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いのちを賜ったものは・・・

3月16日(土) その2



 管長様が今日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 仏とはいったい何であるか?これは、決して私たちより遠く離れたものではない。

この広い大自然の中でいのちを賜ったものはみな仏である。大自然のいのちそのものが

みな仏であります。


 仏心の中で生まれる、仏のいのちの中で私たちはこのいのちをいただいている。

仏様も私たち人間も、その辺を歩いている動物もみんな同じ、仏の子である。

仏のいのちをいただいている。


 限りなき 仏のいのち 今ここに

     この一息に 生きておるなり

 
 限りない仏のいのちが今ここに、私のこの一呼吸に生きているんだという

歌を以前に作りました。


 このことが本当にわかると私たちは決して争うことも憎しみ合うことも

しなくなるはずです。みんないのちのもとは一つ。そしてみんな幸せを祈る

心も安らかを祈る心も一つのはずです。


 大自然の中でいのちを賜ったものはみな仏です。この大自然のいのちそのものが

仏です。仏様と言おうが我々人間と言おうが犬と言おうがみんな平等のいのちを

生きているのです。

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(後記)

 今日の土曜坐禅会は、初心者の部73名、2部53名の方々が

ご参加くださいました。誠に有り難うございました。
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正しい方向かどうか?

1月12日(土)


 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 ある老師がこんなことを言われていました。「自分の坐禅が

うまくいっているかどうか?正しい方向にむかっているかどうか?

を知りたいと思えば、自分の家庭を見るのが一番いい。


 あの人が坐禅に行くようになって、おうちで怒ったり、

大きな声を出したりしないようになり、その人がそこにいる

だけで、なんとなく家庭が穏やかになってきたら、その人の

坐禅はまあまあである。


 反対に、坐禅に行くようになってから、「きちんとしろ」とか、

「これが正しい作法だ、こーしろ!」とかとガミガミうるさくて

仕方がなくなってきたらその人の坐禅は考え物であります。」と。


 悟りの心を現実世界に活かしていくことは非常に難しいこと

であります。家庭、学校、会社で、目の前の人がみんな仏心を

持っていて素晴らしいと思うのは、なかなか難しいことです。


 そうではありますが、もう一度改めて、自分自身の本心本性に

目覚め「ああ、なるほど私の本心本性はなんと素晴らしい心で

あったことか」と静かに坐禅をして確かめることが大切であります。


 そうすれば、現実の生活、家庭、学校、会社の中で

「ここがお浄土であった、仏心の真っ只中であった!」と改めて気づき、

まわりにいる身近な人達もみんな同じ仏心を持って生まれてきていると

実感できると家庭も自然と安らかになるものであります。

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<日が射し込む居士林堂内>

(後記)

 今年初めの土曜坐禅会は初心者の部60名、2部49名でした。

日中は、ぽかぽか陽気の中での坐禅会でした。

皆様、ご参加をいただき誠に有り難うございました。

 明日は、午前9時から大方丈で日曜説教会

(管長様のご法話)です。







人生はレンタルである

11月6日(火)


 管長様が前回の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 先日、ある雑誌に「人生というのはレンタルである」という言葉が

を見つけました。レンタル、借り物であります。この体、この命は全部

一時(いっとき)いただいて、一時お借りして、一生涯使って、そっくり

そのままお返しするという意味だそうです。おもしろい表現であります。


 あらゆるものはみなお借りしてもとに返すのであります。もちろん

私達の命もそうです。空間的には天地一杯、時間的には過去無量劫である

大いなる命の中から、一時の命をこうしてお借りして・与えられて、

命ある間は精一杯活かして尽くして、あとは大いなる命に帰っていく

だけであります。


 無量の命に仏教では誰でもわかるように阿弥陀様という名前を

つけました。「南無阿弥陀仏」とは無量の命に全部帰って行くという

ことであります。


 そして、この無量の命、どこにあるのかというと、今こうして

見たり聞いたりしている私達の心のはたらきこそがそれであります。

今のこの一念が無量の命そのものなのせす。


 朝比奈宗源老師は、「仏心(無量の命)の中に生まれ、仏心の中に生き

仏心の中に息を引き取る」ということをを坐禅をして悟るのが、

一番だけれども、たとえ、そうはいかなくても、そのことを信じることだけで

悟るのと同じであると仰せになっています。


 その中に あるとは知らず 晴れ渡る

           空に抱かれ 雲の遊べる


 という歌があります。空は仏心・無量の命、雲は私達の

一時お借りしている命であります。

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典座 <僧堂>

(後記)
   
