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山法師(やまほうし)

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 高木に まるで雪が降り積もったかのように 白い清楚な花をつけています。

 (黄梅院山門入って少し進んで右手方向にあります。)
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男の修行 山本五十六

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 昨日老師が提唱中に話題にふれた山本五十六元帥の言葉です。

 (老師が色紙にお書きになったものです。)

提唱 無門関17則

     5月29日(土)  


  老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「 迷いながら つまずきながら

 求めながら 失いながら

 憎しみながら 愛しながら

 泣きながら 耐えながら

 責めながら おそれながら

 己をつくり 仏へ近づいていく」

  という坂村真民さんの詩がある。


  一回一回の坐禅 一呼吸一呼吸の坐禅を


  怠らずに努めることが 一歩でも二歩でも


  仏様の世界に近づく。


   どんな無理難題を言われようが

  
  どんな困難なこと 障害が自分の身にふりかかってこようが


  そこで やめたら おわり


   どういう中でも ようし!一歩半歩でも 一呼吸二呼吸でも


  5分10分でも 坐るんだ!という気持ちをもつことが


  修行のコツ


   やめないこと あきらめないこと


   無理難題でもジッとこらえていく

   辛抱に 辛抱したことは 決して無駄にならない!


   それが 心の広さ 人間の度量の大きさにつながる


   つつみ のみこみ おおいつくしていくほど大きい心を

   誰もが持っている。 
 



提唱 5月摂心最終日

5月26日 攝心最終日

  老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。

  
 金剛経に 「無我相 無人相 無衆生相 無寿者相 」と


 繰り返し出てくる。


 それは 金剛経が 自分にとらわれることを嫌っているからだ。


 繰り返し 繰り返し 説いているのは 無我に徹したること。


 本来 私たちの心は無我なのに

  
 自分と他人 好きと嫌いと


 自分の都合で 自分で狭い殻をつくって 


 その中に入り込んで 自ら苦しめている。


 「我という 小さき心を 捨ててみよ

     三千世界に 満つるいのちぞ」


   丹田に力をこめて 坐禅して 小さな自己の殻をぶち破れ!

 
 自分だと思っていたものが がらがらっと崩れさったとき


 本来の自己 本心に 煩悩も妄想もけがれもないと


 自分で納得する。


 「仏心には罪やけがれは届かない

     仏心は常に清らかである。」


  それに気付くと まわりの人を慈しむようになる。


  まわりの人も みんな 自分の都合 欲望

  
  狭い中で 悩み苦しんでいる。


  どうしたら それに 気づかせることができるか?


  いかにして 自分で勝手に苦しみをつくり出して

 
  苦しみ続けて のがれようとしない人々に


  それを気付かせて 救っていったらいいか?


  そういう大願心を持って 修行に精進したいものだ。


  (後記)

    本日で 5月の僧堂摂心は終わりとなります。

    次の摂心は6月20日から26日となります。

    摂心に限らず 老師の提唱はございます。

    できる限り 掲載できたらと思いますので

    宜しくお願い致します。
  


  

 

升麻(しょうま)

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  升麻(しょうま)といって 漢方薬にもなるそうです。


  (黄梅院玄関向かって左手竹柵近くに咲いています。)

提唱 5月摂心6日目

       5月25日(火)  摂心6日目


   老師が提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「 雲もなく 月も桂も かれて 払い果てたる うわの空かな 」


 という歌がある。


 私たちは いかに小さなことで悩み苦しんでいることか。


 小さな自分にとらわれ 小さいことを思い悩んでいる。


 一呼吸一呼吸 無字の呼吸(只今吸っている息 只今吐いている息)で

 
 自分(の浮かび上がってくる一念)をころし


 おのれを否定し尽くして


 完全に なくならしてしまう。


 自分だと思っていたものが がらがらっと崩れさる。


  そのなんにもなくなったところが


 天地一杯生き通しの生きものがおどりでてくる消息だ


  「自分を無にすると かくも豊かなものが流れ込んでくるものか


   自分を無にすることができれば かくも無限に豊かなものが


   あふれでるのか」


   雲が晴れわたって 思わず呵呵大笑する体験をしたいものである。



三つ葉の花

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  薫風に 吹かれるままに 三つ葉の花
  
 
 (昨日 居士林の玄関脇で見つけました。)

提唱 5月摂心4日目

      5月23日(日)   摂心4日目


  老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 あれこれ 理論や理屈で考えたって 理解できないものがほとんど


