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母は観音様

10月14日(月) その2



 横田南嶺管長が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様は、「あたかも母親が自分の子どもをいのちをかけて守るような

そんな気持ちで、あらゆるいのちあるものに接しなさい。あらゆるいのちに

対していくつしみの心を起こす。立っていても、坐っていても何していても

この慈悲の心を失ってはならない」とお説きになっています。


 坂村真民さんにしても相田みつをさんにしても、お二人の根本には

そのお母さんからいただいた愛情があるのだと思います。そのお母さんの

思い・念を伝えたくてたくさんの詩を書いたのだと思うのです。


 相田みつをさんに母のような観音様の心をわかりやすく表現した詩があります。

長い詩ですのでその一部を紹介します。


『二人の門出のために』

どんな話でも どんな悩みでも

だれかれの差別なく
    
「ふうん、そうか、それは大変だろうな……」
    
「さぞ苦しかったろうなあ……」
    
「痛かったろう……こんなになって……」
   
 と、相手の立場になりきって
    
親身に聞いてくれる人
    
それが観音さまです

    
自分のことはいつもあとまわし
    
常に他人(ひと)の幸せを願って生きている人
    
人のために人のためにと
    
ただ黙って動いている人
    
それが観音さまです
    
だから観音さまのまわりには
    
人がいっぱい集まるんです
    
浅草の観音さまのように・・・


 こういう観音様のような素晴らしい心を私たちは生まれながらに

いただいているのです。いのちのバトンという言葉がありますが、

私たちが次の世代に伝えていかなくてはならないものはとは

この観音様の心なのではないでしょうか。


 自分の生きている間にこの観音様の心をしっかりと受け止めて

次の世代に手渡していく。母が自分の子どもを守るようないくつしみ、

まごころというバトンを次世代に伝えていく、その為に我々の一生涯は

意味があるのではないでしょうか。

(後記)

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妙香池に降り立ったサギ 


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生きねばならぬ

9月9日(月)


 横田南嶺管長が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 「祈り」という言葉があります。いろいろな説がありますが「祈り」という

言葉のもとはといいますと、「祈り」の「い」は、いのち、生きる、生命力を表し

「のり」というのは、「祝詞」(のりと)という言葉があるように、宣言をするという

意味だそうです。


 ですから「祈り」とは、いのちの宣言をするということなのです。

「いろいろな苦しいこと辛いことがあっても自分はそれにめげずに生きるんだ!

強く生きていくんだ!」と宣言をすることが「祈り」ということの原点なのです。

そして生きていくんだと自分に言い聞かせることによって自然と祈る人の心が

活性化していきます。


 坂村真民先生に次の詩があります。

  
{ 鳥は、飛ばねばならぬ  人は、生きねばならぬ

怒涛(どとう)の海を  飛び行く鳥のように

混沌の世を  生きねばならぬ

鳥は、本能的に  暗黒を突破すれば

光明の島に着くことを知っている

そのように人も  一寸先は闇ではなく

光であることを知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝  私に与えられた命題

鳥は飛ばねばならぬ  人は生きねばならぬ }


 一寸先は決して闇ではありません。闇だ!闇だ!といつも言っている人には

闇が続いてしまうかもしれませんが、光だ!光だ!と信じている人には必ず

光が差してくるものです。「生きねばならぬ」です。


 私はこの「生きねばならぬ」という心を以下のような言葉でまとめてみました。


「明日、どうなるかはわからないけれど、今日一日は笑顔でいよう。

つらいことは多いけれど、今日一日は明るい心でいよう。

いやなこともあるけれど、今日一日はやさしい言葉をかけていこう。」


 これが「生きねばならぬ」の精神です。無常の中で明日を信じて生きていく

ことの精神であります。明日はどうなるかわからないけれど、今日一日、笑顔で

暮らすことは私たちが努力をすればできることではないでしょうか。


 

うたたねの・・・

8月25日(日)


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 横田南嶺管長が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 今月の円覚寺のカレンダーに「うたたねの ひととき 楽し 蓮の上」

という言葉が載っています。これは私が作った歌であります。実は辞世の句に

しても良いと思っています。


 この歌の意味は、人の一生というものは仏様の蓮の上でうたたねをしている

ようなもの、ちょうど孫悟空がどんなに動き回り駆け回っても仏様の手の上で

あるように、私たちもいろんなことをやっても結局は仏様の手の平の上であり

それを蓮の上と表しています。


 そんな蓮の上に懐かれていながら、一時、うとうとと夢を見ている。楽しかった

夢もあれば辛かった夢もある。でも、それは全部仏様の手の平の上のこと。これを

仏心という。


 人の一生というのは仏心という大きな心の上で一時うとうととしていろんな

夢をみているようなものです。夢を見ている間も、「ああ、夢であった」と気づいた

時もすべて蓮の上である。こういう気持ちを表しています。


 本日がご命日である朝比奈宗源老師は、私たちは常に仏心の中にあると信じることが

大事であるという「仏心の信心」を強くお説きになっています。


 私たちは「悟り」を求めて坐禅をするといったり、人の人生であれば何か幸せを

求めて歩いたり旅をしたりするといいますが、どこまでいってもそんな幸せは

つかめるものではありません。


 ふと、こうして歩いていることが実は幸せであったと気がつくことが大事なのです。

私たちもどこかにいつか「悟り」が表れるのではないかと思って坐禅をしますが、

こうして坐禅をしている自体が「悟り」なのです。


 悩み、苦しみが全部抜け落ちて悟りの世界にいくのではありません。いろんな

ことに悩んだり苦しんだりしている今この場所が仏心の中なのです。そう信じて

ゆったりとした気持ちで過ごすことが大切であります。

(後記)

 今日の日曜説教会は当初、別の和尚様が担当でしたが、ご都合により

横田南嶺管長が代わりに法話をされました。





 

すべてを許し受け入れる心

7月14日(日)


 南嶺管長が日曜説教会で法話されたことをまとめてみました。


「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれを愧じて夏草をもって

それを覆うた。」


 これは、インドの詩人タゴール(1861~1941)が箱根にある曾我兄弟の墓

とされる場所を訪れて作った詩です。タゴールは曾我兄弟による仇討ちの憎しみ、怨みは

神(大地)の御心に反するものと表現しました。


 私はそれを以下のように仏教的によみかえてみました。

「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれらをすべて許し

すべて受け入れて緑の草をもって覆うた。」


 人の世の苦しみや悲しみ、ねたみ、怨みはあまり良い感情とは言えない。

親を亡くした悲しみ、子と別れる悲しみ、そこから生まれる怨みや憎しみ。

しかし、こういう心なくして人間の心というものもありえないのも事実です。


 仏の心、仏心はこれら人の世の悲しみや苦しみ、憎しみやねたみ、うらみすら

それらすべてを受け入れてくれるものなのです。


 大地が緑の草をもってすべて覆った。大地はどんな嵐も照りつける日差しも

雨や雪もすべてを受け止めて呑み込んで包み込む。そしてすべてを肥料にして

草を茂らせ花を咲かせます。


 私たちの心にもどうしようない苦しみ、どうすることもできないねたみやうらみ

があろうかと思います。また、曾我兄弟の仇討ちのようにその時代に生まれたら

そう生きるしかない悲しみというものもあります。


 それらをすべて受け入れてくれるのが大地の心、仏心の心です。私たちが

誰一人例外なく生まれながらに持っている心なのです。

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<方丈前庭にて> 「はい、どうじょ。」




 