   宝物風入、遠諱委員会が無事に終わり、ほっと一段落です。

  写真は、専門道場の典座(てんぞ)、つまり、台所です。

今でも、薪を使って料理を作っています。


  




人はどうなるかわらない。

6月17日(日)


 管長様が昨日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 先日、禅文化研究所のDVDの撮影がありまして、次のような

質問を受けました。「今、日本では年間3万人の自殺者がいますが

、この状況をどう見ますか?」それに対して次のように答えました。


 3万人というのはたいへんな数でありますが、そういう状況に

あって、では自分が何をすることができるか?であります。

考えてみると、まず、確実にできることは、この自分が死なない

ようにすることが第一番です。


 今、幸いに私は死のうとは思っていないし、そういう状況には

ありません。けれど、絶対に自分は死なないといえますか?

人はどうなるかわからいのが真実であります。


 自分の意図せずに事件に巻き込まれ、自分が消えなくては

状況が解決しないほど追い込まれたら、私もどう判断するか

わからない。今はこうして健康な体でありますけれど、この先

どんな病気になるかわかりません。そして、たくさんの薬を

もらって副作用に苦しめられた時、私はどういう判断をするか

わかりません。


 大切なのは何もああいう自ら死を選んだ人は特別な人ではない、

われわれもどうなるかわらないと認識することではないでしょうか。

お互いどうなるかわからないということが一番根底になければ

ならないと思うのです。


 先日、本を見ていましたら、あの松原泰道先生も、若い頃、自殺を

考えて四国の室戸岬まで行って身を投げて死のうとしたことがあると

書かれていました。先生は崖っぷちまで行って、大海原や悠大な波を

見て、大自然の大きさに比べて自分はなんとちっぽけなことを考えて

いたんだと気がついて、死なずに帰ってきたとありました。


 私はそんな話を聞くと正直、ほっとしました。「あんな立派な先生でも

そういうことがあったのか。」と。迷いの深い人を導いて行くには、やはり

こちらも迷いがなければ導いていくことはできない。悟りきって何の不安も

ない人が悩み・苦しみを持つ多くの人を救っていくことができるかというと

そうとばかりは言えません。


 自分も悩み苦しむ体験をし、そういう人の気持ちがよくわかる人こそ

本当に人を導くことができるのであります。

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 <黄梅院>白い紫陽花

(後記)
 
 昨日の土曜坐禅会初心者の部だけで、ここ数年では最高の

94名の参加がありました。居士林が文字通り、もう坐る場所が

ないほどの盛況ぶりでした。ご参加された方、誠に有り難うございました。

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種智を円かにせんことを

4月14日(土)


 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様の最後の教えは何ですか?と問われたとき

鈴木大拙先生は「依頼心を捨てよ。」と答えられました。

何かに頼ろうとする心を捨てなさいということです。

お経に「自灯明 法灯明」とあります。自らを灯とし

自らをより所とせよということであります。


 何かに頼ろうとする限り、人は本当の安らぎを

得ることはできない。そこで「自灯明 法灯明」

なのであります。


 無我の教えを説く仏教が自分をより所とせよと

言うのは、一見矛盾しているようですが、その

より所とする「自分」とは、いったい何でありましょうか?