 坐禅をすることは 頭に浮かんでくるものを 無の一字(只今の呼吸)で


 否定して 否定して

 捨てて 捨てて

 消し去って 消し去って


 頭を からっぽにすること。


 ただ 丹田(おへその下)だけに力を入れ 奥歯をかみしめ

 下っ腹を前に 押し出すように 一呼吸一呼吸する


 そうすると おへその下だけに別の生き物がいる感覚になる。


 そして ますます 頭は からっぽになる。


 この工夫を 絶え間なく続けていく。


 黒住宗忠さんの歌に

  「有るものは 皆吹き払え 大空の  

     なきこそおのが すみかなりけれ」があります。


  頭の中に浮かんでくるものを吹き払い

  今までのちっぽけな自分は完全に否定すると


  心は 晴れわたり 天地一杯をおおいつくす

  本当の自己に気づく


  そして そこから無限の慈悲心が自然と湧いてくる

  
 

 
 


 
 


 

提唱 5月摂心3日目

     5月22日(土)   摂心3日目


  老師が提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 禅宗では 法身とは 心の本性 本来の面目 宇宙の本体

   
  大宇宙に遍満するもの 天地一杯であることをいう。


 坐禅をして 自分が大きくなって天地一杯になるのではない。


 逆に 坐禅をして 自分が消えてなくなる


 自分が自分と思っていたものがなくなる


 自分が0(ゼロ)になった瞬間に 天地一杯になるのだ。


  そうするには 腰を立てておなかに力を入れ


 一呼吸一呼吸 全身全霊をこめておこなう。


 (なんにも 考えない修行)


 そうして 自己を無にし尽くしたときに  


 「我という 小さき心 捨ててみよ

    三千世界に 満つるいのちぞ」(下の句は 老師の作です。)


 「我もなく 人もなければ 大虚空  

    ただ一枚の 姿なりけり」


  という歌の世界にふれることができる。
   

   


 





    

提唱 5月摂心2日目

      5月21日(金) 摂心2日目



   老師が僧堂摂心で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 どんなに長く修行をしても煩悩妄想をまぬがれることはない。


 大切なことは 自分が煩悩妄想になっていると気付くこと


 自分の心を点検して それらに気付いておれば


 大きな過ちをすることはない。


 やっかいなのは それに気が付かずにいること


 かすかでも 煩悩 悩み 罪な心が生じたことを


 自分で気が付けば 罪な心は自然と消えていく



   「修行して 煩悩が流れでなくなって 何年になりますか?」の問いに

 ある僧は「すでに七年。」と答え

 別の僧は「今でも 煩悩妄想のまっつさかりです。」と答えた。


 実は 前者も後者も同じこと。


 自分の都合は これっぽっちもなく


 みんなのことを思って いつも気に悩まざるにはいられない。


 いかにして 人を救っていくか?


 いかにして 迷いの深い人にそれを気付かせていけるか?


 
 「仏教の重要なところは なんですか?」との問いに


 ある僧は「今年は霜が降るのが早いので蕎麦の収穫がよくないなあ。


     困ったなあ」とお答えになった。


  その答えは 自分の都合はこれっぽっちもない


  不作で困窮するみんなのことを 心底 心配してのこと


  自分の都合 我が儘を削り取っていくのが 坐禅の修行

  
  おのれを尽くしきり 殺しきれば


 「どうしたら みんなのためになるだろうか?」と


 人様 みんなを思う気持ちが自ずと湧いてくる。


 古人は その思いを 次のような歌や詩にしています。


 「ゆき悩む 浮き世の人を 渡さずば 一夜も十夜の橋とおもほゆ」

   (弘法大師十夜の夜)


 「草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我よりさきに ひとをわたさむ」

   (道元禅師)

  
 「野原の松の林の陰に 小さき茅ぶきの小屋にいて

  東に病気の子供あれば 行って看病してやり

  西に疲れた母あれば 行ってその稲をを負い

  南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい

  北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

  日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き

  みんなにでくのぼーと呼ばれ

  褒められもせず 苦にもされず

  そういうものに わたしは なりたい

   (宮沢 賢治)
 
    
   

舞子あじさい

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  一人前の芸妓になるまでの修行中の少女(10~16歳)を

  舞子さんというそうです。


  舞子あじさい その名の通り 小さくて 可憐です。


  (黄梅院山門入って右手手水鉢手前に咲き始めました。)    


  

提唱 5月摂心初日

     5月20日(木)   摂心初日


   老師が提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 今日の新聞の川柳に


 無の境地 何の楽しみ あるのだろう

 という句があったが


 何にもなくなったところに徹したら

 何にあっても ありがたく

        楽しく

        うれしくなる

  たった一杯のお茶にも「ああ ありがたい」と

  感謝せずにはいられない。


  世間では 知っていることは金のごとく

  何にもしらないことは糞のごとしというが


  ある禅僧は 知っていることは糞のごとく

  何にも知らないことこそ金のごとしとおっしゃた。


  へたに 知り 学び 体験すると

  そこから 身のひいき 我が儘がでてくる。


  かえって 何にも知らなかった初心の時の心のほうが

  仏様のこころに近い。


  生きることは 苦しみである

  生きていれば 千も万もの手に打ちのめされる日が

  くるかもしれない。


  しかし それに「耐え忍ぶ」 それしかない


  平等一枚(無字一枚) 何にもなくなったところに

  どこまで深く入っていけるか?


