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祈りと坐禅は車の両輪

4月10日(木)


 昨日、円覚寺山内の如意庵さんで、暁天坐禅会の方々との粥坐会が行われました。

横田南嶺管長にお出でいただき質疑応答の時間がありました。管長がお答えになった

一部をまとめてみました。


 祈りをずっとつきつめていくと結局最後のところは我を離れる、我を捨てるにいきつく。

自分のわがままと思いを離れてすべてをゆだねる。天の心のままにすべてをまかす。

これが究極です。


 キリスト教で言えば「御心のままに」です。我を離れてすべてをゆだねる。自分を

全部捨ててしまうこと。ゆだねることによって己を捨てる。


 坐禅は己を捨てよう捨てようとやっていって、なかなか捨てきれない。ですから

延命十句観音経などの祈りと上手に補完するといい。


 キリスト教と禅が交流しているのも究極のところで一致しているものがあるからです。

最後は神様なら神様に全部ゆだねる、己を捨てきる。坐禅によって己を捨てるのと

一つです。


 祈りが最終的にいきつくところは、自分のことを忘れて何か人の為に尽くすことです。

生きている間は己・自我は完全に消えることはないが、一心に祈っているうちに

段々と執着がなくなってきて人の為と思うようになり、そうなると天地自然と一つに

なってくる。


 坐禅だけではどうしても「捨てよう捨てよう」という思いがいつまでも残ってしまう。

であるから、かえって「病」になってしまうことがある。己を捨てるはずの修行が

いつの間にか「修行をしないヤツはだめだ!」というように人を責めるように

なってしまう。そうなったら、これは間違いです。


 あくまでも己を捨てる為の修行です。延命十句観音経などの「祈り」と坐禅は

補完し合って相乗効果があるのです。

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昨日は、午後から、 円覚寺山内・雲頂庵さんの望岳殿にて

満開のしだれ桜のもと、横田南嶺老師や雲水さんが出席し

東日本大震災追悼法要が行われました。




 
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空の天気と我々の頭

4月9日(水)


 先日、横田南嶺管長と相見された方がお話の内容をまとめて送ってきて

くださったので掲載させていただきます。以下。

質問:

坐禅を経験させていただき、頭を空っぽにして思いを断ち切り、自然と融合、一体化することが

いかに難しいことかと思いました。どうすればそれができるのか、そして、それができれば

何が得られるのかを教えていただければと思います。

管長さま:

