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自分の中の仏様

10月28日(金)その2


 管長様が10月25日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「楚鷄かえってこれ丹山の鳳」という故事があります。

昔、楚の国の人が鷄(にわとり)を握って道に立っていました。そこに

旅人が通りかかり、「それは何の鳥ですか?」と尋ねました。鷄の主は

今で言えば詐欺師でしょうか、「これは、伝説の鳥、鳳凰(ほうおう)である。」

と答えました。旅人はそんな尊い鳥を初めて見たと喜んで「それを千金で

売ってくれませんか?」と頼み、交渉の後、結局倍の二千金で買いました。


 買った人は「このような貴重な鳳凰はぜひとも楚の王に献上したい」と思い

王の所に向かいました。しかし何日もかけて歩いている内にその鳥は途中で

死んでしまいました。「大金を出して買ったことは惜しくはないが、残念なのは

王様に献上できないことだ」と嘆き悲しみました。


 その話が王の耳に入り、王はその人を呼んで「あなたのそんなにまでして

貴重な鳥を献上しようとするその気持ちをもっていてくれることが有り難い」と

買った額の何十倍ものお金を褒美として与えました。


 さて、この話は何を物語っているのでしょうか?鳳凰と言われて鷄を

買わされてしまいましたが、その気持ちが純粋無垢でまじりっ気がない

そして人を疑わなかったおかげで、何十倍もの富を得たのでしょう。

純粋なまじりっ気のない気持ちでみれば、鶏も立派な鳳凰であります。


 道元禅師が「どんな粗末な仏像でも仏像は大事にしなさい。どんな

粗末な紙片でもお経が書かれていたら大事にしなさい。どんな仕方のない

坊さんでも僧の姿をしていたら、大切にしなさい。」と言っています。


 その人・そのものがどうこうというのではありません。そう拝み礼拝する

私達の心が大事なのであります。その人が純一な気持ちで「尊い仏様

だなあ」と思い拝む心こそが自家の仏様であります。仏像に手を合わせることは

とりもなおさず、自分自身の仏様に手を合わせるのと同じであります。


 純一に純粋無垢に修行をすれば、けっして外の景色ではない

自己の仏心・仏性に、自分の中の仏様に気づくことができるので

あります。

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総門近くによくいる猫「しのぶちゃん」です。






 
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此の身再び得ず

10月28日(金)


 昨日、午前中、黄梅院にローカルテレビの取材が来ました。「寺宝」という

ことで管長様に相談したら、「表信」の掛け軸がいいだろうということで

それを紹介させていただきました。

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「表信」円覚寺197世東海禅師 揮毫。

信を表すとは、「この衣は、信を表す。」という言葉が由来です。仏法の信実を

伝えた証拠として、師匠から弟子にその象徴としての衣や袈裟などを伝える習慣が

あります。実際に伝法の証となる袈裟が円覚寺開山無学祖元禅師が

中国・径山寺から持参し、黄梅院開山夢窓国師を経て、現在に至るまで脈々と

伝えられています。

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黄梅院の山号は、「伝衣(でんね)」で衣を伝えると書きます。

仏法の信実の象徴である衣を伝えること。仏様の教えを後世まで

お伝えすることであります。

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こちらの扁額は、円覚寺202世洪川(こうせん)老師 揮毫です。

「天地に万古(ばんこ)あるも、此の身再び得ず。

人生只だ百年、此の日最も過ぎ易し。」

出典は、<菜根譚>です。

 この宇宙は永遠不滅であるけれども、このいただいた自分の

命は限りがあり、この人生はたった一回切りのかけがえのない

ものである。宇宙の時間から比べれば、一瞬のように短いこの

人生、だからこそ一日一日を大切に生きていこう!