 それは、自分だ!オレだ!と主張するこの小さな肉体の

かたまりでもなければ、外の出来事に反応するわずかな

精神のはたらきでもありません。たったこれだけのものが

本当の自分なのでは決してありません。


 本当の自分は、より所となる自分は、もっと深く

大いなるものなのです。もともとは私達の命は

大自然と一枚、大自然の一部、ほんのひとかけらで

あります。そのことは、大自然と私達の命は地続きで、

ここからここまで自分のものと区切りをつけるものは

ありはしないのであります。この大自然・大いなる命を

より所とするのであります。


 坐禅をして心を静かにすると智慧が出てきます。

自分と他人との関わり合いがよく見えてくる。

小さな自分ではなく、周りと全部一つにつながっている

自分が見えてきます。そうすると他人の苦しみや

悲しみを自分のことのように感じ察する慈悲の心が

育ってきます。その慈悲の心が一番のより所と

なるのであります。


 お経の最後に「種智を円かにせんことを」と

祈りの言葉を唱えます。種の中では必ず芽を出して

葉を伸ばして花開くだけのものがすべて備わっています。

そのように私達めいめいの心の中にも、心を静めさせて

智慧の花を開き、慈悲の心をはたらかせることのできる

力をみんな生まれながらに持っているのであります。


 「円かにせんことを」とはその誰もが持っている

素晴らしい能力を十分に発揮することができますように

ということであります。

(後記)

  本日の土曜坐禅会は、強い雨の中にもかかわらず

 初心者の部55名、2部56名と大勢の方々に

 ご参加いただき、誠に有り難うございました。

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円かにされてますね。しいちゃん。



 








 


法華経とは?

3月24日(土)


 管長様が本日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 法華経を繰り返し繰り返し読んでいますが、なかなかわからない

ものであります。しかし、やはり究極のところは、私達が今こうして

生まれて、今こうして生きていること、今このようにこうして

生きている命そのものを法華経というのが私の一番の結論

であります。

 
 こうして生きて活動をしている、ものを見たり聞いたりしている、

いろんな話を聞いて感動したりする、庭に咲いている梅を見て

綺麗だと思う・・・このような心こそ本当の法華経というもので

あろうとこう思っています。


 だから法華経を読むということは、この生きているすばらしさ、

このように(現在の自分で)あることを褒め称えることに他ならない

と思っております。

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 この時期にしては珍しく、梅の花が満開の中での坐禅、提唱でした。

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有り難いですね。






それでいいではないか。

12月24日(土)


 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 我々は普段ついつい迷い・悩み・苦しみがすべてなくなって

やがて悟りがあらわれると思い描いてしまいますが、そんな迷い

などが全部なくなって安心が得られるというのは絵空ごとであります。



 そういう悩み・苦しみなど全部ひっくるめて「それでいいんだ!」と

認めていくことが大切であります。悩み・苦しみはみなすべて天地自然から

たまわったものとして受け止めていく。余計なものは何一つありはしない、

いろいろなことがあるけれど「それでいいんだ!」とこう受け止めていく。


 結局、私達は「只今の自分というものをどう受け止めていくか?」であります。

地位、財産、深い悟りなど自分には何か足りないと言い出すと切りがありません。


 只今の自分はこんなに尊い心と体をいただいている!今こうして生かされて

いるということ、ここでこうして坐っているということ、こうして話を聞いている

ということ、寒さを肌で感じているということ。そしてこの心この命を

授かっているということ。


 これ以上尊いことはどこにもありはしないのであります。


 そう徹することによって初めて安心という安らかな気持ちになれるので

あります。まあ、いろんなことがあるけれどそれでいいのではないか!