思いを断ち切ることは無理ですね。無理です。無理なことをやろうと思ったって、

無理でございますからね。ただ、できることを確実にやっていく。確実にできることは

何かというと、あんまり思っても無駄だということを知ることです。考えるということは、

結局、頭の中で色々なことを考えますから。考える、わずらう。考えたからって、

それほどのことはないんですね。むしろ考えれば考えるほど空回りしてしまう

ということは学べるんですね。あんまり考えすぎると、ろくなことはないんだということを学ぶ。

それを知っていれば、今度はどれだけ考えが湧いてきても別段平気なんですね。

どのようにして考えが湧いてきたか、考えがどういうものであるかということが

わかってくると、考えに振り回されなくなってくるんですね。

 今日はこれから雨でしょうね。そんなに騒がないですよ。でも、そういうことが

わからない人は、雲が湧いてきて大変だと思うかも知れません。雲が湧いてこようと、

お日様が消えようと、大したことないということがわかっておれば平気なんですよ。

雨を止めることは我々にはできません。でも雨が降ってきたって平気だと、

傘をさせばなんとかなるし、この雨はやがて止むんだということがちゃんとわかっておれば、

対応ができるわけですね。 

坐禅をして、考えを断ち切って、いつも綺麗な青空の心、それは無理ですよ。いろんな考えが

わっーとくるっていうのは、これは天気でいえば、自然と人間は一つなんですね。別段一体に

なろうということが間違えなんですよ。自然の一部で生まれてきてるんですから。 

 空の天気と我々の頭はよく似てると私は思ってるんです。もやもやもやもやとしても、

いいんじゃないですか、今日は曇りだなと思っていれば。雨も降りますよ。時には雷が

鳴ることもあります。私らでもたまには腹立てることもありますから。

でもいいんじゃないですか。夕立だなと思って見ておれば。やがて止んでいくんですから。

全部ひっくるめて自然の姿です。そんなに考えを断ち切ろう、断ち切ろうとは。

それが自然の現象ですから。考えを断つことはできませんけども、考えに振り回されなくなる

ということは可能です。天気と一緒ですからね。雨が降ろうと、明日から晴れるということが

わかっていれば、そんなに動揺しないわけでしょ。私らも坐禅したって、気が落ち込むことも

ありますよ。この間も、親しい人が亡くなると、どうも一日何もする気がなくて。

ああ、しまったなぁとば少し元気になるんじゃなかろうかと。そういう感じですね。

そして生きていれば、それが、自然と、自然と一つなんですね。

考えを断ち切って大自然と一体になるって、頑張ろうとせずに、皆さんが大自然の通り

に生きている、そう思っているんですけどね。ところが、この頃は大自然に逆らうことが

いいように思って。それは人間の自然の気持ちですから。そういう時はもう横になって、

明日になれて、アンチエイジングなんて、若返ろうなんて、まあそれはやめたほうがいいと

思いますけどね。(笑い)

まごころ

3月23日(日) 春季学生大攝心 中日

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 横田南嶺老師が学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 仏教の膨大なお経も煎じ詰めれば「慈」の一字に帰する。

儒教のあまたの書物も煎じ詰めれば「誠」の一字に帰する。

慈も誠も決して別なるものではありません。


 仏教であろうが儒教であろうが同じ人間が考えたものであるから

別のものである道理はないのです。慈の一字あるいは誠の一字は

日本にもともとある言葉で表現すると「まごころ」となります。


 坂村真民さんに「まごころ」という詩があります。

{天地を貫くのは まごころ 地球を包むのも まごころ

世界を平和にするのも まごころ  

 こころは ころころするが まがつくと もう万里一条鉄

びくともしない どんなことでも ふしぎとよくなる

 まごころは 差別を無くし 憎悪を消し 光のように

すべてを照らし 愛に満ち 熱い涙で 抱いてくれる

 ああ 宇宙を美しくするのは まごころ まことのこころ}

<坂村真民全詩集第7巻より>

 私たちはみんなそういうまごころを持って生まれて来ているのに

見失ってしまっているのではないでしょうか?ころころするこころを

もっと掘り下げていけばまのついたまごころに突き当たるのです。


 また、坂村真民さんは、人の世のまごころを「バスの中で」という詩の中で

わかりやすくうたっています。

{バスの中で

この地球は 一万年後 どうなるかわからない いや明日 どうなるかわからない

そのような思いで こみあうバスに乗っていると 一人の少女が きれいな花を

自分より大事そうに 高々とさしあげて 乗り込んできた

 その時 わたしは思った ああこれでよいのだ たとい明日 この地球がどうなろうと

このような愛こそ 人の世の美しさなのだ たとえ核戦争で この地球が破壊されようと

そのぎりぎりの時まで こうした愛を失わずゆこうと 涙ぐましいまで

清められるものを感じた いい匂いを放つ まっ白い花であった}

<坂村真民全詩集第二巻より> 

 たとえ自分の体が押し合いへし合い押しつぶされそうになっても

自分よりも一輪の花を大事に高々と上げて守っている少女。

こんな状況であってもこの一輪の花を大事に守ってあげたい、

こういうこころがまごころなのです。

 
 まごころを大事に念じ続け、養い続けて失わないようにする。

念じ続け願い続けることが私たちにとって大切なことなのであります。

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 男性約30名、女性約20名の総勢50名の方々が参加をされています。

提唱場所も満席、居士林の禅堂もすべての単(坐る畳)が埋まりました。

大勢の活気のある学生大攝心となっています。

(後記)

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 こちらは坂村真民記念館さんからの要請で横田南嶺老師が揮毫された

「バスの中で」での詩です。この詩を老師がある冊子に引用し、それを

ご覧になった坂村真民さんのご息女西澤恵美子さんが「(この詩を引用するのは)

それは真民詩を熟知されているということ、そしてそれ以上に真民のもっとも

詩人たる感性が光っている詩のひとつであることを解してくださっている」と

感動して老師にお便りを差し上げたのがお二人の直接のご縁となりました。

記念館で展示される予定です。





托鉢

3月17日(月)


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 春めいてきたとはいえ、朝晩は、まだまだ、肌寒い季節です。朝の光がやわらかに