 かなり意訳してしまいましたが、本当に含蓄のある心に

響く言葉です。

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夕日に映える秋明菊。きれいですね。

おかげさまで

10月27日(木)


 おかげさまで、入制大攝心、無事に終了することができました。

有り難うございました。

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 攝心中、1週間に次から次へと花が咲きました。<秋明菊>

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<白玉椿>

怠け者の瓉(さん)さん

10月24日(月)攝心5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 懶瓉(らんさん)和尚という方が中国・唐の時代にいました。本名は

明瓉(みょうさん)といいましたが、周りの人から「怠け者の瓉さん」と

あだ名されていました。懶とはものういとかなまけるという意味です。

 
 唐の9代皇帝の徳宗が懶瓉和尚の名を聞いてぜひ教えを受けてみたいと

思い勅使を遣わしました。勅使が懶瓉和尚の住む石窟に到り告げました。

「詔をくだしてくださった、お礼のご挨拶をしなさい。」と。和尚はちょうど牛の

糞で焼き芋を焼いてむしゃむしゃと食べていました。寒いときで、鼻水があご

までたれていました。鼻ズルズルで焼き芋を食べている姿をみて勅使が笑って

言いました。「ちょっと、鼻ぐらいふいたらどうですか。」それに対して懶瓉云く

「私は俗人の為に鼻をふいている暇はないわい!」と振り向きもせずにそのまま

芋を食い続けたそうです。

 勅使が帰ってそのことを皇帝に申し上げると、皇帝は怒るどころか

「それは見事な方であるなあ!」と褒め称えられたそうです。


 この話一つで懶瓉和尚は、千年の後も絵に描かれたり、詩にたたえられたり

と後世にに知られています。何が尊いものなのか、何が価値があるのか。

いろいろな価値観を持つことが大切であります。


 あいつは怠け者だ!というような一面的なものの見方していたのでは

大切なものを失ってしまいます。仏教のすばらしい所はいろんな立場

それぞれそれぞれの立場でみんな尊いものを持っていると見るところです。

 それぞれそれぞれが一つ一つの花を咲かせているという華厳の教えであります。


 今時の言葉で言えば「多様性」を受容することであります。そして、

「ああいう生き方もある。」、「あれはあれなりにがんばっている。」と

広いものの見方をすることで自分の中にある慈悲の心を育てることが

できるのであります。







ナマケモノ的生き方

10月23日(日)攝心中日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 ナマケモノという動物がいます。人間が勝手に「怠け者」という名前を

つけましたが、ナマケモノにしてみれば怠けているつもりはさらさらないと

思います。世の中をみる、人間をみる、社会をみる、仏法の世界を学んでいく

場合に大切なことは、一つの価値観に執着せずに、いろんなものの見方

いろいろな価値観、尺度を持っていることであります。


 生存競争、弱肉強食、自然淘汰などのそういう価値観からでは

このナマケモノという生き物は推し量ることができません。ナマケモノは

実に不思議な生き物で、何をしているかというと別段何をしているわけでも

ありません。1日に20時間以上寝ていて、起きて何をするのかというと

同じ木の葉っぱをほんの2~3枚食べるだけで、あとは木にぶら下がって

じっとしている。


 それでは、生存競争の激しいジャングルであのナマケモノがどうして

生きているのでしょうか?当然何もしないでぼやっとしていれば獲って

食われるのが森の世界であります。


 食べてもまずい、ろくに動かないから肉がついていないなど諸説

ありますが、一つの真理として「争わないものは攻められない。」

「戦わないものは攻められることはない。」という森の法則があります。

戦わない!争わない!という生き方をあのナマケモノが選んだのでしょう。


 我々人間といものはいろんな文明・文化を生み出し、なんだか偉そうにして

そういう価値観で「あんなナマケモノは全くの役立たずだ。」と見ていますが

時には長い長い大きな目で見れば、我々人間のものの見方がいかに狭いもの

小さいものかわかるはずです。地球上にはかつて恐竜やマンモスなど様々な

生き物があらわれては滅んでいきました。無常の法則ですから、いつかは人間の

時代も終わることがありましょう。遠い将来、地球の歴史を振り返ったとき

「あの人間という生き物は何をしたのか?」という議論になったとき、私ならば

「たえず殺し合いを繰り返し、そしてこの地球をこれだけ汚したのが人間であります。」

言わざるを得ません。今のままではそうなりかねません。


 そこへいくとナマケモノはどうですか?別段人間から見れば怠け者かもしれませんが

大地を何一つ汚すことなくその中で暮らしています。そういう目から見たら、

ひょっとして、ナマケモノの方が立派な生き方をしているのかもしれません。



 









 

豊かな世界

10月22日(土)攝心3日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 無我の所が本当に豊かであり、それを体験するのが私達の修行