原点に立ち返る

6月10日(月)


 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 心が外に向かってしまうのは迷い。心を内に向けるのが悟りであると

昔の人はそのように言っています。


 坐禅をして今一度、外のものばかりを追い回すのではなくて、「この見ているものは

何ものか?この聞いているものは何ものか?食べたり感じたりしているものはいったい

何ものであるか?」と立ち止まって考えることが必要です。


 私たちは肝心なものを忘れてはいけません。それはこころがあればこそ、

いのちがあればこそものを見ることができ、外の音を聞くことができ、

舌で味わうことができ、呼吸をすることができると言うことです。


 そのいのち、こころは仏様のいのちでありこころであります。

そのいのち、こころの尊さに気がついたなら、これは決して自分ばかりではない

まわりの人もみんな同じ尊いこころ、すばらしいいのちを持って生きているんだ、

また人ばかりではない、草や木や鳥やけものに至るまでみんな同じこころといのちを

持っているのだとわかります。


 今生きてこうしていのちがあるということ、これほど素晴らしいものはないのです。

ただ、普段、便利さを追究すあまり、何でも手間を省いているような生活ばかり

していると、「いったい何が大事であるか?」「自分が何をしようとしているのか?」

という肝心なところを私たちは見失いつつあるのではにでしょうか?


 食べるということ、いのちをいただいているということ、息をしているということ、

こうして生きているとうこと、いのちがあるとうこと、そしていのちをいただいている

ということ。こういう原点に立ち戻るのが私たちの禅の修行であります。

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今日は円覚寺・大書院に於きまして「大坐禅会実行委員会」が開催されました。

臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念として平成28年の秋頃に

日本武道館のような大きな会場で何千人もの方にお集まりいただき、大坐禅会を

行うという目的のもと、このような会合が開かれ、様々な意見が交換されました。

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 建長寺の管長猊下をはじめ、各僧堂の老師様など錚錚(そうそう)たるお歴々方

がご出席されました。

 横田南嶺管長からは「今までに坐禅に縁がある方はもちろん、それまで縁のなかった方

にもぜひ参加していただきたい」と仰せになりました。

 「大坐禅会」に対する要望やご意見がありましたら、こちらのブログの

コメント欄にお寄せ下さいますように。参考にさせていただきたいと思います。
 
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 僧堂の雲水さんは、円覚寺境内の梅取りをしていました。この収穫した梅で

梅干しなどを作ります。


 

インダラ・ネット

5月12日(日)


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<紫蘭>

管長様が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 華厳の教えに、帝釈天の宮殿には因陀羅網(いんだらもう)という大きな美しい

網がかぶせられているとあります。この網は平たいものではなくて、ちょうど

ジャングルジムのような立方体のものです。


 その網の結び目ごとにきれいな珠が一つ一つついている。そうすると一つの

珠の光というのはめぐりめぐってあらゆる全体の珠と映りあう。そして、また

あらゆる珠の光が一つの珠と映りあう。


 どの珠もつながりあっているいて、一つだけ取り出すということはできない。

一つの珠の光が全体の珠の光へと輝き、映りあう。こういうものの見方です。


 そして世の中に存在している私たちのいのちも皆さんのいのちも、木や草や

島にいたるまで、別々のいのちのように見えますが、実は、網の目の珠のように

つながっていて別々のものは一つとしてないのです。


 お互いが支えあいながら存在するのであって一つだけ取り出すということは

できない。私という一人の人間もあらゆる人、全体と関わり合いながら生きている

生かされているという教えです。


 その網の目全体と関わり合って、その網の目全部をひっくるめて仏と言ったり

毘盧遮那仏というのです。大きな仏様のいのちとは、あらゆるいのちのつながり

あった全体をいうのです。


 この頃、科学の世界でも地球を一つのいのちだと言ったり、あるいは大宇宙も

一つのいのちであるというものの見方があります。まさに華厳の見方に通ずる

ものがあります。


 この地球も宇宙も丸ごと一つの大きな仏様のいのちである。その大きないのちの

中で自分自身、一つのいのちを一部をいただいて生かされている。大きな仏心の

中でお互いが合い関わりながらこのいのちをいただいているのです。


 それぞれが相手に対して光を与え思いを伝えながら、照らしあいながら

この全体が生きているのです。こういう教えが華厳の因陀羅網です。


  栂ノ尾の明恵上人という人は、(人ではなくて)島(そのもの)に対して手紙を

書いたという記録が残っています。華厳の教えを学んで実践している明恵上人に

とっては、道端に咲いている花だろうとその辺に寝ている犬やネコだろうとあるいは

遠くの島であろうと自分と関わりのないものは一つとしてないのでしょう。


 むしろ、私と同じ一つのいのちであるという平等のものの見方です。それが島で

あろうと気持ちを通わせることのできるものであったのです。同じいのちであるから

明恵上人のとっては実に自然な当たり前のことであったのです。


 何を見てもどのものをとってもそこには仏様のいのちが宿っている。ですから

あの島も私たちのいのちも他ではない。そういうものの見方です。


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<なにわいばらとハチ>

(後記)

 昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部76名、2部56名、

今日の午後からの蔦禅会は20名がご参加くださいました。

皆様、ご参加いただき誠に有り難うございました。

天上天下唯我独尊

4月14日(日) その2


 管長様が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 天上天下唯我独尊。私たちは天にも地にもかけがえのない尊いいのちを

今ここにこうして生きています。


 どれだけ多くの人の手を借りて今日までこうして生きてこられたのか?

