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提唱 6月摂心6日目

      6月25日 (金)   摂心6日目


老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


黒住宗忠さんの歌に


「わが姿尋ぬるにまた及ぶまじ ただ天地に満ち渡るもの」とある。

 (私の姿を探し回る必要はない。ただこの天地一枚に満ちあふれている。)


また

「我がまるで無くなれば、天地が結んでいた心の活(い)きものが初めて目覚めて、夢が覚めるようなことにな

る。」という言葉がある。


 どうしたら 我々は夢からさめることができるか?


 「身も我も心もすてて天地のたった一つの誠ばかりに」

それは 我なしにふれること 何にもなくなったところにふれること

 
 しかし 我をなくすことは たやすいことではない。

 古人も 放身捨命 命をかけて取り組んできた。


 歯をくいしばり 目ん玉をみすえて  全身全霊一呼吸に打ち込まなければ

 至り得ないもの。


 我を忘れて 命をかけて 坐れ!




 

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提唱 6月摂心5日目

    6月24日(木)   摂心5日目

老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。

わたしは墓のなかにはいない

わたしは墓のなかにはいない
わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる
だからわたしに会いたいなら
わたしの詩集をひらいておくれ

わたしは墓を建てるつもりで
詩集を残しておくから
どうか幾冊かの本を
わたしと思うてくれ

妻よ
三人の子よ
法要もいらぬ
墓まいりもいらぬ
わたしは墓の下にはいないんだ

虫が鳴いていたら
それがわたしかも知れぬ
鳥が呼んでいたら
それがわたしかも知れぬ
魚が泳いでいたら
それがわたしかも知れぬ
花が咲いていたら
それがわたしかも知れぬ
蝶が舞うていたら
それがわたしかも知れぬ

わたしはいたるところに
いろいろな姿をして
とびまわっているのだ
墓のなかなどに
じっとしてはいないことを
どうか知っておくれ (坂村真民全詩集第五巻より)

  私たちのこの命は 全宇宙にあふるる命であります。

大千世界一枚の命であります。
 無心無我の坐禅をして 我(われ)というものが毛筋一本残らないように

  広い 深い禅定に入りたいものだ。

提唱 6月摂心4日目

     6月24日(木)

 
 老師が昨日僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


法華経に常不軽菩薩が出てくる。

この菩薩はどんなにばかにされても 暴力をふるわれても

「我深く汝等を敬う 敢えて軽慢せず 所以はいかん

  汝等皆菩薩の道を行じて 当に作仏することを得べし。」

(そのようなことをされても 私はあなたを敬います。決して軽んじません。

 なぜなら あなたは必ず仏になられる方であるからです。)

 と言われたそうです。


 我々は誰もが かけがえのない仏の子!


 それなのに それに気づかずにさまよい歩き苦しみ続けている。


「衆生本来仏なり」 どうしたらそれをきがつかしてあげることができるか?

 
  宮沢賢治さんの「虔十(けんじゅう)公園林」の主人公虔十は常不軽菩薩のような人。

 虔十はまわりの人々から馬鹿にされ罵られながらも杉の苗700本を植え育てた。

 そして杉林となり子供達の遊び場となる。数十年たって街はすっかり変わってしまっても

 その林は人々の憩いの場として残った。それを見て ある人は「人は何が賢くて

 何が愚かであるかわからない」と言った。


  この物語からこれからのお寺のあり方を考えてみたらどうか。



 


提唱 6月摂心3日目

      6月22日(火)   摂心3日目


 老師が僧堂摂心で提唱を私なりにまとめてみました。


 難しい困難な問題に どう対処するか?