であります。いくらお経や本を読んでも、そこに「自分が解釈した」とか

「自分が理解した」などの我(われ)があれば、それは迷いに迷いを

重ねてしまうことになります。


 お経を読むにしても、ただ無念・無心に読むことが大切です。

ただ、声ばかりが響いているように。


 ある人が六祖・慧能禅師に尋ねました。「あなたは、(修行して)何を会得しましたか?」と。

禅師云く「我 仏法を得せず。」と。私は仏法については知りません。

わかりようがありませんとお答えになりました。


 そこを、知った!悟った!としていたら、そのことは「我」を交えてしまうと

いうことであります。私達の修行はどこまでも「我」を離れて忘れることであります。


 また、ある人が「自分は修行してあらゆる煩悩・妄想を断ち切ることができ

外の世界を見ても、何の念も起きず、悟りの境地が増長しています。」と

言いました。それに対して禅師は「私には何の悟りもありはしない。煩悩・妄想

も断ち切ることができず、外の世界にもしばしば心が動かされてしまいます。

私に悟りはどこにもありはしない。」とお答えになりました。


 ただ、我をはなち忘れることが大事であります。

この大自然の中に没入して、坐禅をしたら坐禅の姿勢の中に

我をはなち投げ入れる。お経を読んだらお経の響きの中に

ただ、ひたすら自分を投げ入れていく。わかる・わからないなどの

意識分別を全部捨てて、身も心を忘れて投げ入れていくのが私達の

禪の世界であります。


 そうすると、本来無一物!何と豊かな世界であったことかと気づかされる

のであります。


 







仏の眼(まなこ)

10月21日(金)攝心2日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「大事因縁山よりも重し」という言葉があります。仏法の一番大切な

ことは山よりも重いんだという意味であります。


 六祖・慧能禅師は字が読めなかった。しかしながら、お経の大切なところの

意味はわかったので、涅槃経や法華経のはっきりしないところを

他の人から尋ねられたそうです。そうすると慧能禅師は、字が読めないので

お経をその人に読んでもらって、それを聞いてお経のお経の大切なところを

みてとったと言われています。


 法華経の中に、仏様は一大事因縁の為に世の中にあらわれるという

言葉があります。それでは、一大事因縁と何でありましょうか?

 それは、めいめいの人々が誰もが生まれながらに持っている

「仏様の眼(まなこ)」を開いてもらうことであります。人を救う事は

食べ物が困っている人にそれをあげることや、住まいを提供するなど

いろいろありますが、本当に人を救うということは、その人その人に

智慧の眼、悟りの眼をひらいてもらうことが究極であります。


 慧能禅師も、「自分自身が仏である!この自分の心以外に

仏はありやしない!」と気づくことだと言っています。


 しかし、我々は実際は外の世界に執着して、貪り、ねたみ、いかりなどで

自分自身の本来の心を、本来の光明、心の光を見失ってしまっています。

 
 「外に向かって求めるな!我々は仏様と無二、一体だ!」という句があります。

私達の心の本心・本性は、仏様と寸分かわりなく、一体であります。


 めいめいこの私の心こそ仏である、外を見たら、姿形は違えども

みんな自分と同じ仏なんだと気づかせることが一大事因縁であります。

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朝比奈宗源老師 揮毫 「大事因縁 山よりも重し」<僧堂>

 




願い

10月20日(木)その2


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 五祖弘忍(ごそぐにん・・・達磨大師から5代目の祖)禅師と六祖・

慧能禅師の出会いは禪の教えの中でも大切なものであります。


 慧能禅師は、その当時坊さんでもない、25,6歳の青年でした。五祖は

一体なぜ、そんな彼を第6代目にそえたのでしょうか。

 一体何を悟り、何に気が付いて、六代目となったのでしょうか。


 それは、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」心の本性を悟っている

このこと一つです。「人に南北ありといえども、仏性に南北なし。」

男・女、南・北、素早い人・鈍い人、若い人・老いた人、素直な人・意地の悪い人

いろいろあるけれど、心の本質・本性は仏心である。

 
 その仏心と何であるか、このこと一つをはっきりと明らかにすることが

私達の修行の眼目、ねらいであります。


 仏心とは本来清らかであって、大慈悲心のことであります。人をいくつしむ心、

思いやることのできる慈悲心に他ならないのであります。私達のこの心の本性が

仏心であった!大慈悲心であったとこう目覚めるのが眼目であります。


 (後記)

 慧能禅師の逸話に対して管長様がこんなことを言っておられました。

「これは、何の道においてもそうですが、不思議なものであって、

自分が願っていることを一生懸命していると必ずその方向に向いて

道が開けてくるものです。」

開講の偈(げ)