差し込み、木立の鳥たちがさえずる中、円覚寺専門修行道場(僧堂)の雲水さんは、

托鉢に出発いたしました。

 今日の托鉢コースは、鎌倉市役所~笛田公園~鎌倉山~寺分付近の予定です。

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 押手(列の最後方)には、円覚寺僧堂師家(指導僧)である

横田南嶺老師がついて雲水さんと倶に托鉢を行じています。

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托鉢を終えて無事に帰還。

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大用国師誕生の地

2月24日(月)

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大用国師・誠拙禅師誕生地の碑です。

円覚寺派管長 横田南嶺老師が、先日、宇和島を訪れた際にお参りになりました。

 大用国師のご生涯を引用してまとめてみました。

「僧誠拙は延享2年(1745年)に下灘浦之内柿ノ浦(現北宇和郡津島町柿ノ浦)に生まれ、

生母の再婚に伴い3歳から7歳までの5年間家串浦で育った。

ある夏の頃、誠拙が縁側で遊んでいると、六部姿の回国僧がやってきて頭を撫で、

この子は名僧になる相が現れているから小僧に出されたらよいと言った。

母はこの言葉を聞いて臨済宗妙心寺派仏海寺(宇和島市妙典寺前)の小僧に出した。

時に7歳、師は霊印和尚であった。

誠拙13歳のとき、藩主伊達村侯が不意に寺を訪れることがあった。霊印和尚は狼狽して迎え、

あいにく小僧達が不在で十分な応接ができないため気をもんでいると、誠拙が遊びから

帰ってきたので叱りつけて拳骨をくらわした。誠拙は殴られたことに不満であったが、

和尚に言われる通り殿様の肩を揉んでいた。殿様が不審に思い、わけを問うと和尚に殴られた

ことを語り、殿様がどんなに痛かったかと聞くので、「この位でございます。」と

殿様の頬を殴った。霊印和尚は万死に値するものとお咎めを待っていたところ、

藩主村侯は霊印和尚を城に招き「昨日の小僧は大器に違いない。鎌倉へ遊学させよ」

と言って旅費まで下賜したという。

 16歳にして諸方行脚を志し、各地を歴参の後、道声の高かった月船禪慧に参じようと

現在の横浜市保土ヶ谷にある宝林寺内にある東輝庵を訪ねる。誠拙はそれより月船に随時

すること多年、刻苦精励してその蘊奥をきわめ、ついに月船の印可を得てその法を嗣いだ。

明和8年(1771年)27歳の時、鎌倉円覚寺に登り佛日庵に入り荒廃していた円覚寺の復興に努力した。

31歳の時には円覚寺の長老となった。そして、71歳には幕府の命によって円覚寺189世住持

となった。後に大正天皇から彼の生前の仏教興隆に努めた功績をもって大用国師の師号を送られた。」

 円覚寺では、平成31年に大用国師200年遠諱を盛大に挙行する予定です。

円覚寺の泣き開山

1月28日(火)


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 今日、円覚寺・横田南嶺管長猊下は建長寺で開催された「新春法話の集い」で