 特別なことはいらない。


 禅僧は 裸一貫 無一物


 そこからあふれ出てくるのは 仏心


  「慈悲喜捨(じひきしゃ)」

 人のことをいくつしみ つらく苦しんでいる人を見て何とかしてあげたいと思い


 いいことがあったらいっしょに喜び 


 人の本性は仏心仏性だと信じてどんなひとでも受け入れてあげる心


   古人曰く

 坊さんの本質は 自分自身には 「自身無我」

         人に対するときは 「和合慈悲」

       
  あの和尚さんがいるからあのお寺にいこう 

  そう思われるひとになりたいものだ。


    
         

提唱 6月摂心2日目

      6月21日(月) 摂心2日目


 老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 布薩(ふさつ)とは懺悔すること。


 比丘(男性の修行者)は250の戒律を守ることを誓うが


 それを完璧に守るのは 不可能だ。だからといって 平気でやぶっていいわけではない。


 大切なのは 常に戒律を意識すること。

 
 戒律を意識することによって 慚愧の心をおこして懺悔することが大事。


 戒律を破ってしまって 恥ずかしい 申し訳ないという気持ちをもつこと

 
 自分の心に恥じ入ることが大切。


  自我の一念が大きな争いや迷いの根本であると見極め


 なんにも心にひっかかりがないのが 禅宗の真の懺悔である。  


  

 

提唱 6月摂心初日

      6月20日(日)  摂心初日


  老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。

  
 山あり谷ありの修行(人生)に必要なものは 「大信心」と「大願心」


 「大信心」とは
  
   私たちは誰でも仏様の心と智慧をはじめから備えていると信じること

   自分にもやればできると信じること

 「大願心」とは

   高く大きな願いを掲げることで少しずつでも一歩一歩仏様の方へ近づいていく


  衆生無辺誓願度(あらゆる命あるもの 生きとし生けるもの 悩み苦しんでいる人は
          
          限りがないけれど 誓って迷から悟りへ渡さんことを願う)
 
  煩悩無尽誓願断(その為のはまず 自分が自分の煩悩を絶たなければならない。

          あらゆる苦しみの根本は われの一念にあり。

          もともとなんにもないところに我を勝手につくってそれに

          執着していると気付けば 自然と我は消える)

  法門無量誓願学(悩み苦しんでいる人を救っていく方法をまなぶことは

          限りがないけれど)

  仏道無上誓願成(これでいいという終わりはなく はるかで難しいことかもしれないが

          あらゆる生きとし生けるものがやすらかでおだやかに暮らせるように

          自分の一生を捧げましょう。)


   「無縁の大慈悲心」(ありとあらゆる人の対していくつしみあわれみ思いやりをもつ)

    が体全体に満ちあふれているような人になりたい。 

    その人がそこにいるだけで その場の雰囲気が明るくなるような

    そんな人になりたいものだ。

   
     円覚寺の数代前の管長釈宗演老師の「宗演禅師発願文」をもとに

    提唱されました。

   
   

提唱 日曜説教会

      6月13日(日)


  老師が日曜説教会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 山本玄峰老師は19歳で失明宣告を受け死に場所を求めて四国遍路に出かけ


 裸足参りで7回り目に たまたま臨済宗のお寺の前で行き倒れになって


 そこの和尚に救われた。


 出家志望の山本青年にその和尚は

  「(あなたの目は見えなくなるかもしれないが)本当に修行して

   心の目を開けば 本物のお坊さんになることができる。」と言った。


 では 心の目を開くとは何だろう?


  
  禅宗では 「見性(けんしょう)」といって 本心本性を見ること。

  
  玄峰老師はそれを「性根玉(しょうねだま)」と呼んでいる。


  「みがいたら みがいただけの 光りあり

      性根玉でも 何の玉でも」


  平たく言えば

  あらゆる命あるもの 生きとし生けるものみんな

  仏様の心を持っていると気づくこと!


   仏様の心とは 相手への 思いやりの心 慈悲の心


   でも現実は 自分の都合ばかり考えてしまうから

   本来の心がくもってしまう。

   「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心を 心ゆるすな」


   では どうすれば本心本性をみがけるか?