10月20日(木)


 入制大攝心が今朝から始まりました。10、11、12、1月と大攝心がある月が

続きます。この期間を雪安居(せつあんご)と呼んでいます。それに対して4月~7月

の大攝心のある月を雨安居(うあんご)と言います。本日は雪安居の開講

(提唱の始まりの日)で、管長様が偈(仏教の宗旨をあらわす漢詩)を

お唱えになりました。


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嶺南(れいなん)の獦(かつ)りょう 黄梅に上(のぼ)り

打破す 神秀 明鏡の台

謂うこと莫れ 本来無一物と

金風(きんぷう)颯颯(さつさつ)として蒼苔(そうたい)を掃(はら)う


「(中国の南部出身であるため)南のサルと呼ばれた慧能禅師

(ダルマ様から6代目の祖)がはるばる五祖のいる黄梅山に上って、


 神秀上座(その山の修行者の頭)が「心は明鏡台のごとし」と

言われたのを見事ぶち破ってみせてくれた。


 六祖慧能さんよ。「本来無一物」とやぼなことはいいなさんな。


 秋の爽やかな風が苔の上を吹き渡っているではありませんか。
 



入制大攝心

10月19日(水)


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 明日20日から26日まで、円覚寺僧堂(専門修行道場)では

「入制大攝心」となります。僧堂の門には、その看板がかかげ

られています。攝心とは、心を攝(おさ)めるという意味です。

いわば、集中修行期間となります。

ちなみに、10月20日~26日 入制大攝心

      11月20日~26日 月並(つきなみ)大攝心

      12月 8日~15日鶏鳴 臘八(ろうはつ)大攝心

       1月20日~26日 制末大攝心 と呼んでいます。

  攝心中と普段の時では、次のことが変わってきます。

 ○普段は、日中、托鉢や畑仕事などの作務をしますが、攝心中は

  それらをせずに、坐禅に集中します。

 ○普段は、だいたい午前4時に起床ですが、攝心中は3時(臘八は

  2時)となります。

 ○普段は、独参(老師との一対一での禅問答の時間)が朝晩の2回ですが

  攝心中は3~4回となります。管長様は、僧堂師家(修行僧の指導役)も

  兼ねていますので、居士も含めると20人以上の人との参禅を指導されて

  います。

 ○攝心中は毎日、管長様による提唱があります。「武溪集」を提唱されています。


管長様は、攝心中も朝晩、雲水とともに禪堂に坐られています。僧堂を出た

 和尚さんの中にも遠い所から提唱を拝聴に来られたり、禪堂に坐る方もいます。

 現役の修行僧ともども、修行の身であることは、和尚になっても変わりません。

  身の引き締まる時期の到来です。
  

白玉椿(しらたまつばき)

10月18日(火)


 午後、白山から黄梅院に帰ってくると昨日つぼみをふくらませていた

白玉椿が咲いていました。

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本当に美しい!今年の先駆けです。

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こちらは、サザンカだろうと思います。これからあちこちで

だんだんと咲き始めます。楽しみです!

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龍隠庵の布袋葵(ほていあおい)です。浮き草で葉の基部がふくれてきて

浮き袋になります。これを布袋さん(七福神)の丸いお腹に

たとえてそういう名前になったそうです。

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まるで、仏様の光背のような花弁の模様ですね。

 


対機説法

10月17日(月)


 今朝、暁天坐禅会参加者の方達との粥坐会が山内・如意庵さんでありました。

おかゆをいただいた後、管長様においでいただき質疑応答の時間となりました。

 今回の参加者は16名。まず、管長様の前で自己紹介していきました。管長様

一名一名の名前を手帳に書き込んでおられる様子でした。そして、管長様に対して

参加者の質問が始まりました。管長様は各自の質問に対して一つ一つ丁寧にお答えに

なっていきました。いくつかの質疑応答をまとめてみました。


 ○呼吸をするとき、数息観(呼吸を一つ二つ・・・と数える方法)をしていますが、

 坐禅の時間中ずっと数を数え続けなければいけないのですか?


 管長様云く「坐禅の始めは数を数え、呼吸を意識しますが、やがて

  呼吸も意識しなくなるのがいいのではないかと思います。」

○坐禅をしているといろいろな境地になりますが、どのような境地が

 目標となりますか?