「仏光国師(円覚寺開山)の言葉に学ぶ」という演題のもと提唱をされました。

終盤部分をまとめてみました。


 私が仏光国師の言葉の中で一つこれはというものを選ぶとすれば

「若(も)し頻(しき)りに涙を下らしめば、滄海も也た須く枯(か)るべし」

という言葉です。この言葉は「海の水がたとえ枯れてしまったとしても、私の

涙が枯れることはない」という意味です。


 ではこの涙とは、いったい、何の涙なのでしょうか?それは人々が悩み苦しんでいる。

その悩み苦しんでいる人のことを思うと人ごととは思えない、放っておくことができない、

それで私は涙を流すということなのです。


 毎年、10月3日に行われている円覚寺の開山忌では必ずと言っていいほど雨が降ります。

ここ建長寺の開山忌は石も割るような夏の暑いときに行われるのと、開山・蘭渓道隆禅師が

峻厳で厳しい家風であったことから「建長寺の石割開山」と呼ばれ、対照的に円覚寺開山・

無学祖元禅師は上記のようなご性格であられたこともあって「円覚寺の泣き開山」と

呼ばれています。


 私はいつも開山忌に降る雨を見ながら、この雨は開山さんが流している涙かなと思うのです。

涙は尽きることがない。悩み苦しんでいる人のことを思って涙を流したからといって

何になるのだと思うかもしれません。


 しかし、自分自身が本当に悩み苦しんで困っているときに自分の為に涙を流して

くれる人がもし一人でもいたら、その人は救われる気持ちになるのだろうと思います。

たとえ、その本人の気がつかないところであっても、自分の為に涙を流してくれた人が

いるという事実は大きな救いになるのだと思います。


 円覚寺の創建より700年、開山さんの涙は尽きることがありません。開山さんは

幼少時分、生き物が殺されるのを見るとまるで自分が切られるように痛い気持ちに

なったという逸話があります。


 ですから開山さんは現代の私たちの苦しみをみて、他人事ではなく自分のこと

のように涙を流しながら見てくださっていると思うのです。そう思うともう少し

頑張ろうという気持ちが湧いてくるのです。

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 会場の建長寺には400人以上の方々が拝聴にお見えになっていました。

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便利・楽を求めた先は

12月24日(火) 冬季学生大攝心 中日


 横田南嶺管長が昨日の冬季学生大攝心でご垂示されたことをまとめてみました。

(今回の学生大攝心は、この一番厳しい季節にもかかわらず、大学生を中心に25名の方々が

 参加をされました。)


 リニアモーターカーに関して批判的な記事が載っていました。

その記事には、新幹線が出来たとき、谷川俊太郎さんが作った詩が引用されて

いました。そんなに急いでどこに行くのか。田植えで働いている人の手が見えない。

人間が小包のように運ばれていくという内容の詩です。


 現代は世の中の進歩が過去の歴史から見てもたいへんなものとなって

「便利」「楽」になったと思われている。しかし、よくよく考えてみると

いったい、そこに幸せはあったんでしょうか?


 このまま走り続けて行き先はどこに向かっているのか?幸せの道か?

不幸の道か?はたまた、滅亡の道でしょうか?少し考えてみる必要が

あろうかと思います。


 便利になったからといって必ずしも幸せに結びつくものではないと

思います。「便利」「楽」だけをを求めていく先にあるのは幸せではなくて

不幸なのではないでしょうか。


 私たちはどこかで何か大切なものを見失って荷物の小包のように

運ばれてはいないでしょうか。そうならないようの私たちはもっと

人間の根本、おおもとに立ち返らなくてはなりません。


 生きるということ何であるか?生きているということはどんなこと

であるか?この体で体験、実感をして、そこから何を成すべきか

どういう方向に向かっていくべきかを見極め、確かな一歩を進んでいく。


 それが私たちの坐禅の修行の目的です。外に向かって働く心をいったん止めて

自分の心をおさめて、内面を見つめる。そして各々の心の内にある確かな

より所を見つける。

 
 そこに根をおろして確かな歩みを一歩一歩進めていくきっかけに

この坐禅会がなったら何よりの幸いです。

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 <円覚寺山内・妙香池から> 16時20分頃、夕日に照らされて山全体が

燃えるように赤く染まっていました。ここ数年で一番の染まり具合です。






 

無事

12月22日(日)


 昨日、文京区白山道場にて今年最後の"坐禅の集い"が行われました。

碧巖録第三十三則「陳操隻眼を具す」を南嶺老師に提唱して頂きました。


〜無事とは何か〜

 無事とは、臨済禅師の教えの中核であり

心が外に向かって求めることを止めた状態です。

 
 我々は普通に生活してますと

取るに足りない様な情報に捕らわれ振り回されて

常に心があちらこちらに走り回っております。


 その為、自分の心がどんどん疲弊してしまい

気持ちが安らぎません。


坐禅は外に向かって求める事を止める修行です。


 手のひらを上に向けて法界定印を組み

なんにも持とうとしない

手放す事によって本当に必要な物が見えてきます。


 普段掴んでいる物を離してゆったりと坐り

仏の御心の中で生かされている事を身体で感じ取り

無事に生きてゆきたいと思います。

blog-白山坐禅会

(後記)