  なんにもなくなったところ そこが森羅万象あらわれるところ

  もともとなんにもないと思えば なんにあっても

  ありがたい うれしい たのしいの

  気持ちが自然と湧いてくる。

   

  
  

        
      
 

提唱 無門関28則

        5月19日(水)


  老師が本日坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 五祖法演禅師曰く


 「我参ずること二十年 只恥を知る」


 (長いこと坐禅をしてきて何がわかったか?


 只自分に恥じ入るばかりである。)


 坐禅をすればするほど 


 自分の いたらなさ つたなさ はかなさ もろさに


 に気付く。


 何の世界でも 何かに真剣に打ち込めば打ち込むほど


 自分の おろかさ みにくさ どうしようもないところが


 はっきりしてくる。


 そういう経験をしてはじめて


 人の弱さやいたみに気がつく慈悲の心に通じていく


 そうして 人に対して親切に謙虚になっていく。


 自分の弱さに直面し


 自分はその程度であると自覚することは


 いかに 自分が取り組んでいる世界が奥深いかに

 
 気付いたことであり


 だからこそ まだ足りないと精進することにつながる



 (後記)

   明日から26日まで僧堂の摂心がはじまります。

  提唱が毎日ありますので、できる限り掲載するつもりです。

  宜しくお願いします。

 


 

甘茶の花

     5月19日(水)



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   凛とした 甘茶にそそぐ にわか雨


  (黄梅院山門はいって左手に咲き始めました。)

提唱 碧巌録45則(その2)

       5月17日(月)


  老師が土日座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
  (昨日の続きです)


  先先週 老師は一週間肺炎で入院されたそうです。


 肺炎ですので 呼吸をすると咳が出ますので


 深く呼吸をすることができませでした。

 
 ですから 治ってみて深く呼吸ができるようになると


 呼吸のありがたさを改めて実感されたそうです。


 「坐禅をしたら 静かに 呼吸をする


  たったそれだけのことが どれだけすばらしいことか」


 病気になったおかげで 病気をいただいたおかげで


 改めて 気付かれたそうです。


 だから 病は苦しみかもしれないが


 「ありがたい」と思われたそうです。


     病気も 修業のうち


  また、こんなお話もありました。


 老師が入院している部屋の数室となりの老人が


一日中 大きな声で 怒鳴っていたそうです。


ある時に 若い看護師さんに老師は


「あんな大声を上げて 一日中 看護師さんを怒鳴っている人がいると

たいへんですね」と同情して言ったそうです。


 そうしたら その若い看護師さんは


「あの人のことですか・・・

 あの人も大変なんですよ。」

 とお答えになったそうです。


 老師はその言葉を聞いてはっとされたそうです。

 その老人の孤独感 体が衰えていく不安等

 人にあたらざるをえないその苦しみに


 そして それを受け止めている看護師さんに


そういうものの見方もあるのだと気付かされたそうです。




  



 



  

石楠花(しゃくなげ)

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   新緑の 緑に映える 石楠花の花


  (黄梅院山門入って右手の庭に咲き誇っています。)

提唱 碧巌録45則(その一)

          5月16日(日)


  老師が土日座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。



  「仏教の肝心要の所は何ですか?」の問いに

 昔の禅僧は、


    「庭前の柏樹子。」


    「この冬瓜はえらくおおきいなあ。」


    「大きい石は、大きい。小さい石は、小さい。」


    「私は、どこぞにおったときに衣を作ったよ。

     それが重たいやつでね。」


    とそれぞれがそれぞれにお答えになっている。



    それは、決して自分と関わりのない外の景色を言ったのではなく

    
    みんな自己の姿を言っている。


    自分のこの一呼吸のうえに、


    この体 この心 この暮らしのうえに、


    日常のなにげない暮らしのなかに、


    キラキラと輝くすばらしいものがあることを。



   しかし、私たちは普段それらを見過ごしがちだ。



   柏の木に 石ころに 感動することがあるか?