どれだけ多くのご縁、ご恩をいただいて今ここにいるのか?このことを

少し考えてみれば、誠に一人一人、みんな無量です。はかり知ることが

できない。


 人様の手ばかりではない。お日様の光、水、食べ物、着るものしかりです。

そう考えれば天地のあるゆるものが総力をあげてこの私のいのちを支えくださり

守っていてくださっているのです。


 坐禅をしてはたと気づくことは、「ここにゆるされて守られているんだ!」という

ことです。


 いのちというものは、計り知れないとしかいいようがない。天にも地にも

かけがえのない尊いいのちが今、ここ、私の上ではたらいている。そう気づけば

まわりの人もそうであるとわかるはずです。


 小林一茶に次の句があります。

 {筍(たけのこ)も 名乗るか 唯我独尊と}


 タケノコも天にも地にもかけがえのないいのちをすくすくと

伸びているということです。今聞こえるカエルの鳴き声も

かけがえのないいのちの鳴き声です。


 いのちの尊さに目覚めお互いのいのちを大切にする。そして、

このいのちを傷つける、おろそかにするということは決してしないと

誓って、お互いのいのちを活かしていく道を学ぶのがお釈迦様の教えで

あります。

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変えることのできるもの

3月10日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 今、この時代に生まれこの場に生きているということは、みな、巡り合わせです。

移り変わり、どうなるかわらない無常の中で、決して一人ではない、みんな

つながり合っている。


 巡り合わせの中で生きていくには、お釈迦様は、いくつしみの心、思いやりの心を

起こすしか、他に道はないと仰せになっています。


 あの被災地の方々は、おそらくあの震災さえなかったら、あの津波さえなかったらと

どれほどそう思ったことでありましょうか。しかしながら、変えることできないものは

受け入れるしか他はないのです。


 今回、東北地方をまわり、大船渡、陸前高田、気仙沼の和尚様方とお話をする機会が

ありました。その和尚様方が共通して言われた言葉がありました。それは、はじめに

「お亡くなりになった方々に対しては、誠に申し訳ない」と前置きをした上で

「あの震災のおかげで」という言葉でありました。


 あの震災のおかげで私たちは大事なものを学んだ。それはこうして生きているという

ことの有り難さ。そして、どれだけ多くのものに支えられているのかということ。

今まで何の縁もない人たちから多くの支援をいただいたこと。私たちが生きている

ということはどれだけたくさんのご縁をいただいているか。それらのことを、

あの震災のおかげで知ったと多くの和尚様が言われました。


 これは2年の歳月がもたらした素晴らしい言葉であると思いながら、鎌倉に

帰って参りました。


 陸前高田の和尚様がこうお願いされていました。「管長様、鎌倉に帰ったら、

3月11日はどこにいても東北に向かって手を合わせてください」と。


 震災や天変地異は変えることはできませんから、受け入れるより仕方が

ありません。しかし、私たちにも変えることができるものがあります。

それは私たちのこの心です。


 お釈迦様は、遠くの人にもいくつしみ、思いやりの心を持てと言われました。

いくつしみ、思いやりの心は誰でも例外なく持っている私たち本来の心なのです。

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 今日の日曜説教会も450名を越える大勢の方々が拝聴にお見えに

なりました。皆様、有り難うございました。

(写真は、Tさんに撮影していただきました。)

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(後記)

 午後からは、居士林で、蔦禅会(坐禅会)でした。11名の方が参加。

こちらも、ご参加いただき有り難うございました。












 

善く生きること

2月10日(日)


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<涅槃図(ねはんず)> 来る2月15日は涅槃会(お釈迦様が

お亡くなりになった日)です。

 
 管長様が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様は、29歳の時、善を求めて出家をされました。何も難しい

哲学とかではなく、「善く生きるということ」をその生涯をかけて

お求めになりました。


 悟りや涅槃とというものを端的にいうならば、この「善く生きる

ということ」に他なりません。瞋(いかり)やおろかさなどの煩悩の

炎で自分自身が振り回され、人を傷つけているようでは「善く生きる」

とは言えません。


 よくこの煩悩の火を調えて、よく己自身を調える、これが戒であります。

戒は、規則や罰則というよりも、日本の言葉では「躾(しつけ)」に近い

ものであります。


 躾のように良い習慣を身につけることです。心に良い習慣を身につける

のが戒であります。いのちあるものは、なるべく殺さないという習慣を

身につける。うそはつかない、みだらな行いはしない、なるべくお酒は

控えるという習慣を身につけることが大切です。


 その中でも、いのちをむやみに殺さないという教えが一番の基本と

なります。あるインドの王様がお釈迦様にお尋ねになりました。

「自分は、長年、お釈迦様の教えを聞いて、無我や己をなくすことが

大事であると頭ではわかるが、それでも、自分はやはり自分自身が一番

愛しいと思ってしまう。これでいいのでしょうか?」と。


 お釈迦様はお答えになりました。「王よ、それでいいのだ。あらゆる

いのちあるものは、みな、自分自身のいのちが一番愛おしい。そのことを

知ったものは、他のいのちを傷つけたりはしない。」と。


 これが仏の教えのおおもとであります。誰にとっても大切なこの

いのちを傷つけないにしようという心が一つあれば、うそをつくことも

盗むことも、みだらな行いをすることも、自ずとなくなってくるのであります。

それらは、みな人を傷つけることであるから。


 他のいのちを傷つけることが悪で、ものや人のいのちを活かしていくのが

善い行いであるというのがお釈迦様の教えです。その言葉通り、

お釈迦様は、その生涯を人様の為に最期の最期まで使い切って

まさに「完全燃焼」の生き方をされたのでした。

(後記)

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紅梅一輪 <法堂跡>
 
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<居士林・堂内>

 日曜説教会は、この寒い中にもかかわらず、大方丈が所狭しとなる

ほどの多くの人が拝聴にお見えになっていました。

 午後からは、居士林での蔦禅坐禅会でした。19名がご参加ください

ました。蔦禅会もこれで、英語通訳ありの坐禅会として始めて、

おかげさまで、2周年を迎えることができました。

これからどう発展していくのか、楽しみな坐禅会です。

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<居士林・水仙>

 皆様、円覚寺にお越しいただき、誠に有り難うございました。










 

和やかさによって

1月13日(日)


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


お釈迦様のお言葉の中に

「和やかさによりて瞋(いかり)に克つべし。

恵み心によりてどん欲に克つべし。

しかして、我らはまことによりて、瞋の人に克つべし。」

というものがあります。


 私達の心が作り出す様々な妄想や化け物を退治していくのは

やはり、正しい智慧であります。それは、妄想に振り回されることは

愚かであると気づくことであります。そして、自分の周りの人々への

いくつしみ、思いやりの心で妄想に打ち克つっていくことであります。


 一遍上人の歌に

  いにしえは 心のままに したがいぬ

    今や心よ 我にしたがえ

 というものがります。

 
 今までは、自分の感情に振り回されてきたが、これからは

この様々な感情を制御、調えていこうという歌です。


 その為には主体性を持つ、自分の心の主にならねばなりません。

主体性を持つにはまず、腰骨を立ててお腹に力を入れることです。

体がぐらぐらしていたのでは、妄想に振り回されてしまいます。


 そして、感情に振り回されないようにする為には、昔から

呼吸を調えることが一番と言われています。静かにゆっくりと

自分のこの呼吸をみつめる。


 そうすれば、お互いが生まれながらに持っている仏心に

気づくはずです。自分自身の心がこの素晴らしい仏心であった

と気づけば、身の回りにあるすべてのものが仏心の心を持っている

と見ていくことが出来るはずであります。

(後記)

 今日の日曜説教会も、たいへんな寒い中にもかかわらず、

いつもと変わらず、400名近い方が拝聴にお見えになりました。

午後から、蔦禅坐禅会でした。14名のご参加、皆様、誠に

有り難うございました。

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<妙香池> カワセミのトム君。

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2メートルくらいまで接近して撮影することができました。

それにしても、本当に綺麗です。


 


 





3つの力

12月9日(日) 臘八大攝心2日目


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 12月8日は、お釈迦様が6年に及ぶ難行苦行の末、お悟りを開かれた日

です。では、お釈迦様は、何をお悟りになったのでしょうか?