 管長様云く「自分が悟りが進んだと思っても、孫悟空がお釈迦様の手のひらを

 動き回ったほどのもの。お釈迦様からみれば、たいして違いはないのでしょうか。

 たいして変わりがないにもかかわらず、自分は高い境地だと慢心になるのは

 よくありません。


 ○堕落しているとされる仏教界、今国難にある日本を管長様はどう

 改革されますか?


 管長様云く「結局は、何の問題に関しても自己を正して、どこまでも

 自分の問題として、身近な人に接していくしかないのだと思います。

 自分にできること、自分の持ち場をしっかりと努めて、地道に身近な

 人に訴えて少しずつ少しずつ共感を広げていくしかないのでしょか。


 ○現代の競争社会では仏教を説くのは難しいのではないか?


 管長様云く「逆に競争社会であるからこそ、そこに行き詰まりを感じたときに

 競争社会を離れた世界の存在が重要になってくるのではないでしょうか。

 ふっと立ち止まって考える、そういう世界があると知っているだけでも大きな

 支えになるのではないでしょうか。


 ○「不殺生戒」を守ることはできないといつも反省していますが・・・


 管長様云く「戒律はいろいろとありますが、それは{守れ!守らないと

 罰則だ!}というものではありません。不殺生戒一つをとっても厳密に

 完全に守ることはもともと誰にもできません。それではなぜ戒律が

 あるのでしょうか。そのねらいは、心のはどめにあります。生きている以上

 他の生き物を殺さざるを得ない中で、戒律があることで、「これは無益な殺生

 ではないか」と考えたり意識することではどめになるのであります。


 など率直な質問が多数ありました。お釈迦様は、その人その人に応じて

教えを説かれました。まさにそれを彷彿とさせる時間でした。

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会場の如意庵さんの鶏頭におんぶバッタがいました。

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なかなか「粋なヤツ」です。

 



 

訳ありキュウリ

10月16日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 先日、ある人から「今日の環境問題をどうがんがえますか?」と

尋ねられました。環境問題というと自分と外の世界を分けて考えていますから

禪的には、環境と言った時点で間違いであります。


何のことでも引き起こしたものはなんであるか? 

問題はなんであるか?というと自分の心であると思わざるを

得ないのであります。自己の問題と受け止めなければ、環境を

どうしようと騒いだところで何にもなりません。人の心がこういう

環境問題を作り出しているのだとものの見方を変える必要が

あります。


 今日、我々の価値観は、少しでもキレイなもの、かたちがそろったもの、

手のかからないもの、早いもの、便利で楽なもの等、そういう方向ばかりを

追求した結果、現在のような問題が起こっているのではないでしょうか。


 自然の世界は、きたなく、ぶざまで、不釣り合いであります。昔のトイレの

ようにくさいのが自然であります。


 最近では、曲がっているキュウリを「訳ありキュウリ」と呼んでいるそうですが

私から言わせれば、まっすぐできれいで、つやつやで全く虫がつかないキュウリの

方が「訳あり」であります。ゆがんで、虫が食ったキュウリの方がよっぽど

自然のキュウリであります。


 ゆがんだキュウリを「訳ありキュウリ」というそういう価値観を改めて

いかなければならないと思うのであります。


 自分と環境が分かれているということはありはしない。

みんな一枚の自然なのです!


 あいつが悪い!あいつがけしからん!というどんな争いでも

もとをただせば、全部、人我の争いであります。我をたてて争う

のであります。我のない所にどうして争いが起こりますか?

我のないものにどうして争いが起こりますか?

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居士林右横の景福荘近くの生け垣にサザンカが咲き始めました。





 



 




 






 

おかげさまで・・・

10月15日(土)


 昨日、今日と2日間にわたる羅漢講式・舍利講式は、無事に

終えることができました。有り難うございました。

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(後記)

  「かなちゃん」観光客とたわぶれている姿が良く見かけられているそうです。

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羅漢講式

10月14日(金)その2


本日は羅漢講式で、明日は舍利講式です。

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午前中、儀式の飾り付けをしました。

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こちらが舍利(お釈迦様のご遺骨)が入った厨子です。

一年に一度だけのご開帳です。

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厨子の中にあるミニチュアの塔にお舍利が安置されています。

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その他、五百羅漢像や十六羅漢像のお軸を掛けて儀式を行います。