   みな 自己の姿


   いまこうして なんでもないことに

   驚きと感動がある。


   「目を開いて 自然が見える

    それだけで 幸せであると思う

    耳が澄んで 鳥の声が聞こえる

    それだけで 幸せであると思う

    息を吸って はくことが出来る

    それだけで 幸せであると思う」


    という詩があります。(下2行は老師が付け加えたものです。)

 
    また、「小さきは 小さきままに花咲ぬ
 
          野辺の小草(のべのおぐさ)の

               安けさをみよ」

     という短歌もあります。


 
  私たちは かんたん なにげないものほど


  そのものの 本当のありがたさを見失っていないでしょうか?



  以上のようなお話をされました。

     

  (後記)明日は 老師の入院中の逸話を紹介します。 
 

 
    

    
 
  

     
 

リスさんが・・・

       5月14日(金)



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  困ったね かわいいだけが リスじゃない



  (僧堂の井戸端にある入れ物です。リスが石けんのにおいに

   さそわれて、かじって穴を開けてしまいました。)

 

あやめと姫甘草

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     5月13日(木)

  若バッタ あやめの上で 一休み
 

  

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  海会塔 入り口に咲く 姫甘草

二人静

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         5月12日(水)

  一人静(ひとりしずか)は、通常一本の花穂を出すのに対して

  二本あるので、二人静(ふたりしずか)というそうです。



  静かなる 二人静を 見て一人  (京極 高忠)

  
  夫の忌や 二人静は 摘までおく (丸山 綱女)


 という俳句があります。


     今、黄梅院の参道脇にひっそりと咲いています。 

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  黄梅院裏に畑があります。

 最近、なす、きゅうり、とまと、ししとうの苗を

植えました。 根付くまで朝晩の水やりが欠かせません。

5月9日 日曜説教(その2)

       5月10日(月)


   老師が昨日日曜説教で提唱されたことをわたしなりに

  まとめてみました。(昨日の記事の追加です。)


   これは、円覚寺中興大用国師とその母とのお話です。


 幼い頃、小僧としてお寺に預けられた大用国師は、

いわゆる「やんちゃ坊主」で、わるさををすると

ことある事にお母さんが呼び出されて和尚さんに

注意をされたそうです。お母さんは、自宅からお寺まで

20キロ近くも歩いて息子のために謝りに行ったそうです。


国師70歳のときに、お母さんは99歳でお亡くなりになりました。


国師は、そのことを和歌にしたためました。



 おとづれて いさめたまいし ことのはの


  深き恵みを くみて泣きけり


    
 (後記)

昨日は、母の日でした。

老師がおっしゃられたように

素直に「生んでくれてありがとう。」

「育ててくれてありがとう。」の気持ちを

持ちたいものです。



  

なにわいばら

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   黄梅院山門入って右手に咲いています。


  

5月9日 日曜説教

     5月9日


  老師が日曜説教会でお話しされたことを私なりにまとめてみました。



   生きてこの 青葉若葉の この光

  
 先週一週間入院された老師は、久しぶりに円覚寺に戻られて

その新緑の美しさを改めて実感されたそうです。

冒頭の俳句は、中川宋淵老師作です。



  次に「合掌(がっしょう)」のお話をされました。


 坂村真民さんの詩を紹介されました。

「 両手を あわせる

  両手で にぎる

  両手で ささえる

  両手で うける

  両手の あい
                   
  両手の なさけ      
  
  両手合わしたら けんかもできまい

  両手でもったら こわれもしない。」


  胸の所に両手をあわせて、

今、生きていること

今、命があることに感謝して、手をあわせましょう。



  最後に、母の日にちなんで三人の高僧とその母との

 エピソードを紹介されました。


 円覚寺開山仏光国師は、修行が終わりこれから世に出るという

重要な時期を7年間母のお世話をなされたこと。


 由良興国寺の法燈(ほっとう)国師は、長野から和歌山まで

母をお連れして面倒を見て、お亡くなりになった後も、

自身90歳くらいでなくなるまで、毎日裸足で、

母のお墓参りに通ったこと。


  円覚寺中興大用国師は、自身70歳で母をなくされると、

 母の供養のため、四国33番所巡礼に出られたそうです。


その大用国師が次の和歌を残しています。



  たらちねの ながきわかれの たむけには

  いざつつしまん わがみひとつを


 
 お釈迦様は、最期に

「おこたらずに つとめよ」

とおっしゃられたそうです。


  それは、この命は母が命がけで生んでくれたのだから、

 無駄にしてはいけない、精一杯生きなさい!ということでは

 ないでしょうか。


(後記)

先週は、体調をくずしてしまい久しく更新できませんでした。

おかげさまで、快復しました。また、宜しくお願いします。






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