生懸命何かに打ち込んでふと気づくと

時間が過ぎている。そんな時にふと感じる満足感、満たされた思いが

禪の味わいの一つであります。


 禪とはなんであるか?禪寺らしさとは?禪僧らしさとは?それを

私達は常に追い求めていかねばなりません。しかし、自分に

問いかけ続けたとしても、わかるということはありません。生涯の

課題であります。


 人の評価はやはりその人が死んだ後にされるのだろうと

思います。「あの和尚はあれはあれで禪僧らしかったではないか。」

「このお寺はこれはこれでなかなか禪寺らしいではないか。」と

いってもらえるようになれば上出来であります。


 禪とは心であるとも言われます。心は大海原のようにどこまでも

広くて限りがない。この広くて限りがない心というのは、

無我の心であります。己を捨てて己を殺して、己をなくして

大自然と一つになっていく。坐禅をしたら坐禅の呼吸・姿勢の中に

自分を投げ込んで一つになっていく修行であります。

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鎌倉は明け方から雪が舞い降りています。



明日から攝心です。

1月19日(木)

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 僧堂・専門修行道場では、明日1月20日から26日まで

「制末大攝心(せいまつ)」となり、一週間の集中修行期間

となります。1年で一番寒い時期に行われる攝心です。

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新参者

1月19日(木)


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かなちゃん、しいちゃんに続く「第三のネコ」の撮影に成功しました!

ニャーゴ!ニャーゴ!鳴いている方に行くと発見。そういえば、昨日

居士林での坐禅中にかなちゃんでもしいちゃんでもなさそうなネコの

鳴き声がしてました。このお方でしょう。かなちゃんのあとを虎視眈々

とねらっているとのうわさも・・・。若くて勢いがありそうです。

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こちらは「のんびり屋」っぽい、しいちゃん。爪研いでます!

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上半分だけしいちゃん。

道はどこにあるのか?

1月18日(水)


 管長様が本日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 昔の中国の、天皇道悟禅師とそのお弟子の竜潭崇信(りょうたんそうしん)

禅師とのお話です。若き日の崇信禅師が道悟禅師のもとで修行を始めた頃、

毎日おそばでお仕えしているにもかかわらず、道悟禅師は何も仏道のことや

禪の教えを教えてくれなかった。


 それを不審に思った崇信は「こちらに来てお師匠様から

禪の教えを示してもらったことがありません。どうか、

ご教授ください。」と道悟禅師に言いました。


 道悟禅師は「何を言うか。あなたがここに来てから、毎日

一日たりとも教えをしめさなかったことはないわい。」と。

崇信いわく「いったい、いつどこで私はおしえてもらったのですか?」


 道悟禅師はそれに答えて「毎日、あなたがお茶をもってきてくれたら

私はその時にありがとうと言っていただいただろう。あなたが食事を

もってきてくれたら、いただきますと。朝あなたがやってきておはようと

あいさつしてくれたら、私もおはようと。

 このすべてが禪の道ではないか!


 そういわれても崇信はきづくことができずに考えていました。

そこで道悟禅師は「今ここであなたが行じていることを

まっすぐに見なさい。道はどこかにあろうか?とあれこれと考えると

かえって道から遠ざかってしまうぞ。」と。


 そこでやっと崇信はハッと気づき「どのように心がけたら

この道を失うことがありませんか?」と問いかけました。

道悟禅師いわく「何も難しく考えることはない。その時その場の

縁にしたがっていけばいいんじゃ!ただ道はどこかに

あるのではないか?といらぬ考えを起こしたらだめじゃ。

毎日こつこつやっていることをたんたんとやっていくのが

禪の道じゃ!」


  道ということばに迷うことなかれ

      朝夕おのがなすわざと知れ

毎日毎日、顔を洗ったり、お茶をいれてもらったら「ありがとう!」と

いただいたり、ご飯をよういしてもらったら「いただきます!」

朝は「おはようございます!」夜寝るときは「おやすみなさい!」

そういう一つ一つに阿弥陀様の命が、涅槃がいきづいている

のであります。

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「和尚さんに毛繕いしてもらって、気持ちいいニャン!」

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「極楽 極楽。」














日本水仙(にほんずいせん)

1月17日(火)その2


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日本水仙です。原産地は地中海沿岸。室町時代以前に中国を

経由して日本に入ったと考えられているそうです。

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「水仙」の呼び名は「仙人は天にあるを天仙、地にあるを地仙、

水にあるを水仙」という中国の古典に由来します。水辺で咲く姿

が仙人を彷彿とさせることからのようです。

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ちょうど夕日に映えてキレイに咲いていました。

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黄梅院裏の竹藪で撮影。

百丈忌

1月17日(火)


 今日は、百丈懐海禅師がご遷化された日です。今朝方、

佛殿での百丈忌の法要に行って参りました。百丈和尚は

、日本で言う奈良時代から平安時代の頃の、中国・唐の

禅僧です。そのような昔の方の法要がなぜ今に至るまで

禅宗寺院で行われているのでしょうか?