 明日、午後5時から居士林では、冬季学生大攝心が始まります。

応募された方のご来山をお待ちしております。

 なお、居士林では暖房器具等はございませんので、参加者の方は

ご自分の体調を考慮して防寒対策をしてください。ダウンやコート等は

着用できませんので、必要な方は中に着込むようにしてください。

白山の坐禅会

11月9日(土)


blog-南嶺老師

blog-禅会


文京区白山道場龍雲院にて坐禅の集い。

本日は碧巌録第三十二則「定上座佇立」を提唱していただきました。


「十方世界を坐断する」

別段、あちらこちらに出かけて坐らなければならない、
 
というわけではございません。

ここ白山道場に居れば、只今この瞬間、こうして単布団の上で坐禅している。
 
これこそが「十方世界を坐断する」ことに他ならないのです。


十方世界を尻に敷いてドン坐る、今ここで坐っている

ただこれだけで良いのです。


 研修会にてある若い和尚さんから、「自分が法話するその前日は徹夜をして勉強している」

という話がありました。それに対して管長さんは「がんばって勉強しても、

勉強すればするほど話が難しくなる。私の話はとても解りやすいと言われますが、

そのコツは特別に勉強しないことなのです。前の日はぐっすり寝て、当日は元気にお話をする。

その溌剌とした姿をみんなに見て頂くことがお説教であり、それが仏法なんです。」

と仰っしゃいました。




続灯庵のご老僧

10月20日(日) 入制大攝心・初日

 
  円覚寺専門修行道場(僧堂)では、今日から雪安居(10月~1月の集中修行期間)の

始まりです。横田南嶺管長は、今日の開講(雪安居最初の提唱)で、一昨日に96才で

ご遷化された円覚寺山内・続灯庵のご老僧のお話をされました。

 
「 続灯庵のご老僧が一昨日御遷化なされました。今日は居士林の方も大勢見えていますが、

今日の居士林のもとを築かれたかたでした。また戦後の円覚寺を支えた方のお一人でも

ありましょう。飄々と境内を歩かれるお姿は、まさしく禅僧のお姿でありました。
 
 
 私の代になってもよく講座に見えてられておりました。忘れられないのは、ある日のこと、

講座が終わって隠寮に戻ると、老僧が当時八十を超えてらっしゃいましたが、隠寮に見えて、

さっきの講座の言葉を書いて欲しいと頼まれました。何だろうかと思うと、

「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という論語の言葉を説明しようとして、

アントニー・デ・メロという方の詩を引用したのでした。

   
 それは「何もかもなげうって死さえいとわないほど価値ある宝が見つかったときにこそ、

人は本当の意味で生きる」という言葉でした。この言葉を書いて欲しいという事でした。
 

 八十歳を超えてなお、こういう言葉に感動して、若い私に書いて欲しいと頼まれる、

その志に深く打たれました。忘れ得ぬ思い出です。この道にいのちをかけるなどと言っても、

今日の恵まれた時代にはかえって難しいことかも知れません。


 
 老僧九十六歳病無くして寂然と遷化されました。恰も生けるが如きお姿で入定とは

こういう事を言うのかと思いました。一生涯をこの道にかけたればこそのお姿でも

ありましょう。
 
 
 奇しくも入制の摂心を迎えて、ご老僧がこの僧堂のすぐ上の続灯庵で、今なお生けるが如く、

私の拙い講座を聞いて下さっていると思って勤めて参ります。」



ぬるま湯の修行

10月8日(火)


 横田南嶺管長が先日の学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 修行というのは厳しくしようと思えばいくらでも厳しくできるのですが

はたして、それで良いのかというとそうではありません。


 江戸の銭湯というのは昔から熱いと言われています。熱い風呂に「はっ!」と

気張って入るのが江戸っ子の一つの粋な文化でした。確かに、熱い風呂に

辛抱して入ると、「オレは、風呂に入ったぞ!」という気になる。


 しかし、それでは、かえって湯冷めして風邪をひいてしまう場合も少なく

ありません。それで本当に体が暖まったかというと、これまた別なんです。


 むしろ、我々の修行は「ぬるま湯につかるようにやれ」と 昔からよく

言われています。ぬるま湯なんかじゃ駄目だと思われるかもしれませんが、

本当のところは、ぬるま湯に長くつかっている方が本当に体が芯から

暖まるのです。

 
 その時その時に適したものとなるように湯加減を調節していきたいと

思います。

<平成25年9月22日 夏季学生大攝心 総茶礼 より>

 
(後記)