であります。


どうにもならないもの

9月18日(日)その3


 管長様が昨日土曜坐禅会で提唱したことをまとめてみました。


 お釈迦様は、一番信頼をしていた自分の弟子、舎利弗と目連を自分より

先に亡くしています。とりわけ、目連尊者は殴られ蹴らるなどの暴行を受け

最期は体の姿形がわからなくなるほどになって亡くなりました。それをきいて

お釈迦様は、「目連ほど修行をした人でもそういう目にあわなければならない。

いくら修行をしても、乗り越えることのできないものは業の力である。

これだけは、いかんともしがたいものである。」と涙を流されたそうです。

 
 業だからあきらめなければならないと単純にすり替えれることは誤解を

うみ難しいのだけれど、人間の力ではどうすることもできないものがあるので

あります。そして、それは残念ですが受け止めていくしかないのであります。

 
 お釈迦様でも、あらゆる人の病気や災難を全部救うことはできません。

どうにもならないところを見据えて、そこに涙を流して受け止めていくところから

本当の宗教が始まるのであります。


 いくら修行をしたとしても、人間にはどうにもならないものが残るんです。そういう

どうにもならないものを残しているからこそ、周りの人の苦しみというものが

本当に親身に受け止めてあげることができるのであります。


 どうにもならないことをかかえて生きているからこそ、人の苦しみを

「ああ、なるほどあなたもそうか」とわが苦しみとして受け止めて寄り添う

慈悲のはたらきが出てくるのであります。


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絶対になくならないものとは?

7月18日(月)


 管長様が7月16日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちが覚えたこと、学んだことはいずれ全部忘れていくんです。

地位や名声、これもなくなっていく。全部奪い尽くされて何もなく

なったとき、一体何が残りますか?

 ことごとく奪い尽くされてもどうしても奪うことのできないもの

ことごとく消し尽くされても消し尽くすことのできないものは

何であるか?これが一番大切なところであります。

 すべてはなくなる。覚えたこと、好きな人がいてもいずれ

なくなるか、いってしまう。財産を貯めてもどうなるかわかりません。

 それでも、絶対になくならないものは、 

めいめいの心であります。

 どんな状況下になっても、私達の本心、仏心、仏性、慈悲の心、

つまりは人をいくつしみ思いやる心は決してなくなることはないのであります。

 公案でもってあらゆるものを否定し尽くして、奪い尽くしていきます。

その結果、決してなくならないものはなんであるか?私達の本心は

なんであるか?これを追求していくのがこの公案であります。

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無門関33則

 3月27日(日)


 昨日土曜坐禅会で老師が提唱されたことをまとめてみました。


 仏教では私達がより所とするものが3つある。

一つめは、「仏」
 
 気の滅入るような情報ばかり耳に入ってくるが、

そんなときでも、仏様は今までと変わらずに私達のことを

見守ってくださっている。それに手を合わせると不思議と

心が落ち着く。

二つめは、「法」

 法は、教え、真理のこと。一番、法が表れているのが大自然。

変わらずに私達を包んでくださっている大自然。

どんなときでもそこに咲いている一輪の花を愛でる心。

それをより所としていこう。

三つめは、「僧」

 僧とは、仲間、集まりのこと。

私達のまわりには、家族、友人と手を差し伸べてくれる仲間がいる。

困ったとき、行き詰まったとき、まわりの仲間をより所と

していこう。


 この三つに共通するのが、私達の心。

根本は、私達の心に帰着する。


 心あればこそ、仏様を拝むことが出来る。

 心あればこそ、花を愛で、鳥の声に気づくことが出来る。

 心あればこそ、仲間を頼りにすることができる。


 この心こそ仏であって、他に何も求める必要はない! 

学生大攝心 提唱

 3月5日(土)

 
 老師が学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 この体、この心、この命。

そして、今、命あること。今、生きていること。


 このことは、あらゆる言葉や論議をも超えている。

説き尽くすことのできない尊いこの瞬間を私達は、

今、生きている!

痛かったら、痛い!でいいんです。

寒かったら、寒い!でいい。

苦しかったら、苦しい!でいいんです。


 それみな、生きてあればこそ、命あればこそであります。


 今、そこにそうしている、その姿のままで

これ以上のものはない!と自分で納得がいくかどうかだ。


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 学生大攝心始まりました。今回も、大勢の方が参加されています。

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 今日のお昼にお出しする具だくさんの味噌汁(通称 攝心汁器)です。

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典座さんは、前夜から、こつこつと準備をします。


















 

無門関29則

 1月8日(土)


老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「一行三昧」・・・我も忘れて今自分がやっていることになりきっていくこと。

 時は今 ところ足下 そのことに 

     うちこむ命 とわの御命 という歌があります。

 本当の自分はよそにあって、現実の自分、今やっていることは違うと

 思いながら、いやいややるのではなく、

 自分が置かれている「その時」「その場」を一行三昧でする!