 それまでの仏教教団はものへの執着・所有欲・蓄財を断つために

生産行為や労働行為を戒律で禁じていました。托鉢などの信者さんからの

ご供養で成り立っていたのですか、教団が大きくなるとなると

それではまかえなえなくなるという問題に直面しました。

 
 そういう状況の中で百丈和尚は、畑仕事をして自ら食料を

生産することや、それまで「雑用」と考えられていた掃除・洗濯

炊事などを、お経を読むことや坐禅をすること同じように

大切な修行であると「意識改革」をして問題を解決したのでした。


 ある人が百丈和尚に尋ねました。「今までの戒律に背いて

草を斬り木を伐り、地を堀り土をたがやすことは、罪の報いを

うけることになりませんか?」と。答えて云く

「罪があるか罪ないかはそれは本人の心がけ次第だ。」と。


 そしてそれまで戒律で禁じられていた労働行為等を修行として

認めるのと同時に、「ならば何でもあり」とならないように

はどめとして「百丈清規」という生活規則を定めました。


 それが僧堂・専門道場で生活規範となり現在に至るまで

脈々と守られています。僧堂の生活はお経を読むことや

坐禅をするはもちろん、食事の仕方やお風呂の入り方に

いたるまで、普通でしたら「当たり前」のことが、ほとんど

「儀式化」、つまり作法にのっとって行われます。


 「儀式化」することで食事など一つ一つの行為が

おざなりにするのではなく意識して丁寧にするようになります。


 食事をする、お風呂に入るなどの日常の「当たり前のこと」が

大切な行為として再発見されるような気がします。確かに作法に

慣れるまでは非常に窮屈に感じるかもしれませんが。


 百丈和尚が仰せになったように同じ事していても

心がけ次第でそれが「修行」にもなり、はたまたたんなる

「雑用」になる。まさに私達めいめいの心がけ次第であります。


 百丈和尚がご遷化されてから千年以上経ってもなお

その精神は今・現在に生き続けています。本当に

すごいことですね。


 




 






 


 

明朝は百丈忌です。

1月16日(月)


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しいちゃんです。毛並みがきれいですね。 

 さて、今日は夕方から「福鹿会」に行って参りました。

「福鹿会」とは巨福山建長寺の「福」と、瑞鹿山円覚寺の

「鹿」をあわせて「福鹿会」で、建長寺と円覚寺の本山務めの

和尚さん方の会合です。お互いの意見交換や親睦の会で

毎年一回この時期に行われています。


 明朝は、午前6時から佛殿で百丈忌です。昔の中国の

禅僧・百丈和尚のご遷化された日です。現在まで脈々と

受け継がれている専門道場の規範を確立した方です。


 また、ご本人ご高齢になっても、周りの人が心配するくらい

畑仕事に精をだされたという逸話があります。畑仕事を

したりご飯を作ったりお掃除をしたりなど「労働」することは、

お経をよんだり坐禅をしたりすることと同じように

重要な修行であるということを身をもって実践された

方であります。みなさんがそうして毎日はたらいていること

自体がそのまま修行である!と。

 
 どなたでもご覧になることができます。終わり次第、

暁天坐禅会になります。

 


 

何もかもがありがたい

1月15日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 われをなくしてみれば、何もかもが有り難くなるというのが

本当の世界であります。


 われわれは、まだまだあることが当たり前の世界でしか

ものを見ていないのであります。


 ある人が本に書いておりました。

「禪の悟りとは、失って初めて気付く尊さを

 失う前に気が付くことである。」と。


 生まれること、生きること、こうしていること、そして

最期、死を迎えること、、燃えて灰になる

こと、何を見てもどこを切りとっても有り難く思えることが

真の世界であります。






寒い中・・・

1月14日(土)

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 今年初めの土曜坐禅会は1部53名、2部58名と

たいへん寒い中にもかかわらず盛況でした。

 参加者の方々、誠に有り難うございました。

途中、かなちゃんも居士林に姿を現していました。

明日から再開します。

1月13日(金)


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オオクモヘリカメムシです。カメムシの中でも最強の臭さとのこと。

雨戸の板にへばりついていました。寒さのせいかほとんど

動かずじまいでした。

板目の美しさとこの虫さんマッチしてませんか!