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 今朝は、円覚寺山内・如意庵におきまして、暁天坐禅会の方々との

粥坐会が行われました。

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 参加者は、如意庵の和尚さんが作られたお粥を召し上がったあとに

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 横田南嶺管長にお出でいただき、質疑応答の時間となりました。

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 管長さんはお一人お一人の質問に懇切丁寧にお答えになっておりました。


そして午後からは、建長寺におきまして、

四派(建長寺派、方広寺派、向嶽寺派、円覚寺派)合同住職研修会でした。

講師に島田裕巳先生(宗教学者)をお招きして「変わる葬儀と寺院の役割」の

題のもとお話をしていただきました。




まごころ

10月7日(月)


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瑠璃茉莉(ルリマツリ) <黄梅院>

 横田南嶺管長が先日の学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 仏教詩人である坂村真民さんに「まごころ」という素晴らしい詩があります。


{天地を貫くのはまごころ

地球を包むのもまごころ

世界を平和にするのもまごころ

ああ

宇宙を美しくするのはまごころ

まことのこころ}


 このまごころをいかにして目覚めさせていくことができるか?

その一つの方法は、腰を立て、丹田、おなかに気力を込めて長い息を

して心を静かに穏やかにすることです。


 また日常生活の中では一つ一つのものごとを丁寧にまごころを込めて

いくことです。お茶一つをいただくにしても必ず両手でお茶碗を持つ。

お粥をいただく時も必ず両手でうつわを持つ。両手で握り、両手で支える。

こういうことがまごころを込めていく一つ方法です。


 ちゃんと両手で持って、ご飯やお茶をしっかりといただく。何も手になければ

両手を静かに合わせて「みんなが幸せでありますように」と一念を起こして祈る。

これだけでもまごころは自然と私たちの心に目覚めてくるものです。


 たとえば、お茶を入れる時、「これを召し上がる人の悩み苦しみが少しでも

なくなり、幸せになりますように」と願って、お茶を注ぐならば、その人は

観音様の心、観音様そのものであります。


 心一つの持ちようによって迷いにでもなれば、仏様、観音様にでもなる。

私たちのこの一念、思いの持ちようによっていかようにもなるのです。

<平成25年9月22日 夏季学生大攝心提唱から>





 


学生大攝心始まりました。

9月20日(金) 夏季学生大攝心・初日


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<居士林 山門>

 今日の夕方5時から、平成25年度 夏季学生大攝心(学生を主体とした

2泊3日の坐禅会)が始まりました。

今回は、男性24名、女性14名の方々が参加をされています。

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<坐相説明の様子>

 参加者は、雲水さんや有志の学生居士の指導のもと、2泊3日の間、

修行僧の1日の生活とほほ同じような体験してもらいます。


 開始にあたって、鈴虫の音色に包まれた禅堂内で

横田南嶺管長より以下のようなご垂示をいただきました。


 「私たち仏教を学ぶものはこの世にいのちを受けたものはみんな平等の

いのちを生きているということを教わっています。


 八木重吉さんの詩に

「虫が鳴いている

いま ないておかなければ
 
もう駄目だというふうに鳴いている

しぜんと

涙がさそわれる」

というものがあります。


 虫の一生は、生まれて自分の与えられたいのちをその生ある限り

ただ鳴いて鳴いて鳴き尽くして、そして死を迎える。その虫の生き方と

私たち人間の生き方とはたしてどうでありましょうか?あの虫のように

自分はただひたむきにいきているだろうか?


 この居士林での大攝心には、皆さんそれぞれ、いろんなことを考えて

お越しになったと思いますが、一つの手がかりとして、あらゆるいのちは

平等であると覚えておいていただきたい。


 あまり考え過ぎないことです。あの精一杯鳴いてる虫たちのように

私たちも精一杯生きることはできないだろうか。


 大攝心中のほんの数日間は皆さんが普段振り回されているであろう

携帯電話やパソコンなど様々な機械から離れることができます。


 学べるものはこの自然から学んでもらいたい。お月様の光、秋のそよ風

その鳴いている虫の声、秋の草花・・・。学ぶべきものはこのまわりに

山ほどありますから、どうか心を開いて学んでいただきたいとお願いを

しておきます。


 






 

