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提唱 無門関四則

  7月25日(日)


老師が、夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。


無常(みな良きにしろ悪しきにしろ必ず移り変わっていく)

無我(これこそ自分というものはどこにもない)


人は無常無我に徹してみてはじめて、わかる。


「あ~生まれてきてよかった!」と。


 無常無我、何にもないところに帰ったら、

 只今の一時を、こうして今様々な人たちとめぐり逢い生きていることに

 ありがとうの気持ちを感ぜずにはいられない。


  わがままな自分があるうちは、「ありがたい」とは感じられない。


 「私たちが何気なく生きている今日は、昨日亡くなった人にとっては

  かけがえのない一日であることを忘れてはならない。」


  だから、私たちは、今日一日を笑顔でニッコリとほほえんで

 精一杯自分のお務めをしていこう!


  仏の教えは、生まれてきて良かった!と心の底から感謝すること。

 その為には、無常無我に徹することが先決。


 

  
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夏期講座の風景

7月25日(日)

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 大勢の方が、いらっしゃっています。

提唱 百丈野狐

  7月23日(金)


老師が夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。


今日は無門関2則百丈野狐をもとに仏教の因果のお話をされた。


因果応報、善因善果悪因悪果って本当か?

あんないい人がはやくなくなったり、逆に悪い人が長生きだったり・・・・


 しかし、仏教では「三世因果の法則は、三世に及ぶ。」

  
 つまり、原因は必ず結果としてあらわれる

 次の世代、はたまたさらに次の世代といつあらわれるかはわからないが、

 いづれにしても、必ず善因は善果と悪因は悪果となってあらわれる。


  原因と結果は縁(様々なめぐり会い)によって複雑に入り組んでいるため

 はかりしれない、わからないのが真実。


 わかりようがなければ、その結果(自分にふりかかる現実)をそのまま受け止めるしかない。

 過去の原因を、変えることができない。

 我々にできることは、今のそのまんまの自分をありがたいと受け止め

 将来に向けて良い種をまくこと。


 自分にないものを求めるのが、迷い苦しみ。

 逆に、自分にすでにあるもの、備わっているものをありがたいと気づくことが悟り。


 「生まれたことの不思議 生きていることの不思議 両手を合わせる」


  これほどの不思議はない!


  今ここに、こうして生きていることはどれだけのご縁と出会いとめぐり合わせの結果かと

  思うと手を合わせずにはいられない。

  


  

提唱 7月攝心初日

   7月20日(火)  

 
 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


観音様、阿弥陀様、薬師如来・・・となぜたくさんの仏様があるのか?



それは、我々の様々な願いを様々な仏の姿に託してあらわしているからだ。

 
例えば、千手観音様。それは、千の手万の手をかりてでも人々を救っていきたいという

「願い」を姿に表したもの。

 また、薬師様は、病気で苦しんでいる人を救いたいという「願い」を表したもの。


 現代は、特に心の病の人が増えている。

 
 それに対して、宗教家、お坊さんは何ができるか?


 「火の側に行けば、暖かくなる。

  水の側に行けば、涼しい。

  大樹の木陰は自ずと涼しい。」


  火も水も大樹も無心にして人を癒してくれる。


  「無心の人の側に行けば、自ずから心やすらかになる。」


  坐禅をして、何の計らいもない無心の人。

  実は、そのような人が悩み苦しんでいる人の心をやすらかにすることができるのかもしれない。


  

 


 




提唱 碧巌録四七則

  7月18日(日)


 老師が土日坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 法身不滅(お釈迦様の教えは永遠である)

では その不滅の教えとは何か?


 孔子曰く 「天何をか言うや、四時行われ 地何をか言うや 万物生る。」

      (天は何も言わないが、きちんと春夏秋冬はめぐっている

       地も何も言わないが、あらゆるものが生まれてくる。)

 
  この天地自然の雄大な姿、はたらきこそが法身そのものなのだ


  そして、私たちもその天地のはたらきの一部分。

  
  私たちは、天のはたらきによって生まれて大地のはたらきによって生かされている。


  それは、自分だけが特別、人間だけが特別なのではない。

  畑になるなすびも庭にいる猫もみんなそう。

  みんな天地によって生まれた一つ一つ。


  また、たたかれて、 痛い痛いと感じるそいつこそ、法身のすばらしいはたらき。 

  おなかがへったら「あー はらがへった!」

  ご飯食べたら「おなかいっぱい!」

  疲れたならば、眠る。


  禪の教えはそれだけ。


  なんだそんなことかと思われがちだが

  それこそ、立派な法身!