 自分が今やっていることに自分の全力を没頭する。それこそ、永遠の命であり

 仏心である。

  坐禅をしたら、姿勢を正して自分の呼吸と一つになっていく。

 そして呼吸していることも忘れて、ただ呼吸一枚になる。

 ただ坐っていく。ただというところが本当の一行三昧。

 そして、生きるということをただ生きていく。

 その時その場自分の精一杯の限りを尽くして

 ただひたすらに生きていく。

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(後記)居士林の庭です。水仙の花の香りが辺りにただよっています。

明日は、第二日曜なので9時より大方丈で管長様による日曜説教会が

あります。一般の方も拝聴できます。


 

   
  



無門関27則

 12月5日(日)


 老師が昨日土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「明るく生きることだけが私が子どもにしてあげる唯一のことなんです。」

これは、息子さんが大きな障害を負ってしまったお母さんの言葉です。

「もし、私が暗く沈んだり病気でもしたら、この子は自分のために

母親がこんなになったと自分を責めてしまう。あの子に対して自分は

何もしてあげられない。けれどもせめて自分が明るく生きることだけが

この子にしてあげられることなんです。ですから、明るく生きています。」

 とおっしゃったそうです。


 本当にその人そのことを思うことによって大きな力が明るい力が出てくる。








無門関25則三座説法

 10月16日(土)


 老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 
 今こうして聞いているもの、みているもの

 今こうして確かに生きているものは、どんな言葉でも表現することはできない。


  しかし、ないわけではない。二六時中ずっと働いている。

働きづめに働いているんだ!


 しかもそれはこの小さな自分だけを動かしている力ではなく

自分や他人はもちろん虫けら、動物、草木にいたるまであらゆる生きとし生けるものを

生き通しに生かしてくださっているものだ。


 その生かしてくださっているものを確かに自分で確かめていく。

そして、もうこれ以上貴いものはよそにないと気づくこと。

それが坐禅の上で一番大切なことだ。

提唱 無門関23則

 9月11日(土)


 老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


  私の心は、もともと本来清らかであった!

 このことに本当に気がついて納得がいった。

 頭も剃っていない坊さんでもない青年が、この一つのこと、事実に気づいたことで

だるま様から第6代の法(おしえ)を継承した。

 お経が読めるとか礼儀作法がしっかりしていることも大事だが

自分の心の本来はどういうものか?

それは、本来清らかであるという本質に気づく方がはるかに大切だ。


 金剛經は、繰り返し「無我」を説く。

これが自分のもの、これが自分の身体というものはどこにもありはしない。

一度徹底的に坐禅をして、さがしさがしさがし抜いたときに

これが自分だなんてものはどこにもないと気づくことが重要。


 この島が無人島とわかるには、隅から隅まで徹底してさがすしかない。

とことんまでさがし抜くしかない。

誰かいると思うと不安でビクビクしていなければならないが

この島には何にも誰もいないと気づいたとき

 
無人島が我が家になる!そこのあるものは全部自分のもの!


 心もそう。

自分らしいものがごそごそしているように思えるが

それがいったいどこにあるのか徹底的にさがしてみると

自分らしいものなんてどこにもないんだと気づく。

「己なきとき、己ならざるはなし。」


 大千世界 我が家!

 この世界全部 我が家なんだ!


(後記)土曜坐禅会が1ヶ月ぶりに再開しました。

    一部39名二部54名と大勢の方が参加されました。
 
     なお、明日は日曜説教を掲載する予定です。

 

提唱 無門関21則 

      7月10日(土)

 
老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 坐禅をすることは 泥水を澄んだ水にするようなもの。

何にも手を下さずに 静かに放っておけば自然と水が澄んでくるように

手を組み 足を組み あとは放っておけば 頭はからっぽになる。

 
 何も思わぬが 仏の稽古なり


その何にもなくなったところから出てくるはたらきは 

慈悲の心 思いやりの心

 
 しかし 現実は自分中心に好き嫌いとものを仕分けてしまう。


その仕分けを取り払えば みんな仏!