 お釈迦様がお悟りになったことは、「なんとすばらしいことに、あらゆる

人と含めていのちあるものは、みな仏様のこころを持っている!」という

ことであります。


 それでは、この仏様のこころを持っているとはどういうことで

ありましょうか?


 平易に考えてみますと、まず、一つめは生きる力・生きていく力で

あります。明日へ向かって生きていこうという力です。これを

誰もが例外なく、生まれたからには、この世の中を生き抜いていく

力を持っているということであります。


 2つめは、耐え忍ぶ力です。この世の中に起こることはすべて

耐え忍ぶことができることであります。私はそう信じています。

耐え忍ぶことが出来ないことは、起こらないとそう信じています。


 生きていく上でいろいろなつらいこと苦しいことがありますが

それを受け止めて耐え忍んで生きていく力を私達はみんな持って

生まれて来ているのです。


 3つめは、人のことを思いやることの出来る力です。自分のこと

だけではなく周りのこと、人のことをいくつしみ思いやることの

できる力を私達は持って生まれてきているのです。


生きる力、耐え忍ぶ力、そして、人のことを思いやることのできる力

この3つの力を私達は生まれながらに持っています。それを発揮させる

させる為の坐禅であります。


 (後記)

 今日、管長様は午前2時から坐禅・読経・参禅のあと、6時から

山内掃除(境内全域の掃除)にお出になり、7時半から僧堂で

雲水さんに大攝心の提唱をなさり、さらに引き続き、9時からの

日曜説教会で400人以上の大勢の方々の前でお話をされました。

 
 何事も率先されるお姿に、周りにいる私達も自然と身が

引き締まります。


 なお、山内掃除、日曜説教会のイス並べ等の準備を手伝っていただいた

(土日坐禅会など)関係くださったすべての方々、誠にお疲れ様でした。

有り難うございました。





本当の自分探し

11月12日(月)


 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 心が外の世界に触れて、様々な欲望、憎しみ、怒りなどが起こり、

まるで野生の牛が暴れ回っているようになってしまうと、大切なものを

見失ってしまいます。


 むしろ弱い心、迷いの心に打ち克つ力が必要です。

お釈迦様は、「千人の敵に勝つよりも一人の自己に打ち克つものこそ

真の勝者である」と仰せになっています。


 この自分に打ち克つ、欲を調(ととの)えることこそ私達の修行で

あります。その心を調えることこそまさしく坐禅であります。


 仏の教えは、この心をよく調え、自分にとって一番大切なことは何かを

見つけて、そこに自分のすべてを注ぎ込んで、与えられたこの命を

精一杯生きていく道であります。


 心を調える為に腰を立て呼吸を調えていく。あまり考えすぎると

かえって大切なもを見失ってしまいます。そうせずに、静かに自分の

心を澄ましていく。


 そうすると周りのことがよく見えてきます。そして、「自分がなんと

まわりにわがまま・迷惑をかけていたんだ」とこう気づいたら進歩した

と言えましょう。


 大勢の人のお世話があったからこそ今の自分があるということに

気づきます。そう気づきますと必ず、それらの人々へのご恩返しに

何をして差し上げることができるかと自分で考え求めていくように

なります。


 それが本当の自分探しなのであります。


(後記)

   
  先日、ある方から相談を受けた管長様がご相手の

  お話を全部聴いた後で最後にこういう言葉を掛けられた

  そうです。

  「何もかも忘れる時間を持ってくださいね。」

  仕事のことも家のことも何もかも全部忘れるような時間を。

  釣りでも坐禅でも何でもかまわないから、そういう時間を

  持ってください。と。

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生きることが何よりの供養

9月10日(月)


 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 (管長様が、先日、紀伊半島大水害の1周忌慰霊祭に出席した時のお話です。)

 
 私の目の前に坐っているご遺族の一人というのは、お母さんと娘の

二人暮らしをしていました。そして、去年の大水害の時、二人は家ごと

流されたのですが、奇跡的に娘さんだけが助かってお母さんは未だに

行方不明のままで、この慰霊祭に参列して座っている方でした。


 最初その娘さんにご挨拶した時は、慰めの言葉もございません、ただ、

手を握るだけでした。


 お経が終わって、その娘さんに申し上げたんです。

 「その悲しみは察するに余りあるものですが、どうか、

亡くなった人の気持ちを考えてみてください。たいへん、

話ににくいことですが、お母さんがどういう気持ちでお亡くなりに

なったのか察してみてください。お母さんはそういう家ごと

流されていって死を覚悟した時に{自分のいのちは亡くなっても

どうか娘だけは助けて欲しい}と切に願ったことでしょう。

 だから、生きてください。」と。


 観音様のこころをよくお話ししますが、観音様は人が困っていれば、

火の中でも助けてくださる。水におぼれていれば、水の中でも

救ってくださいます。


 あの洪水にのまれても、「どうか、自分の子供だけは助けて

ください!」と願うお母さんのこころは、まさしく観音さまの

こころそのものであります。


 だから、生きてください。生きることが何よりの供養であると

申し上げたんです。


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鈴虫花 <黄梅院>








 

 

置かれた場所で咲きなさい

7月8日(日)制末大攝心・中日


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 最近、話題の本に「置かれた場所で咲きなさい」とう題のもの

があります。これはキリスト教の方が、わずか36歳で大学の学長

になり、若くして重責を背負われた体験をお書きになったものです。


 「置かれた場所で咲きなさい」その置かれた場所が自分にとって

つらい場所、また、理不尽をうけることもあるかもしれません。

こちらはそんなつもりではないのに憎しみ・怒りの的となり

仇・かたきのように思われるかもしれません。そして、一番

信頼している人に裏切られることもあるかもしれない。


 そんな時、そんな場所の置いても花を咲く、花を咲かせる

心を持ちなさい。そんなことがこの本には書いてあります。


 また、その本の中にはキリスト教の詩人八木重吉さんの

次のような詩が引用されています。


「神のごとくゆるしたい

ひとの投ぐ(げ)るにくしみをむねにあたためて

花のようになったらば神のまえへささげたい」


 つらいこと、いやなこと、苦しいことを自分の

胸に秘めて、それらを花束にして神に捧げたい。

あたえられた物事の一つ一つを有り難いと両手で

受け止めてそれを花束にかえて笑顔で神様に捧げたい

と本の作者の渡辺先生は書かれています。


 こうなりますとキリスト教も私達の仏教も一つであります。

お経にも「どんなにののしられても、どんな仕打ちを受けようとも

相手の心にも仏様の心があると信じて拝む心を持つ。


そうすれば、私達の心に花が咲く。そうなればどこにいても

いる場所が浄きところ、お浄土であると説かれています。


 なるほど、ここまでくると教えは一つであると実感される

のであります。

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<勅使門>










 




千手観音

5月13日(日)


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 「初心」「初初しさ」は尊く大切にしなければならないもの

だけれども、同時にもろく折れやすいものでもあります。

折れないためには、では、どうすればよいでしょうか?