羅漢講式は、14時・円覚寺大方丈にて始まります。

白杜鵑(しろほととぎす)

10月14日(金)


 円覚寺山内の如意庵さんから白の杜鵑草が咲いたよと教えていただき

撮影させていただきました。

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純白ってほんとに清楚でいいですね。

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それにしても、ホトトギス草って不思議な形をしています。

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こちらも純白の桔梗。こちらの心も清めてくれそうです。

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如意さんの玄関です。柏葉あじさいの葉を活けたそうです。

後ろのふすま絵は、先先住さんが描かれたものとのこと。

有り難うございました。

羅漢講式・舍利講式

10月13日(木)その2


 円覚寺本山では、明日14日は羅漢講式、15日は舍利講式という

大きな儀式があります。

 羅漢講式は十六羅漢およびその眷属一切の賢聖を供養する儀式です。

14時・円覚寺大方丈で行われます。

 舎利講式は、舎利(お釈迦様のご遺骨)に供物を供えて回向し

その功徳をほめたたえる儀式です。円覚寺には、お釈迦様の奥歯と

いわれる舎利があり、この時ご開帳されます。15日・午前5時半の祝聖

から始まり、佛殿→舎利殿→大方丈と儀式を行っていきます。

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大きな儀式の時には、門などに幕を張り、荘厳をします。

紀伊上臈杜鵑(きいじょうろうほととぎす)

10月13日(木)


 円覚寺山内・龍隠庵に立ち寄りましたら・・・

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ほんとに綺麗ですね!

「紀伊上臈杜鵑」というそうです。「紀伊」は世界に紀伊半島だけに自生して

「上臈」は江戸幕府大奥の身分の高い職名をさす言葉で、優雅な貴婦人を

あらわすそうです。

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「山里の貴婦人」とも呼ばれています。

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絶滅危惧のある希少種です。

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がんばって!

杜鵑(ほととぎす)草

10月12日(水)


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花弁の斑点模様が鳥のホトトギスのお腹の模様に

似ていることからこの名前だそうです。

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一応、日本原産と推定されています。

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今、黄梅院のあちこちで咲いています。

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ほどほどがいいんです。

10月11日(火)その2


 管長様が先週の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「煩悩を断除すれば、重ねて病を増す。」という言葉があります。

みなさんは、煩悩を断ち切らなければいけないと居士林に行って

坐禅をしますが、そうして、煩悩を取り除いてしまったら、みなさんに

何が残りますか?おそらく何も残らないでしょう。(一同笑。)

 
 ほどほどに煩悩をしておけばいいんです。人に迷惑をかけない、

食べ過ぎないと適度にやればいいんです。無理してなくそうとするから

「重ねて病を増す。」余計、病気になってしまうんです。


 草でもそうです。通行の邪魔にならない程度にほどほどに生えて

いるのなら一つ景色であります。


 煩悩のまま光明、光明の中での煩悩。強いて断ち切ろうとする

必要もないし、強いて悟りを求めようとする必要もありません。


 毎日の暮らしを滞りなくおこなっていれば、それが立派な

光明の中ではないか。悟りだ!迷いだ!という文字面に

とらわれて本当の光明を失っていませんか。

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山茶花(さざんか)

10月11日(火)


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黄梅院で山茶花が咲いているのを見つけました。たぶん早咲きでしょう。

心洗われるような美しさです。椿・山茶花はたくさんの種類がありますが

「上野絞」(うえのしぼり)という名前ではないかと思います。

 黄梅院は、前管長様が様々な種類の椿・山茶花を植えられたので

これからの季節、本当に楽しみです。ちなみにサザンカの名は

山茶花の本来の読みである「さんさか」が訛ったものだそうです。

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こちらは、秋海棠(しゅうかいどう)です。

黄色い玉とうすピンクの花弁、かわいらしいですね。

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ちなみに秋海棠の花言葉は、「片思い」だそうです。

なぜ「片思い」なのかというと、ハート型の葉の片方がおおきくなることからと

いわれています。おもしろいですね。

 「うーん、確かにそうじゃな。」 ドジョウ居士、納得のご様子。

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鬼瞼升麻(きけんしょうま)か大葉升麻(おおばしょうま)だそうです。

himeuzuさん有り難うございました。つぼみが開いてふさふさって感じが

なんとも言えませんね。

桂花(キンモクセイ)