どんなものにも いくつしみ 親しみ 思いやりの気持ちが自然と出てくる。


 各々の体において 活きてはたらいているもの 仏の命そのものを

自分の呼吸を通じて 感じ 確かめろ!


 気づいてみれば 天地一枚みんな仏であった。









提唱 無門関20則

    7月3日(土)

老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「天地(あめつち)を 肚におさめて 田植えかな」

  (天地全部をおなかの中におさめて田植えをする)

さらに 

「天地も 肚も忘れて 田植えかな」

  (天地一杯も肚も何もかも忘れて田植えに没頭する)


  意識しているとまだ狭い

  小さな自分にとらわれず 何もかも忘れて もっと大きな自分に


  「自分探し」は 一歩間違えると 自分の我が儘の増長になりかねない。

   坐禅はその我が儘な自分を一度否定する。

   そして もっと広い大きな自分に気づく。


   坐禅をして 家族やまわりの人から 穏やかになった 優しくなったと言われるのは

   正しい坐禅。逆に頑固や我が儘になったと言われるのは考え物。


   小さな自分に対する執着を否定して もっと広い大きな自分に気づき

   回りのもの 家族はもとより草や木や鳥や虫にいたるまで 

   慈悲の心 同じ一つの命であると 温かい思いやりの心で接していくのが

   本当の坐禅の道である。

   

   
  

 

提唱 無門関19則

       6月12日(土


 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「春に百花有り 秋に月有り 夏に涼風有り 冬に雪有り」


  大自然と自分は本来一枚!


 私たちは 大自然のいのちをそのまんま生きている


 朝 目が覚めること(大自然のはたらきそのもの)


 当たり前のことだけど それに喜びと感謝の心を感じるか?


 本来は 誰もがそれに喜び感謝する心を持っている


 しかし自分でその心をくらましてしまっている。


 花も月も涼風も雪も全部ひっくるめてわが心


 大自然といつも一つである

 何一つへだてるものがないというのが本来の心


 平常心是れ道





提唱 無門関18則

    6月5日(土)

 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。

黒住教の教えに


「祈るときは からだの力をぬいて この天地にとけ込んで


自然と一つになるような すべてをまかせきるような


ゆったりとした気持ちが大切である。」とある。


また「祈ることによって 五感や意識がとぎすまされて


心は透明になり また鏡のようになってすべてをうつしだす。」とある。


 この「祈るときは」を「坐るときは」に置き換えれば


坐禅にそのままあてはまる。


自分だ自分だとしがみついているものをとっぱらって


大自然の営みと一つになって


大宇宙のはたらきにすべてをゆだねて


ゆったりとした気持ちで一呼吸一呼吸坐禅する。


そして 「只今 ここに生きて活動しているこの私


この命こそ仏様である。」と気づくことが大切。


 

提唱 無門関17則

     5月29日(土)  


  老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


「 迷いながら つまずきながら

 求めながら 失いながら

 憎しみながら 愛しながら

 泣きながら 耐えながら

 責めながら おそれながら

 己をつくり 仏へ近づいていく」

  という坂村真民さんの詩がある。


  一回一回の坐禅 一呼吸一呼吸の坐禅を


  怠らずに努めることが 一歩でも二歩でも


  仏様の世界に近づく。


   どんな無理難題を言われようが

  
  どんな困難なこと 障害が自分の身にふりかかってこようが


  そこで やめたら おわり


   どういう中でも ようし!一歩半歩でも 一呼吸二呼吸でも


  5分10分でも 坐るんだ!という気持ちをもつことが


  修行のコツ


   やめないこと あきらめないこと


   無理難題でもジッとこらえていく

   辛抱に 辛抱したことは 決して無駄にならない!