 先日、赤ん坊を抱く機会がありました。赤ん坊は、

何にもできませんが、ものを食べさせてもい、着替えさせて

もらい・・・と親や周りの人がどれだけ手をかけているか

、自分がこの頃どれだけ手をかけて育ててもらったのか

改めて思ったものであります。


 自分が今日までどれだけ多くの人のお世話になったか、

どれだけ多くのおかげさまをいただいて生きてきたのかと

思うと、折れそうになる初心を支えることができます。

 
 坂村真民先生に「手が欲しい」という詩があります。


「目の見えない子が描いたお母さんという絵には

いくつもの手がかいてあった

それを見たときわたくしは

千手観音さまの実在をはっきり知った

それ以来あの一本一本の手が

いきいきと生きて見えるようになった

異様なおん姿が すこしも異様ではなく

真実のおん姿に 見えるようになった

・・・。」


 目の見えない小さな子供がお母さんの絵を書きますと

お母さんの手がたくさん書かれました。ご飯を食べさせて

くれる手、着替えを手伝ってくれる手、どこへ行くにも手を

引いてくれる手、・・・そんなたくさんの手がありました。


 千手観音は千本の手を差し伸べて、私達を救って

下さるということを表しているのであります。


 私達一人一人は、こうして千も万もの手に支えられて

今こうして生きている、生かされているのです。自分一人

では、決してありはしないのです。親はもとより多くの人に

お世話になり、生きている人だけでなく亡くなった方にも

見守られて、生かされているのであります。


 この私をどれだけ多くの人が、どれだけ多くの力が、

どれだけ多くの手が・・・と思いをめぐらすことによって

折れそうな初心も逆に芯のある心に変わってくるはず

であります。

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<黄梅院・千手観音菩薩像>









 

心の宝

4月8日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 新聞に被災者の方へ向けての手記が載っていました。

それは、平成9年に起きた神戸連続児童殺傷事件で、

その当時小学4年生だったわが子を惨殺された

お母さんからのものでした。そのお母さんは次のような

ことをおっしゃっています。

「(命より大切なわが子を亡くして)悲しみ苦しみは時が

癒してくれるとよく言いますが、5年、10年と経とうとも

大事な家族を失った悲しみ苦しみは、いつも新しく

よみがえってきて、心の区切りをつけられるものでは

ありません。

 しかし、一歩一歩積み重ねてきた時間の恩恵は

想像以上に大きい。苦しんだ五千数百日を経て、

ゆったり高いところにたって眺めることのできる

力を与えてくれた。今、あの子がいた頃と同じように

くったくなく笑い、心の底から喜ぶことができるように

なった。

 自分のこの体験を通して被災地で悲しみ苦しんでいる

人に伝えたいことがあります。

 それは、どんな困難に遭ったとしても心の宝は

こわれることはないということです。この15年間

私達家族は、絶望や目の前の壁の挑んできましたが

しかし、どんなに苦しくてもあきらめなければ必ず

笑顔や幸せを取り戻せる。

 心の宝がある限り、人は何度でも立ち上がることが

できる。このことをこの度、被災され悲しみ苦しんでいる

人すべてに、私の体験から身をもってお伝えしたい。」


 このお母さんが言われたことはお釈迦様の教えと一つ

であります。お釈迦様は、誰でも例外なく心の宝を持って

生まれてきていると仰せになっています。

 「天上天下唯我独尊」とはこの心の宝のことであります。

私達はめいめい一人一人、天にも地にもかけがえのない

心の宝を持って生まれてきていると言うことであります。

 
 人はどんな苦難に遭遇しようとも、心の宝は

決してこわれることはないのであります。そして

何度でも立ち上がることができるのであります。

 


みんなの心の中に

3月11日(日)


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 延命十句観音経の一番最初に「観世音」とあります。

この一句にすべてが込められているのであります。

観音様、どうかお見守り下さいという一念であります。


 その観音様はどこにいるのでしょうか?決してどこか

遠くにいるのではありません。それでは観音様とは

何でありましょうか?


 観音経には、人々の苦しみ・悲しみのその声をきいて

手を差し伸べてくださるのが観音さまであると書かれています。


 この度の震災が起きまして、多くの人が苦しんでいる。

それを決して人ごと、他人事ではないと、その苦しみ・悲しみ

の声をきいて、「何かして差し上げられるのではないか」と

立ち上がった京都の仏師の方(わらべ地蔵プロジェクト)や

建長寺の若い和尚さんを中心とするスジャータプロジェクトの

方々、みんなこれが観音様の心そのものであります。


 観音様はおのおの、みなさんの心の中にあるのであります。

直接ではありませんが募金をなさった人、またこうして被災地の

ことを思いやって手を合わせる、それだけでも観音様の心が

宿っている何よりの証拠であります。


 めいめいのこの心こそ観音様であり、仏様の心であり

南無仏、心の一番のより所であります。

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 今回の日曜説教会も400名近くの大勢の方が拝聴されました。

法話は少し早めに終わり、福居一大(津軽三味線)さんと

AZアーティスト(クラシック)による追悼チャリティーコンサート

が行われました。「アメイジンググレイス」「ジュピター」等の

曲が、日本の三味線と西洋のバイオリンなどが見事に調和

しながら奏でられました。


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 管長様がこれからは「祈り」とともに「具体的な支援を!」

ということで2月下旬にとれた三陸のわかめを宣伝された

こともあって復興支援物産展も盛況でした。


みなさん、有り難うございました。



命のぬくもり

2月12日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 「ぬくもりの 残れるセーター たたむ夜

   一日(ひとひ)の命 両手にいとしむ」


 この寒い時期になるとふと思い起こす歌であります。

実はこの歌は、40年前頃、死刑囚が寒い独房の中で

歌ったものであります。


 夜、寝る前に今日一日着ていたセーターをたたむ。その時に

かすかなぬくもりが残っているのを両手で感じながら、自分の

一日生きた、命のぬくもりというものをなんともいとおしく思うという

歌であります。


 命とはいったい何であるか?抽象的にいろいろと言われていますが

この歌で歌われている「両手に感じるぬくもり」こそ命そのもの

生きている何よりの証ではないでしょうか。


 この死刑囚の方は、死刑になる前の晩に次の歌を

読まれました。

「この澄める 心あるとは 知らずして

  刑死の明日にせまる夜ぬくし」

 こんなにきれいな澄んだ心が自分にもあると気がつかずに

きてしまった。しかし、この心があると気づいてからは、死刑の

前の晩といえども温かい心持ちでいられる。


 お釈迦様は、人間として生きる教えを生涯説かれました。

涅槃というと死を連想してしまいますが、本来は煩悩の火を

吹き消して本来の自分に目覚めることであります。消える

のではなく、自分のいただいた命を完全燃焼することである

とある方は仰せになっています。


 お釈迦様がお悟りになったことは、私達はみんな生まれ

ながらにあたたかい心を持っているということであります。

本来持っているこのあたたかい心を取り戻すのが大切で

あります。


 その為にこの命のぬくもりというものを有り難いと感じとって

この命あることを有り難いと心から感じて、少欲・知足です。

 自分のわがまま・欲望を制御して人にあたたかく接することが

お釈迦様の教えであります。


(後記) 今日の日曜説教会は、350人以上の方が

    拝聴されていたようです。たいへん寒い中に

    にもかかわらず、盛況でありました。

    有り難うございました。



 
 