 さて、明日が今年になって初めての土曜・土日坐禅会となります。

今年も宜しくお願い致します。

椿

1月11日(水)


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黄梅院の玄関前に咲いています。

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この厳しい寒さの中、凜と咲いている姿は

胸打たれます。厳しい環境の中で精一杯という

お姿をしています。

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こちらのお方もそうですね。

南無阿弥陀仏

1月9日(月)


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 こちらは坂村真民先生が傘寿(80歳)の時に揮毫された

「南無阿弥陀仏」の直筆です。昨日の日曜説教会に坂村先生の

娘さんがおいでになっていて、終わった後、こちらの墨跡を

管長様に贈られたそうです。

 坂村先生が昭和40年頃朝比奈宗源老師のいられた円覚寺を

訪れたとき、門の所に

「となうれば仏もわれもなかりけり      

  南無阿弥陀仏なむあみだ仏」

 という一遍上人の歌が大きく掲げてあり、禅寺に上人の歌が

 と思いながらもそこが禪のいいところだと、しばらくなつかしく

 眺めていたという逸話があります。

 たまたま日曜説教会のお話の中で、管長様がそのことについて

ふれられていたので娘さん、ご自身お持ちした「南無阿弥陀仏」の

墨跡との偶然の一致にたいそう驚きになったそうです。

 管長様も仰せになっていましたが、因縁・ご縁はいろんな

ところに重なり合っている、まさに「重々無尽」です。
 
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こちらは、書右上に押されている坂村先生の「たんぽぽ」の印です。

昨日紹介した「たんぽぽ魂」ですね。
 
 一遍上人が「南無阿弥陀仏」のお札を配って人々を何とか

救いたいと願い続けたように、坂村先生も紙一枚の両面に

詩を書き毎月ごと、1200人もの方にお配りになられたそうです。

その際、宛名は全部先生ご自身が、まるで「南無阿弥陀仏」と

清書されるように一つ一つお書きになられたとのことです。

 最後に坂村先生の詩を紹介します。

「死のうと思う日はないが

生きていく力がなくなることがる

そんな時 お寺を訪ね わたしはひとり

仏陀の前に坐ってくる

力がわき明日を思う心が出てくるまで

坐ってくる」

 管長様が震災復興のこういう時期だからこそ

この詩を多くの人に知らせることができたならと

おっしゃられていました。


 


信じようが信じまいが

1月8日(日)その3


 日曜説教会の提唱その3


 一遍上人は小さなお札に南無阿弥陀仏と書いて配ること

によって念仏を広めていました。あるとき事件が起きました。

ある坊さんにお札を渡そうとすると自分は念仏を信じる心が

ないから受け取ることはできないと断られてしまいました。


 一遍上人は周りの人目もあり無理にでも受け取って

もらいましたが、はたしてこれでいいのか?信じる心のない

人にはどうしたらいいのか?と深く悩んでしまいました。


 そこで熊野大社にこもり祈っていると熊野の神様が

一遍上人の前にあらわれ言われました。

「あなたが念仏を勧めるからみんなが往生するわけではない。

阿弥陀様はとおの昔にみんなを往生・救ってくださっている。

念仏の札を渡そうが渡さまいが阿弥陀様はみんなを救って

いる。だから信じていようがいまいが、どんな人であろうが

区別なくその念仏を広めなさい」と。


 これは禪の悟りに通じるものがあります。

朝比奈宗源老師も「信じようが信じまいが

人はみな仏心の中に生まれ、仏心の中に生き

仏心の中に息を引き取る」と仰せになっています。


 一遍上人は熊野権現の教えによって

「我 生きながらにして 往生せり!」とこう気づかれた

のであります。

捨てて捨てて捨て得ないもの

1月8日(日)その2


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民先生の詩に「捨てて捨てて捨て得ないもの」という

詩があります。私達が何もかも捨てきったら一体どうなるか?

何が残るのでしょうか?


 「捨てて捨てて捨て得ないもの。

それは一遍上人にとっては南無阿弥陀仏であり

私にとっては詩であり 母(先生のお母さんのこと)に

とっては5人の幼子であった。

 捨てて捨てて捨て得ないもの。

それは人それぞれのものがあろう。

でもあくまでもそれは財産でもなく名誉欲でもなく

人の為に尽くす無償の愛でありたい。

 かつてない狂乱の時代に生まれ

静かに一隅にあって花を愛でたい。

 捨てて捨てて捨て得ないものを私は今日も

こい願う。」


 無償の愛とは見返りを求めない愛という意味であります。

仏教では慈悲と申します。何もかも捨て去って最後の残るものは

人の為に己の力を傾け尽くしていく無償の愛・慈悲・いくつしみの

心であります。とりもなおさず、仏心・仏の心であります。


 それは、お互いめいめい一人一人の本心でもございます。

それが本心であるにもかかわらず好きだ嫌いだとわがままを

いってかえって自分を苦しめ自分を見失ってしまっています。


 捨てて捨てて捨て得ないもの、それでも最後に残るものは、

人の為に無条件で何かお役に立ちたいという願いであります。













 

