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仏手柑(ぶっしゅかん)

 10月31日(日)


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 指をたばねてちょうど手を合わせている形をしていることから

「仏手柑」というそうです。居士林裏の龍隠庵にいく階段の横に

なっています。
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土日坐禅会 休会

 10月29日(金)


 明日、明後日の土日坐禅会は、台風の直撃が予想されるため休会となります。

なお、土曜坐禅会は行う予定です。

 宜しくお願い致します。

 居士林主事 合掌

 

僧堂攝心提唱 5日目

 10月24日(日)


 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 維摩経に 「道法を捨てずして しかも凡夫の事を現ずる」とある。

これは 悟りをしっかりと身につけた後 あえて世間の人の中に入って

現実に苦しみ迷っている人々といっしょに 自分も迷っているのと同じような姿を

して暮らしていくことだ。自分だけ澄まして坐禅しているのではいけない。


 また 維摩経に「不二の法門に入る」とある。

 生まれたとか死ぬとか二つに考えるのが迷い。

本当の悟りは「不二」である。坐禅をすると この二つに分けて考えるのが

ひとつにとけ合ってくる。私とあなた 善と悪 迷いと悟り

みんな分けて考えてしまいがちだが

本来 天地一枚 一つである!


 一つにとけ合っていくのが本当の坐禅だ。

空と海と この大宇宙と 天地一杯の命と 自分と一つにとけ合う。

一呼吸一呼吸一つにとけ合っていくようにゆったりと坐っていきたいものだ。 





 





僧堂攝心提唱4日目

 10月23日(土)


 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 結局 心というもの 意識の主体はこの体の内この体の外という区別が

あるわけではない。この虚空に天地に充満している。

誰の心 彼の心と別があるわけではなく みんな一つ心なんだ。


 その心には遠い過去からのあらゆる経験知識が全部蔵のようにたくわえられている。

そこから私たちそれぞれが脳神経を通して一部を情報されているにすぎない。


 心の大本を尋ねれば自分だ他人だの区別はなく天地一枚

一連なりに連なった一枚の命であることに気づく。


 たたかれてアイタタタ!と痛いと思うのもそこに

過去無量劫の命が全部そこに活きづいている。


 自分だ自分だという思いの源は 単なる思いこみで幻であり夢であったと

気づくこと。我なくなれば 天地の生き物がそこで初めて目がさめる。


 このいただいた生き通しの命 いかに活きてはたらいているか?



僧堂攝心提唱2日目

 10月21日(木)


 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 本来 無我である!

これに徹するのが私たちの修行の一番の根本 すべてである。

我(われ)がなければ天地一枚の仏心である。

仏心以外のものは 蟻のひげ一本も見当たらない。

というのがお釈迦様のお悟りになったことだ。


 そのことに気づかないのが愚かさという。

気づかないで これがオレだ あいつが嫌いだ あいつが愛しいと右往左往する。

それを病(やまい)という。


 維摩経では その病を何とか救いたいとあえて自分も病になるところが書かれている。

人々が苦しみ病んでいるから自分も病になる。

例えて言えば わが子が病気になればその親も病気になるのと同じように。

それは慈悲の心による病である。





碧巌録48則その2

 10月17日(日)


 老師が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
  
ある本山の管長までお務めになった老師様の逸話です。


 90歳を過ぎた老師が、夜中に布団に起き上がって何かブツブツ言いながら

頭を布団にすりつけて礼拝(らいはい)を繰り返している姿をお弟子さんがたまたま見ました。

 お弟子さんがどういうことか後で老師に聞いてみると、次のようにお答えになったそうです。

 今日会ったあの人にああいうことを言ったけれど、あれはすまんことをした、

申し訳ないことをしたと懺悔(さんげ)の気持ちでしているのだと。

それも老師は何人も何人もいろんな人の名前を言いながら礼拝を繰り返していたそうです。

あの人には悪いことしてしまった、言い過ぎてしまった、力がおよばなかったと懺悔せずにはおれない

老師のお心が遷化して50年を経てもなお慕われている所以なのだろう。


 いろんな人と出会いふれ合っていくうちに、自分の何気ない一言が相手を傷つけてしまったり

また自分が気がつかなかったために相手がさらに苦しんだことがなかったろうか?と思うと

誰にもきっとあるはず。


 そういう時に自分のやったことに対して申し訳ない、すまんことをしたと

懺悔する気持ちが仏教では非常に大切なことだ。


 