南無阿弥陀仏

1月9日(月)


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 こちらは坂村真民先生が傘寿(80歳)の時に揮毫された

「南無阿弥陀仏」の直筆です。昨日の日曜説教会に坂村先生の

娘さんがおいでになっていて、終わった後、こちらの墨跡を

管長様に贈られたそうです。

 坂村先生が昭和40年頃朝比奈宗源老師のいられた円覚寺を

訪れたとき、門の所に

「となうれば仏もわれもなかりけり      

  南無阿弥陀仏なむあみだ仏」

 という一遍上人の歌が大きく掲げてあり、禅寺に上人の歌が

 と思いながらもそこが禪のいいところだと、しばらくなつかしく

 眺めていたという逸話があります。

 たまたま日曜説教会のお話の中で、管長様がそのことについて

ふれられていたので娘さん、ご自身お持ちした「南無阿弥陀仏」の

墨跡との偶然の一致にたいそう驚きになったそうです。

 管長様も仰せになっていましたが、因縁・ご縁はいろんな

ところに重なり合っている、まさに「重々無尽」です。
 
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こちらは、書右上に押されている坂村先生の「たんぽぽ」の印です。

昨日紹介した「たんぽぽ魂」ですね。
 
 一遍上人が「南無阿弥陀仏」のお札を配って人々を何とか

救いたいと願い続けたように、坂村先生も紙一枚の両面に

詩を書き毎月ごと、1200人もの方にお配りになられたそうです。

その際、宛名は全部先生ご自身が、まるで「南無阿弥陀仏」と

清書されるように一つ一つお書きになられたとのことです。

 最後に坂村先生の詩を紹介します。

「死のうと思う日はないが

生きていく力がなくなることがる

そんな時 お寺を訪ね わたしはひとり

仏陀の前に坐ってくる

力がわき明日を思う心が出てくるまで

坐ってくる」

 管長様が震災復興のこういう時期だからこそ

この詩を多くの人に知らせることができたならと

おっしゃられていました。


 


信じようが信じまいが

1月8日(日)その3


 日曜説教会の提唱その3


 一遍上人は小さなお札に南無阿弥陀仏と書いて配ること

によって念仏を広めていました。あるとき事件が起きました。

ある坊さんにお札を渡そうとすると自分は念仏を信じる心が

ないから受け取ることはできないと断られてしまいました。


 一遍上人は周りの人目もあり無理にでも受け取って

もらいましたが、はたしてこれでいいのか?信じる心のない

人にはどうしたらいいのか?と深く悩んでしまいました。


 そこで熊野大社にこもり祈っていると熊野の神様が

一遍上人の前にあらわれ言われました。

「あなたが念仏を勧めるからみんなが往生するわけではない。

阿弥陀様はとおの昔にみんなを往生・救ってくださっている。

念仏の札を渡そうが渡さまいが阿弥陀様はみんなを救って

いる。だから信じていようがいまいが、どんな人であろうが

区別なくその念仏を広めなさい」と。


 これは禪の悟りに通じるものがあります。

朝比奈宗源老師も「信じようが信じまいが

人はみな仏心の中に生まれ、仏心の中に生き

仏心の中に息を引き取る」と仰せになっています。


 一遍上人は熊野権現の教えによって

「我 生きながらにして 往生せり!」とこう気づかれた

のであります。

捨てて捨てて捨て得ないもの

1月8日(日)その2


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民先生の詩に「捨てて捨てて捨て得ないもの」という

詩があります。私達が何もかも捨てきったら一体どうなるか?

何が残るのでしょうか?


 「捨てて捨てて捨て得ないもの。

それは一遍上人にとっては南無阿弥陀仏であり

私にとっては詩であり 母(先生のお母さんのこと)に

とっては5人の幼子であった。

 捨てて捨てて捨て得ないもの。

それは人それぞれのものがあろう。

でもあくまでもそれは財産でもなく名誉欲でもなく

人の為に尽くす無償の愛でありたい。

 かつてない狂乱の時代に生まれ

静かに一隅にあって花を愛でたい。

 捨てて捨てて捨て得ないものを私は今日も

こい願う。」


 無償の愛とは見返りを求めない愛という意味であります。

仏教では慈悲と申します。何もかも捨て去って最後の残るものは

人の為に己の力を傾け尽くしていく無償の愛・慈悲・いくつしみの

心であります。とりもなおさず、仏心・仏の心であります。


 それは、お互いめいめい一人一人の本心でもございます。

それが本心であるにもかかわらず好きだ嫌いだとわがままを

いってかえって自分を苦しめ自分を見失ってしまっています。


 捨てて捨てて捨て得ないもの、それでも最後に残るものは、

人の為に無条件で何かお役に立ちたいという願いであります。













 

念ずれば・・・

1月8日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民先生がお亡くなりになる2週間前に「念」という

一字をお書きになりました。それが絶筆でありました。

「念ずれば花ひらく」の「念」であります。


 「念ずれば花ひらく」の詩をうたった先生が最も愛した花は

たんぽぽでした。たんぽぽ魂という有名な詩があります。


 「ふみにじられても くいちぎられても

 死にもしない かれもしない その根強さ

 そして つねに太陽に向かって咲くその明るさ

 私はそれを魂とする。」


 何もただ静かにすましこむばかりが仏心ではありません。

坂村先生は仏心を「南無」と呼んでいました。ある人が

坂村先生にとって「南無」とはなんですか?とお尋ねすると

先生は「そうですね。夜明けの空を勢いよく鳥が飛んでいく。

川が朝日に光り音をたてて流れていく。あのあふれるような

命が南無ですよ。」とお答えになりました。


 たんぽぽのごとく力強く、飛び立つ鳥のように

勢いよく念じていく。そして念じていけば必ず花開いて

いくんだと心から信じてこの一年をお互い乗り切って

参りたいと思います。





 

真珠のように

12月25日(日)