  仏のはたらき=天地のはたらきによって我々も日々生かされている。

  そのことに心から手を合わせて、拝むことができたら

  本当に安らかな気持ちになる。

  


 


 

山百合(やまゆり)

   7月15日(木) 


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 黄梅院の本堂前に 今日 山百合が開花しました。

 ちなみに 「ゆり」は「揺り」の意で おおきな花が風に揺れ動くことに

 由来するそうです。 

かたつむり

   7月13日(火)


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 のど かわいちゃった。
 

キュウリがとれました。

   7月12日(月)


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 黄梅院の裏の畑にも キュウリがとれはじめました。

 さっそく 今日の昼の食事に。

日曜説教

   7月11日(日)


老師が日曜説教会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 今日の提唱は 昨年遷化された松原泰道先生と老師のご縁の話です。

 中学生の時 老師は松原先生にお手紙を書き 全く面識がないにもかかわらず

先生は親切にもお会いしてくれる約束をされた。

 和歌山から上京し 先生と初めてお会いした老師は

「仏教の教えを一言でまとめたものはなんですか?」と質問された。

先生は色紙に「花が咲いている 精一杯咲いている 

        わたしたちも 精一杯生きよう」と書き老師に渡されました。

  花はその場所で与えられた状況で精一杯咲いている。

  できるできないの結果ではなく 精一杯つとめることが大事


 また 老師が修行道場に行く前にはなむけの言葉として

「あれをみよ 深山(みやま)の桜咲きにけり 

   まごころ尽くせ 人知らずとも」という歌をいただいたそうです。

 
 そして 修行がおわった老師は 今度は僧侶として生涯保っていく言葉を

 先生に求めたとき 先生は

 「衆生無辺誓願度」とお答えになり 「やはりこの言葉しかない」とおっしゃったそうです。


 生きとし生けるものの悩み苦しみは限りがないけれど 誓って救っていこう。

 
  先生は遺言でも「私の死ぬその日は 彼の土(あの世)の説法の初日である。」

 尽きることのない願を持ち続けてお亡くなりになったとのことです。
 
 その願は 永遠の命となって私たちの中に生き続けている。
  




  





提唱 無門関21則 

      7月10日(土)

 
老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 坐禅をすることは 泥水を澄んだ水にするようなもの。

何にも手を下さずに 静かに放っておけば自然と水が澄んでくるように

手を組み 足を組み あとは放っておけば 頭はからっぽになる。

 
 何も思わぬが 仏の稽古なり


その何にもなくなったところから出てくるはたらきは 

慈悲の心 思いやりの心

 
 しかし 現実は自分中心に好き嫌いとものを仕分けてしまう。


その仕分けを取り払えば みんな仏!

どんなものにも いくつしみ 親しみ 思いやりの気持ちが自然と出てくる。


 各々の体において 活きてはたらいているもの 仏の命そのものを

自分の呼吸を通じて 感じ 確かめろ!


 気づいてみれば 天地一枚みんな仏であった。









提唱 無門関30則即心即仏

   7月7日(水)


老師が淡青会坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


  あなたの心が 仏である!

これ以上端的なおしえはない。

 
 各々が仏様の心というかけがえのない これ以上ない宝物を持ちながら

 それに気づかずに 人に言われるまま おろおろ迷い求めている。


 みんな例外なく仏様の心をいただいているのだから

 その心を日常の中に活かして

 怒りや貪りではなく

 慈悲や思いやりを持って人に接したいものだ。


 仏様の心のはたらきは慈悲や思いやり。

 いかにして いくつしみや思いやりの方向へと心を運んでいけることができるか?

 その為に坐禅をして心をおさめ温かい心を出していけるようにするのが本当の修行。
 
  
  (後記)

      円覚寺のホームページからリンクできるようになりました。



提唱 碧巌録46則

     7月4日(日)


老師が土日坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「月は我 我か月かとわかぬまで 心も月も 有明の月」

(自分が月か 月が自分か見分けがつかなくなるまで

  天地一杯 一輪の月である。)

 坐禅をするときは 天地 大宇宙の命の中へとけこんでいく方向へ。


 呼吸をするときは 肚をふくらますだの へこますだの

 そんな些細なことにとらわれずに

  
 それこそ 天地一杯の呼吸を自分の中に吸い込んで

 天地一杯の中に自分の呼吸をはいて 

 はいているやら 吸っているやら なんやらわからなくなるまで

 我が身を忘れてしまうような呼吸をしたいものだ。


 そうすると 一つの大きな命の中にとけ込んで

 呼吸をすることが ただ ありがたい うれしい 楽しいと思うようになる。


 お茶をいただくとき お粥をいただくときなど日常の中で


 いかに 天地一杯のいのちをいただいくことを実感できるか?


 それが 大事!



提唱 無門関20則

    7月3日(土)

老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「天地(あめつち)を 肚におさめて 田植えかな」

  (天地全部をおなかの中におさめて田植えをする)

さらに 

「天地も 肚も忘れて 田植えかな」

  (天地一杯も肚も何もかも忘れて田植えに没頭する)


  意識しているとまだ狭い

  小さな自分にとらわれず 何もかも忘れて もっと大きな自分に


  「自分探し」は 一歩間違えると 自分の我が儘の増長になりかねない。

   坐禅はその我が儘な自分を一度否定する。

   そして もっと広い大きな自分に気づく。


   坐禅をして 家族やまわりの人から 穏やかになった 優しくなったと言われるのは

   正しい坐禅。逆に頑固や我が儘になったと言われるのは考え物。


   小さな自分に対する執着を否定して もっと広い大きな自分に気づき

   回りのもの 家族はもとより草や木や鳥や虫にいたるまで 

   慈悲の心 同じ一つの命であると 温かい思いやりの心で接していくのが

   本当の坐禅の道である。

   

   
  

 

    7月2日(金)



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僧堂の宿龍殿前の水盤に咲いている蓮です。

いつも雲水さんのお経を聴いているせいか この美しさ!
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