念ずれば・・・

1月8日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民先生がお亡くなりになる2週間前に「念」という

一字をお書きになりました。それが絶筆でありました。

「念ずれば花ひらく」の「念」であります。


 「念ずれば花ひらく」の詩をうたった先生が最も愛した花は

たんぽぽでした。たんぽぽ魂という有名な詩があります。


 「ふみにじられても くいちぎられても

 死にもしない かれもしない その根強さ

 そして つねに太陽に向かって咲くその明るさ

 私はそれを魂とする。」


 何もただ静かにすましこむばかりが仏心ではありません。

坂村先生は仏心を「南無」と呼んでいました。ある人が

坂村先生にとって「南無」とはなんですか?とお尋ねすると

先生は「そうですね。夜明けの空を勢いよく鳥が飛んでいく。

川が朝日に光り音をたてて流れていく。あのあふれるような

命が南無ですよ。」とお答えになりました。


 たんぽぽのごとく力強く、飛び立つ鳥のように

勢いよく念じていく。そして念じていけば必ず花開いて

いくんだと心から信じてこの一年をお互い乗り切って

参りたいと思います。





 

円覚寺 しいちゃん用

1月7日(土)


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 総門を通りかかると久しぶりにしいちゃんのお姿を拝見できました。

しっぽを足にまくのがしいちゃんスタイルのようです。

確かに防寒対策になる!

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職員さんからお食事をいただいています。お皿には

「円覚寺 しいちゃん用」のネームプレートが!

 しいちゃんは小さい時にガリガリの瀕死状態で

円覚寺山内をさまよっていたときに雲水さんに救われて

病院に連れて行ってもらい、しばらくは僧堂の方で

飼われていたようです。今は総門付近をテリトリーとして

職員さんなどに食事をいただいて活計を立てている

ようです。ネコもネコなりの人生(ネコ生)があるんですね。

 今ではまるまると太って円覚寺の名物猫と

なりつつあります。どこか気弱でおどおどした感じ

がなんともかわいいです。

(後記)
  
    明日は、方丈で午前9時から管長様による

   日曜説教会です。どなたでも拝聴できます。

臘梅(ろうばい)

1月6日(金)


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今、黄梅院では臘梅が満開です。きれいですね。

そして、香りもいい!

 唐の国から来たことから唐梅とも呼ばれ、

花弁が蝋のような色であり且つ臘月(旧暦12月)に

咲くことからこの名がついたそうです。

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 お正月の松竹梅の梅には臘梅を使いますが、梅の名が

ついているからといって梅(バラ科サクラ属)ではなく、

ロウバイ科ロウバイ属だそうです。

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黄梅院の玄関先の千両です。

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 今日も本山に寄ると勅使門前にトトロ風かなちゃんがいました。

まるで門番みたいですね。

(後記)

   今晩、僧堂では鏡開きがあり、お汁粉を作ってみんなで

  食べます。明朝は初喚鐘(はつかんしょう)といって今年

  初めての独参(禪の問題のやりとり)となります。通常の

  生活に戻ります。

   お正月気分も今日までです。

無事

1月5日(木)


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管長様揮毫。円相・「無事」・「青松」(管長様の軒号)と

書かれています。

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「花は無心にして蝶を招き、

(蝶は無心にして花を尋ぬ)」

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「渓声は便ち是れ広長舌、

山色豈に清浄身に非ざらんや。

夜来八万四千の偈

他日如何が人に挙似せん。」

(後記)

 おかげさまで、お正月の行事も無事に一段落

 しました。ホッと一息しています。

 有り難うございました。

  さて、平成24年度春季学生坐禅会の日程が

 3月2(金)3(土)4日(日)になる予定です。正式に

 決まりましたら、改めてお知らせします。

なでなでかなちゃん

1月4日(水)


 今日は午前中、管長様と黄梅院の檀家さんの家に

般若札を持って新年の挨拶回りに行って参りました。

終わって管長様はそのまま白山へ行き、

私は本山に戻ってくると・・・

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勅使門前にかなちゃんが日向ぼっこしていました。

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親子連れが通りかかり、お父さんがお子さんの手を取って

触っても大丈夫となでなで。かなちゃん、なんだ、なんだと少し

薄目で見つつも・・・

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すぐに気持ちよさそうに夢の世界に。
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