   自分のことばかりを考えること改めて相手を思いやること。

     
   おかげさまと感謝の気持ちを持ってまわりの人に少しでも


   思いやりの心を持って接していくことが大事。


    

 

  
  

蛍袋(ほたるぶくろ)

blog-DSCN2621.jpg

  
  子供がこの花筒に蛍をいれて遊んだことから

  「蛍袋」と名づけられたそうです。

  (居士林山門向かって左 龍隠庵に行く参道脇に咲いています。)
  

 

提唱 無門関19則

       6月12日(土


 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「春に百花有り 秋に月有り 夏に涼風有り 冬に雪有り」


  大自然と自分は本来一枚!


 私たちは 大自然のいのちをそのまんま生きている


 朝 目が覚めること(大自然のはたらきそのもの)


 当たり前のことだけど それに喜びと感謝の心を感じるか?


 本来は 誰もがそれに喜び感謝する心を持っている


 しかし自分でその心をくらましてしまっている。


 花も月も涼風も雪も全部ひっくるめてわが心


 大自然といつも一つである

 何一つへだてるものがないというのが本来の心


 平常心是れ道





山紫陽花(やまあじさい)

blog-DSCN2615.jpg
  


 自然がおりなす神秘の色!


  (黄梅院玄関向かって右手に咲いています。)

提唱 碧巌録46則(その1)

     6月6日(日)

老師が土日座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 自分らしいものはどこにもないとハッキリした時に

天地全部が自分であったと気づく。


  「日はまなこ 虚空はすがた 風は息 

       海山かけて 我が身なりけり」


  (太陽 お日様は自分の目ではないか

   この世界ひっくるめて自分ではないか

   大地を吹きわたる風が自分の呼吸ではないか

   空も海も山も全部自分の体ではないか。)


 そう気づいたなら すべてを受け入れすべてを許してあげることができる。


  しかし、私たちは小さな自分にとらわれ

 人に言われたこと 思いこみ 常識にとらわれ

 自分で勝手に色づけをして 是非善悪
 
 争いの根本を作り 人をきずつけたりしてしまう。


  自分だ自分だとしがみついているものをとっぱらったとき

 すべてを認めてあげるという本当の慈悲が湧いてくる。


  何が罪で 何が清らかか そんなケチな考えは捨てて


 全部 仏様のすがた!


 庭に咲く花も 雨だれの音も みんな自分!


   
    

提唱 無門関18則

    6月5日(土)

 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。

黒住教の教えに


「祈るときは からだの力をぬいて この天地にとけ込んで


自然と一つになるような すべてをまかせきるような


ゆったりとした気持ちが大切である。」とある。


また「祈ることによって 五感や意識がとぎすまされて


心は透明になり また鏡のようになってすべてをうつしだす。」とある。


 この「祈るときは」を「坐るときは」に置き換えれば


坐禅にそのままあてはまる。


自分だ自分だとしがみついているものをとっぱらって


大自然の営みと一つになって


大宇宙のはたらきにすべてをゆだねて


ゆったりとした気持ちで一呼吸一呼吸坐禅する。


そして 「只今 ここに生きて活動しているこの私


この命こそ仏様である。」と気づくことが大切。


 

今月の掲示板

<blog-DSCN2605.jpg


  黄梅院の掲示板です。

 月の初めに 老師に揮毫していただいています。

 (坂村真民さんの詩です。)

提唱 無門関29則

       5月2日(水)


  老師が淡青会座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 栄西禅師曰く

 「大いなる哉心や 

  天の高きは極むべからず。

  而るに心は天の上に出ず。

  地の厚きは測るべからず。

  而るに心は地の下に出ず。」


 この天地宇宙ひっくるめての心

 
 それが 我々の心の本質!


 そんな心の中に生まれながら 自分と他人と区別し

 せまい自分の殻の中でしかものを見ていない。


 結局 なんにつけても 自分の心が自分の心を苦しめている。


 「心こそ 心迷わす 心なり」


 
 風が動くのも心

 幡が動くのも心


 青い大空に雲が流れていくのを

 自分の手や足や顔をながめるのと

 同じ気持ちで見たいものだ。



 「我もなく 人もなければ 大虚空

     只一枚の 心なりけり」


 
 

 


  
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