10月10日(月)その2


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 「古殿深沈人不見 満庭桂花風露香」

 古殿深沈として人見えず 満庭の桂花 風露香(かんば)し

 という禅語があります。まさにそのままです!<黄梅院>

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 昨夜来の雨で桂花(キンモクセイ)の花が落ちてご覧の通り

美しく大地を染めています。

 中国南部原産、江戸時代に渡来。丹桂と呼ぶのが正式で、

一般的には桂花と呼ばれているそうです。

「おかげさま いっぱい」

10月10日(月)


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 昨日の日曜説教会で管長様が紹介された本です。

円覚寺前管長の足立大進老師がお書きになった

「おかげさま いっぱい」(海竜社)です。

 裏表紙に「どう生きるか」生き難い世の中の

生ききる道しるべとあります。

 平易な言葉と具体的な事柄で仏様の教えの

本質を説いてくださっています。




揺るぎない確信2

10月9日(日)その2


 法華経も含めて仏教の教えのねらいは、みんな尊い仏様の心を

いただいていること、そして本来持っているその心に自分で気づくこと

です。

 
 竹田益州老師は、火事を起こしてしまった苦しみ、それを周りの人から

ののしられる苦しみ、そういうまさにどん底の中で、たとえどんな取り返しの

つかないことを犯してしまっても、たとえどんなに他人から言われようとも

私の心の本質は浄らかであって塵一つ着かない、何にも傷つくことはない

と揺るぎない確信をされたのでしょう。


 褒めそやされて得た確信よりどん底から得た確信というものは

揺るぎない。そういう何事にも微動だにしない揺るぎないものを自分で

つかんで欲しいが為に默雷老師はあえて厳しい鍛え方をしたのでしょう。


 晩年、益州老師が建仁寺の管長の時、僧堂の隣のお寺が全焼し

明くる朝、そのお寺の住職がはらはらと涙を流しながら益州老師の

所にきました。老師はその顔を見て、ご自身もかつてお寺を燃やして

しまった苦しみ・苦労を涙をもって語られたそうです。そして

「あんたもたいへんだ、どうか辛抱して辛抱して復興してください。」

と手を握られたそうです。この和尚さんは、これ以上の励ましは

なかったかと思います。


 そういう老師のお姿を拝見して、苦労をすることは決して無駄に

なりはしない。無駄になるどころか、その苦労・苦しみが他の人には

できない、相手を救ってあげる大きな慈悲の力になるのだと間近にいて

学ばせていただきました。


 どんなにののしられても、どんなにけなされても、どん底の中でも

「私達は誰一人例外なく何ものにも傷つくことのない宝の珠、心をもっているんだ」

と気づくことが法華経の教えであります。


 

揺るぎない確信

10月9日(日)


 日曜説教会で管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 建仁寺の管長だった竹田益州老師は、若い頃、数年間の修行を

終えて大きなお寺の住職となりましたが、火の不始末でそのお寺の伽藍を

燃してしまいました。なかば、追い出されるようにお寺を出され僧堂に戻り

ました。名刹を燃してしまったとの自責の念に苦しみ、また周りに人からも

ことあるごとに責められました。とりわけ師の竹田默雷老師は、とくに厳しく

「だから、お前はそんなことだから寺を燃やすんだ。」とののしり、これには

若き益州老師も実にこたえたそうです。



  禅宗の老師はあまりほめたり、情けをかけることはしない。ほめることは

一見たやすいことのように思えますが、それが本当にその人の為になるかは

難しい。温室育ちですとどうしても弱い。杉の木はすくすくと育ちますが台風が来ると

真っ先に枝が折れ、幹が倒れるともう芽が出ない。



  ある仏師の方が言っていましたが、仏像を彫るのに一番適していない

のはすくすくと育った木だそうです。逆に谷の底から伸びて周りの木に日の光を

さえぎられて、かろうじて伸びてきた木は一番強く仏様を彫るのにはいいそうです。

 将来、禅宗の和尚さんとして世間の荒波を越え、何事にも堪え忍んで

いけるように麦踏みのごとく、默雷老師は益州老師をお鍛えになったのでしょう。


 そんな益州老師が修行にはもう耐えられないと本当に追い込まれたときに

ある方から「これをとにかく読め。」と手渡されたのが法華経の訓読本でした。

老師はそれを繰り返し繰り返し読んで「自分は本当に救われた。」と思われた

そうです。

 次に続く・・・



姫女菀(ひめじょおん)