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様は「ただ、ひたむきにそしられる人も、ただ、ひたむきに

ほめられる人もいない。」と言われています。世の中はほめられてばかりの人

もいないし、けなされ・そしられてばかりの人もありはしないのであります。

 どんな人でもいい目にあってばかりということはないし、逆に悪い目に

あってばかりということもないはずであります。


 いずれにしても、その時一時の忍であります。


 くさらず、あきらめず、投げ出さず全部一通り受け止めてみてじっくり

練ってみるといいましょうか、待ってみる。そうすると状況は必ず変わっていく

ものであります。


 真珠という宝石があります。あれは真珠貝が自分の体に埋め込まれた

核といいましょうか石つぶをとかしてとかして綺麗な真珠の玉にしていきます。

そのように自分たちも自分を苦しめる不幸や災難をそれをどうか変えていく力

これが忍の力であります。


 いろんなことがある一年
でありましたがこれらも真珠の玉のように

変えていく。つらいこともよい出会いであったとこう変えていくことが

できるように願うものであります。



   


受け継がねばならぬもの

12月11日(日)臘八大攝心中日


 管長様が本日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 以前に「法光」という冊子の中で坂村真民先生の「バスの中で」という

詩を引用致しました。大意を要約しますと坂村先生があるときバスに

乗っていました。折から核戦争の危機が叫ばれていた頃でしょう。この

地球はこれからどうなるのか、明日はどうなるのか不安に思っていると

一人の少女がきれいな花を自分よりも大事そうに高々と差し上げて乗り

こんできました。


 幼い少女ですから、混んだバスの中で押し合って花を傷めてはいけないと

思って高々と差し上げていたのでしょう・その姿を見て坂村先生は、

ああ、これでよいのだと思いました。たとい明日、地球がどうなろうとこの

ような愛こそが、人の世の美しさなのだと。


 たとえ核戦争で、この地球がどうなろうとそのぎりぎりの時まで、

こうした愛を失わずにゆこうと涙ぐましいまで清められるものを

感じたと詠われています。


 その冊子を見た坂村先生の娘さんが、「いろいろな人に様々な詩が

引用されてきましたがこの詩を引用する人はほとんどなかった。

この詩を引用する人は父・坂村真民の詩を熟知する人である、

父の詩人たる感性を理解されている方だ。」と感動されました。


 そこで、来年3月に開館する坂村真民記念館に管長様の書を

ぜひ掲げたいと管長様にお手紙をお寄せになりました。管長様は

一瞬にして迷わず次の詩を思い揮毫され、高校生の時からの先生との

親交などをつづった長い手紙とともに郵送されたそうです。

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「衆生無辺誓願度」は平たく云えばみんなの幸せを願う心であります。

人間だけではなく、あらゆる生き物が命を全うするように願う心であります。

人の迷い苦しみを自分の苦しみとして受け止めてどうか救ってゆきたいと

いう心が火のように燃えているというこであります。


 この心を私達も自分の心として「人に為に自分は一体何ができるのか?」

をよく考えて、それぞれがそれぞれの立場で「何かをしよう」ではありませんか。

(後記)

   今月も先月に引き続き説教会後に、スジャータ・プロジェクト

 (お坊さんによる被災者支援組織)の手ぬぐいを販売させて

  いただきました。売り上げは、すべて被災者復興支援活動に

  当てられます。最近、避難所に暖房器具を届けたそうです。

   
   管長様がお話の中で、

  「被災地の人にとりこれからの問題は「忘却」と「孤独」になる
  
   だろうと言われています。私達は被災者のことを忘れはしない

   という気持ちでご支援ください。」と仰せになっていました。


    そのおかげもあって、今月もたくさんの方々にご厚意を

   いただきました。誠に有り難うございました。

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がんばれという言葉

12月1日(木)その2


 管長様が先月の日曜説教(11/13)で提唱されたことをまとめてみました。


 私達はよく「がんばれ」という言葉を使います。これはたんへんだろうけど、

しっかり一生懸命生きてくださいという意味で使います。3月の震災後、

この「がんばれ」という言葉をもう言わないでくださいと言う声が言われるように

なりました。


 「がんばれ」という言葉について、妙心寺管長の河野太通老師はこういう

ことを仰せになっています。長い間、神戸の修行道場におられた老師は

阪神淡路大震災を経験して「がんばれという言葉は、もう十分である。」と

言われました。


 震災時、老師の親しいお家の4人家族うち、中学3年の娘さんだけを残して

お父さん、お母さん、弟さんの3人が亡くなりました。家族3人を一瞬にして

失った娘さんは葬式をしなくてはなりません。老師のお寺の本堂に3つの

棺がならびました。老師は「これからはお父さん、お母さん、弟さんの分まで

がんばって生きていくんだ」と励まし続けました。娘さんも歯を食いしばって

涙一つこぼさずにがんばっていたそうです。


 そうして、何日か過ぎお葬式が終わりいよいよ出棺の時に、まずお父さんの

棺、次にお母さんの棺、そして最後に弟さんの棺が出て行くときに、その娘さんは

弟さんの棺にしがみついて大きな声で泣き崩れたそうです。


 老師はその時に「もうがんばれはいらない。この子はがんばったんだ。涙一つ

見せず耐えてがんばってきたんだ。これ以上何をがんばれというのか。これ以上

がんばれはもう聞きたくないんだ。」と思われたそうです。


 それから16年、この度の大震災に対して、老師はそれでも「がんばろう」

といわざるを得ないと仰せになっています。それは生かされたこの自分の

命を大切に生きることが亡くなった人の対する供養であり、祈りであるから

であります。そういう意味でがんばろうと言わざるを得ないのであります。


 ある和尚さんが「がんばれ、がんばってくださいというのはどうしても

他人事になってしまう。ですから、がんばれではなくがんばっていきましょう

のほうがいいのではないか」と言われています。「お互いがんばりましょう」と

相手と自分、同じ気持ちになっていっしょになって乗り越えていきましょうのほうが

よろしいのではないでしょうか。みんな同じ命であります。悲しみ苦しんでいない人は

一人もいません。だからこそ、「お互いがんばりましょう」と声を掛け合って

いきていきたいものであります。

(後記)

   キーボードを打っているうちに涙がこぼれ落ちてしまいました。

 