 

無門関25則三座説法

 10月16日(土)


 老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 
 今こうして聞いているもの、みているもの

 今こうして確かに生きているものは、どんな言葉でも表現することはできない。


  しかし、ないわけではない。二六時中ずっと働いている。

働きづめに働いているんだ!


 しかもそれはこの小さな自分だけを動かしている力ではなく

自分や他人はもちろん虫けら、動物、草木にいたるまであらゆる生きとし生けるものを

生き通しに生かしてくださっているものだ。


 その生かしてくださっているものを確かに自分で確かめていく。

そして、もうこれ以上貴いものはよそにないと気づくこと。

それが坐禅の上で一番大切なことだ。

カマキリ

 10月12日(火)


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縁側でカマキリを見つけました。こちらを向いてポーズをとってくれました。





そのあと、消火器の赤い箱を上っていきました。どこにいくのでしょう?

10月 日曜説教会

 10月10日(日)

 
 老師が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。

 
 われらは 仏のこどもなり

 うれしい時も 悲しい時も

 御親(みおや)の袖に すがりなん

 われらは 仏のこどもなり

 幼い時も 老いたる時も

 御親に変わらず 仕えなん


  これは、北鎌倉幼稚園の園児が歌っている歌です。

御親とは仏様のこと。

 私たちは、一人一人例外なく仏様のこどもなのです。

そうであるにもかかわらず、大人になるにつれて

自分が仏のこどもであるということを忘れ去られてしまう。


 それでは、私たちが仏様のこどもであるということは

いったいどういうことだろう?

 それは、私たち誰もが仏様の心、命をいただいているということだ。

例えば、死ぬまで動き続けるこの心臓。いったい誰がこれを動かしているのか?

それは、自分の意志ではなく大自然の命がこの心臓を動かしている。

それこそ、計らいを超えた仏様の命!

だから、みんな仏様の命を生きている。

 あらゆる命あるものは、みんな仏様の命を持っていると気づいたなら

まわりのものにあたたかい思いやりのある心がふつふつと湧いてくる。

みんながお互いに仏様の命をいただいていると手を合わせて暮らせることができたたら

どんなに良いことか。



無門関33則非心非仏

 10月6日(水)


老師が提唱されたことをまとめてみました。


心こそ心迷わす心なれ

心をたよりにするな。

心に振り回されてはいけない。

心こそ恐ろしいものである。

 そんな心をいかにして調御(調える)することができるか?

 いかにしておさめることができるかが仏教の課題だった。


 馬祖道一禅師は、そうした状況の中で、

「自分のこの心こそ仏である!」と言われた。

 そうすると、人々は「心」という概念「仏」という概念にとらわれてしまって

本質を見失ってしまったから、今度は「心でもない仏でもない」とお説きになった。


 それでは、「心」とは「仏」とはいったい何をさしているのか?

結論は、心とは天地一杯にみちあふれているもの。

坐禅をすると、これが自分これが他人、内と外の区別がだんだんぼやけてきて

やがて天地と一つになる。


 私たちは、「心」とか「仏」とかの言葉でもってはとても限定することのできない

もっと大きなものを生きている。この生きているものを確かに感じ取って

些末なものにとらわれずに、大きな命の流れに身をゆだねまかせていくことが大切。





 
 

お地蔵さん

  10月1日(金)


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 黄梅院にあるお地蔵さんです。不思議なことにお地蔵さんの左手から

白いキノコがにょきにょきと生えてきて、ご覧の通りウェイトレスさんみたいなお姿に。

キノコの上にお詣りの方がお賽銭を載せていきます。なにか御利益ありそうな・・・

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