   それが 心の広さ 人間の度量の大きさにつながる


   つつみ のみこみ おおいつくしていくほど大きい心を

   誰もが持っている。 
 



無門関16則提唱

4月17日

老大師が提唱されたことを私なりにまとめてみました。

 
 世界は、広い。小さなことに何もくよくよすることはない。

さとりとは、ひっかからずにサラサラとすること。

朝起きたら、気持ちよく「おはようございます。」

ごはんができたら、心から手を合わせ「いただきます。」

お茶をいれていただいたら、「ありがとう。」

天気には、洗濯物を干せばいい。

雨が降ったら、本でも読もう。


さとりとは、ひっかからずに、サラサラと。


そのようなことをお話しされました。

提唱

4月3日  

無門関第15則 洞山三頓

老大師が提唱されたことを私なりにまとめてみました。

 
 「飯袋子(はんたいす)、江西湖南便ち恁麼にし去るか。」

この雲門の言葉で、洞山は気づいた。

求め求めて、悩み苦しみ抜いた末に、このままでいいんだと気がついた。

飯を食って糞をすること。ただ呼吸をし、

ただ座ることがどんなに貴いことであることか。

うろうろしていた自分も含めて、

そのままでいいんだと。


提唱

3月20日

 本日の提唱は、無門関第14則南泉斬猫。

老師が、提唱されたことを、私なりにまとめてみました。

「争い」の原因は、猫にあらず。人にあり。

争いは、人の是非を分別する心にあり。

南泉和尚は、その是非分別する心を、「斬」ったのだ。

頭上に草履をのせて、出て行った趙州のはたらきは、

是非分別を超えて、遊び心を持って悠々と生きている様。

結局、人は大自然から生まれて、大自然に帰る。

自然の摂理に従って、何のはからいもなく悠々と生きるのみ。

3月13日(土)

 本日の提唱は、第13則徳山托鉢。

老大師が語られたことを、私なりにまとめてみました。

登場人物の一人雪峰は、長年典座(炊事係)をして、隠徳を積んだ方。

禅門において、典座は、修行の進んだ方が、務めるもの。

それは、そうでない人がやると、ものを粗末にしてしまうから。

ものを大事にする人は、命を大事にする人。

 さて、次は、徳山和尚。昔は、たいそう厳しいお人で、

「道(い)い得るも、三十棒、道(い)い得ざるも、三十棒」と

修行者が、答えようが、答えまいが、棒でたたいたようなような方。

この公案は、そんな厳しかった徳山和尚の晩年の境界の話。

若い頃は、厳しい修行に自己を忘れるくらい打ち込んでやったあとは、

晩年は、禅も仏教もない平々凡々の境地におなりになった。

うまくとぼけるのも、お手のもの。

そんな、徳山和尚の高い心境を提唱されました。




2月27日

本日の提唱は、無門関十二則厳喚主人。老師は、語られた。

<主人公>とは、自分の真心のこと。自分の真心に問いかけて、

自分で判断せよと。お釈迦様の最後の教えは、「依頼心をなくせ」

だそうだ。何が正しい事か判断するのは、最終的には、自分の真心。

自分の真心に照らし合わせて、正しい教えは、受け入れ、そうでなかったら、

捨ててもいい。誰もが持つている真心を、はっきりと気付くのが、坐禅の修行。

真心は、慈悲の心。







提唱

 2月20日

  土曜座禅会二部では、毎週ではないが、円覚寺専門道場師家
  
  青松老大師こと横田南嶺老師による無門関という、テキストの

  提唱(御法話)がおこなわれている。本日も 2時40分から

  3時25分まで坐禅をした後、3時40分から4時半頃まで、

  老師に提唱をしていただいた。

  提唱の中で、今の若いひとは、叱られなれていないから、

  叱られると、すぐに落ち込んでしまう。だから、山本五十六元帥の

  言葉のように、やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

  ほめてやらねば、人は動かじ。の方針で、ご指導をしている

  こと。ほめて、調子に乗ってきたら、叱ってあげる。

  そんなことを、話されていました。
   

  
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