10月8日(土)


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ヒメジョオンです。姫(小さい)女菀(中国産の野草の名)だそうです。

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北アメリカ産。明治時代に観葉植物として渡来し、日本の各地に

帰化しました。

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関東地方では、かわいそうなことに「貧乏草」と呼ばれています。

そういう私も貧乏草と呼んでいました。でも、姫女菀という素敵な

名前があるのには驚きました。

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姫女菀が何で貧乏草なの?と思われるかもしれません。

いろいろな説はあるのですが、どんな貧乏な家にも生える

強健な植物だからとか、どんな荒れ地でも逞しく育つその姿が

ハングリー魂を連想させるからという説があります。

逞しく生きる姿勢は見習いたいものですね。


かなちゃんの奇跡

10月7日(金)その2


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お昼頃、本山に立ち寄るとかなちゃんがいました。いつもは近づくと

逃げてしまうかなちゃんが、なんと!こちらにすりよって来ました。

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初めて、頭をなでたり、のどをゴロゴロさせてもらいました。

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何の風の吹き回しかな?誰かと間違えているのかな?

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全く警戒感無く、ご覧の通り、ゴロン!

さわれてうれしい反面、少し心配になってしまいました。

大和蜆蝶(やまとしじみちょう)

10月7日(金)


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シジミチョウ、名前は知っていましたが実物を見ると

本当に貝殻のような模様をしているんですね。

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大きさもシジミの貝くらいのです。

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近づいてもあまり逃げないので間近で撮ることができました。

繊細で可憐で、触るとこわれてしまいそうな とても小さな命です。

(後記)

   アップルの創業者のスティーブン・ジョブズ氏がお亡くなりに

 なりました。ジョブズ氏は若い頃から禪に親しみ愛読書の一つが

 オイゲン・ヘリゲル著「弓と禪」で、曹洞宗の僧侶 

 乙川弘文さんを精神的な指導者としていたそうです。 

  また、そばを好む菜食主義者で東洋文化にも傾倒し、土曜日の朝

 坐禅をするのが習慣だったそうです。

  まさに時代の最先端にあった方が、これほど「禪」に関心を

 持っていたとは、正直驚くとともに、「禪」の普遍的な可能性の

 大きさを改めて感じました。 また、ジョブズ氏ほどの功績を

 あげた人でも死を避けることができないという事実に無常の

 真実を思います。

 心よりのご冥福をお祈り申し上げます。

(追伸)
    YOU TUBEでジョブズ氏のスタンフォード大学卒業式

   での演説を見ることができます。彼の生き様、死生観等が

   語られ、心に深く響く本当にすばらしい演説です。

   


自己を忘じた時・・・

10月6日(木)その2


 管長様が昨日、淡青会坐禅会で提唱したことをまとめてみました。


 公案修行(修行僧に禪の問題を与えて探究させる修行)の一番の

大きな意味は、禪の問題に四六時中集中することによってそれ以外の

雑念・妄想をどんどん減らしていくことにあります。


 坐禅しているときはもちろん、歩いているとき、横になっているとき、

お手洗いに行くときでも問題にに集中することによって、それ以外の雑念・妄想は

自ずから消えていきます。過去のこと、これからのことといろいろと

考え込んでしまいますけれど、少なくとも問題に集中しているうちは、

それらのことは忘れています。そして、忘前失後(前・後ろを忘れ)前後裁断

(過去・未来を断ち切り)、問題と一つ、一枚になったところに

お釈迦様やダルマさんと寸分違わぬ、私達の本来の心に気づきます。


 問題に全身全霊に集中して自己を忘じた時、初めて私達の心の本性が

はっきりします。なくなったものをいつまでも追いかけていても

苦しみは増ばかり。他人のことといつまでも比べていても、これもまた

苦しみは増えてしまいます。

 
 自分を忘れるくらい何かに本気で集中することによって、私達は

自分の内に「これは尊いものがある!」と気が付くのであります。


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快晴!

10月6日(木)


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昨夜からの雨もあがり、良い天気になりましたね。<方丈>

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青い空!きれいですね。

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苔むした桜の老木です。

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大きな杉の影が石垣に投影されています。

光あれば影があり、晴れた日があれば雨の日もある。

一体なんですね。
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