揺るぎない確信2

10月9日(日)その2


 法華経も含めて仏教の教えのねらいは、みんな尊い仏様の心を

いただいていること、そして本来持っているその心に自分で気づくこと

です。

 
 竹田益州老師は、火事を起こしてしまった苦しみ、それを周りの人から

ののしられる苦しみ、そういうまさにどん底の中で、たとえどんな取り返しの

つかないことを犯してしまっても、たとえどんなに他人から言われようとも

私の心の本質は浄らかであって塵一つ着かない、何にも傷つくことはない

と揺るぎない確信をされたのでしょう。


 褒めそやされて得た確信よりどん底から得た確信というものは

揺るぎない。そういう何事にも微動だにしない揺るぎないものを自分で

つかんで欲しいが為に默雷老師はあえて厳しい鍛え方をしたのでしょう。


 晩年、益州老師が建仁寺の管長の時、僧堂の隣のお寺が全焼し

明くる朝、そのお寺の住職がはらはらと涙を流しながら益州老師の

所にきました。老師はその顔を見て、ご自身もかつてお寺を燃やして

しまった苦しみ・苦労を涙をもって語られたそうです。そして

「あんたもたいへんだ、どうか辛抱して辛抱して復興してください。」

と手を握られたそうです。この和尚さんは、これ以上の励ましは

なかったかと思います。


 そういう老師のお姿を拝見して、苦労をすることは決して無駄に

なりはしない。無駄になるどころか、その苦労・苦しみが他の人には

できない、相手を救ってあげる大きな慈悲の力になるのだと間近にいて

学ばせていただきました。


 どんなにののしられても、どんなにけなされても、どん底の中でも

「私達は誰一人例外なく何ものにも傷つくことのない宝の珠、心をもっているんだ」

と気づくことが法華経の教えであります。


 

揺るぎない確信

10月9日(日)


 日曜説教会で管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 建仁寺の管長だった竹田益州老師は、若い頃、数年間の修行を

終えて大きなお寺の住職となりましたが、火の不始末でそのお寺の伽藍を

燃してしまいました。なかば、追い出されるようにお寺を出され僧堂に戻り

ました。名刹を燃してしまったとの自責の念に苦しみ、また周りに人からも

ことあるごとに責められました。とりわけ師の竹田默雷老師は、とくに厳しく

「だから、お前はそんなことだから寺を燃やすんだ。」とののしり、これには

若き益州老師も実にこたえたそうです。



  禅宗の老師はあまりほめたり、情けをかけることはしない。ほめることは

一見たやすいことのように思えますが、それが本当にその人の為になるかは

難しい。温室育ちですとどうしても弱い。杉の木はすくすくと育ちますが台風が来ると

真っ先に枝が折れ、幹が倒れるともう芽が出ない。



  ある仏師の方が言っていましたが、仏像を彫るのに一番適していない

のはすくすくと育った木だそうです。逆に谷の底から伸びて周りの木に日の光を

さえぎられて、かろうじて伸びてきた木は一番強く仏様を彫るのにはいいそうです。

 将来、禅宗の和尚さんとして世間の荒波を越え、何事にも堪え忍んで

いけるように麦踏みのごとく、默雷老師は益州老師をお鍛えになったのでしょう。


 そんな益州老師が修行にはもう耐えられないと本当に追い込まれたときに

ある方から「これをとにかく読め。」と手渡されたのが法華経の訓読本でした。

老師はそれを繰り返し繰り返し読んで「自分は本当に救われた。」と思われた

そうです。

 次に続く・・・



命あればすべてある(その2)

9月11日(日)その2


 日曜説教会の続きです。


 無常であることにふれて一番気づかされるのは、命あることであります。

では、命とは?目には見えないけれど、直接ふれることはできないけれど

それは、お日様の光、水、空気、大地など自然とともにあるものであります。

自然と切り離して考えることは不可能なものです。

 仏教の教えは、悪いことをしない、良いことをするであります。

では、一体良いこととは?悪いこととは?なんでしょうか?

 仏教では、あらゆるものはみんな仏様の命をいただいているといっています。

悪いことは、このいただいた命を粗末にする、傷つけることであり

良いことは、この命を大切にいくつしむことであります。

 この価値判断を持って暮らしていけば、何が良いことかわるいことか

わかってきます。

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命あればすべてある(その1)

9月11日(日)その1


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 毎日新聞のコラムに「命あればすべてある」という題の記事が

ありました。福島在住、NPO法人理事長、40代のアフリカ人女性の方の

記事です。その方は、母国ルワンダの内戦から逃れるために1994年に

福島に移り住みました。JR福島駅前のビルの近くで震災に遭遇し、娘2人と

車の中で過ごされたそうです。震災から3日目、初めて津波の映像を見たとき

「何も残されてはいないではないか」と衝撃を受け、なにもかもなくした

母国ルワンダの内戦での記憶がよみがえってきたそうです。

朝、「行ってきます!」と言って出て行った家族が帰って来ない。

夕方、「また、明日ね!」と別れた職場の友人と二度と会えなくなった。

今までの生活がある日を境にして消えてしまう。今回の津波もそっくりだ。

被災者の気持ちが痛いほどわかったそうです。

 しばらくしてから、その方は避難所をまわってコーヒーを配りました。

その時に「自分はなぜ生き残ってしまったのか?」と自分を責める

年輩の男性に出会ったそうです。その方は、男性に話しかけました。

「私は(内戦で)全部なくしたけれど、命があったから今こうして

おじさんに出会えたのよ。」すると年輩の男性は元気な笑顔になってくれた

そうです。
 
 人は生きてさえいればすべてあるのだ!

 夢をえがいたり、出会いもある、誰かを元気づけられるし、誰かから

元気をもらうこともできる。生きているからこそできることはかぎりなく

ありますと。

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生きろ!

8月14日(日)その3


 管長様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。


 相田みつをさんは、実のお兄さんお二人を20代で戦争によって

亡くされています。そのようなたいへんな体験をなさってそこから

出てきたのが次の詩であります。

「身近な人の死に逢うたびに 私は人間の命のはかなさに

ガクゼンとします。この世に生きている尊さを骨身にしみて

感じる時 私には仕事への闘志が湧いてきます。」

 残された自分がこれからどう生きなくてはいけないか?

これがその後の相田さんのご活躍の根本となっているのでは

ないかと思います。


 被災地の名取市で鎮魂のため灯籠流しが行われるにあたって

実行委員の方が地元の書家にその灯籠に書く字をお願いしたそうです。

 その書家は何という字を書いたかというと「生きろ」という文字

だったそうです。これには、私もたいへん胸を打たれました。

いろいろと亡くなった人の事を思うと思いは尽きないのでありますが、

残されたものは生きなければならない!という強い思いを感じる

短い言葉であります。少しでも力一杯、精一杯明るく生きることが

亡くなった方への一番のご供養であります。その心を持っていれば

本当はどこであってもご供養はできるものであります。

 松原泰道先生がお盆の時タクシーに乗ったところ、若い運転手さんが

先生にこう嘆かれたそうです。「自分は最近母を亡くしたけれども

自分自身仕事の都合でお墓参りもできない。」それに対して先生は

「それはあなたが事故を起こさない、無事故で立派にタクシー運転手を

務めることがお母さんへの一番のご供養になりますよ。」と答え

られたそうです。どこにいても、自分のなすべきことを明るく

精一杯していれば、必ずお母さんに通じるものであります。

そしてそれが亡きお母さんへの一番の供養であります。

(後記)

  管長様は、9時から日曜説教をされ11時から黄梅院での

 盂蘭盆会塔婆供養の法要に出られ、午後からお檀家さんの

 家にお盆のお経を上げに行かれました。

 本当にお疲れ様でした。






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