枯木龍吟

9月13日(金)


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今、円覚寺境内では、コスモス咲いています。 <景福荘>

 さて、今日は夕方から東慶寺さんを会場として月に1回開催されている

鎌禅会(円覚寺開山・無学祖元禅師の語録「仏光録」を学ぶ会)でした。

 横田南嶺管長に講義をしていただいております。その中で、

仏光国師が雲水に修行をする上でに2つのことを守ってくれよと仰せになっている

箇所があります。

 その訓読は「第一、旧路再び行くべからず。第二、新路踏破すべからず。甚(なん)に

因ってか此(かく)の如くなる。枯木龍吟有り。」です。


 それを横田管長は次のように講義されました。


 「第一、旧路再び行くべからず。」とは、ただ伝統をそのまま踏襲するだけでは

だめだということ。「第二、新路踏破すべからず。」とは、かといって目新しいこと

ばかりをしていてもよくない。では、どうすればいいのか?それは「枯木」つまり

伝統を守りながらも、「龍吟」すなわち現代の人の心に響くような新しい風を

吹き起こしていくことだと解釈されました。

(後記)
 
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 円覚寺珍百景を見つけました!円覚寺前にある踏切の脇に

謎の看板がありました。

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 カエルがこの下にいますということらしいのですが・・・

一体、誰が、何の目的で建てたのやら。


良寛さんの漢詩「毬子」

7月23日(火)


 第78回 円覚寺夏期講座は、おかげさまで、昨日で全日程を無事に

終了することができました。初日は、1000人を超える人が聴講にお見えに

なるなど、たくさんの方々にご来山いただき、誠に有り難うございました。


 夏期講座3日目にお話しされた河野太通老師が講座の最後に良寛さんの

「毬子(きゅうし)」という漢詩を紹介されました。あとで複数の方から

あの詩をブログで載せて欲しいという要望をいただきましたので紹介させて

いただきます。


「毬子(きゅうし)」   
  
袖裏繍毬直千金 {袖裏(しゅうり)の繍毬(しゅうきゅう) 直千金}
  
自誇好手無等匹 {自ら誇る 好手(こうしゅ) 等匹無しと}
  
有人若問箇中意 {人有って 若し箇中の意旨(いし)を問はば }
  
一二三四五六七 {一二三四五六七}

<訳>

 私の懐(ふところ)の中にはきれいに刺繍した毬があり

その値段は値千金、はかれるものではない。

 しかもこの毬をつくことにおいては私にかなうものはおらん。

もし誰かが「良寛さん、どういう心持ちで毬をおつきになっているの

ですか?」と問いたならば

 私は答えてやるわい「一二三四五六七」と。


 河野太通老師は、この詩は毬つきの玉のことにかこつけて、

良寛さんご自分の心の珠のことを表現されていると仰せになっていました。

そして次のように訳されました。


 私のこのからだの中にはきれいな値段のつけようのないところの

心の珠がある。この心を上手に用いることにかけては私にかなうものは

いない。

 この心を日頃用い、1日悠然と豊かに子供と仲良く遊ぶなどして

上手に使っている。もし誰かが「それはどういう心境ですか?」と

訊いてきたなら、「一二三四五六七、これだよ。」と答えてやろう。


  

たとえようもない素晴らしいもの

7月21日(日) 夏期講座・3日目


 南嶺老師師が夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。


 皆さんはこのような講座などに何かを求めて来ます。禅では、

「何を求めているか?」よりも「その求めているものは何ものか?

何ものが求めているのか?」に視点を変えて問いかけます。


 六祖慧能禅師は、まだ修行中の南嶽懐譲禅師に「何を求めてここへ

来たのか?」ではなく、「ここへ来たものはなにものか?」と

問いかけられました。そう問われて、懐譲禅師は8年間この問題を

ひたすら考えました。


 考えに考えて出た結論が「一物を説似(せつじ)すれば即ち中(あ)たらず」

という言葉でした。何かこれですよと言葉に表現すれば、もう違う、本質から

逸れてしまう。なんともかんとも言いようがないとうことです。その答えを

訊いて慧能禅師はそうなのだとうけがいました。


 仏の教えで大事なことは、皆さんがご覧になっている講本の上に

あるのではなく、ご覧になっている一人一人なのです。今こうして

講本を見ているもの、今こうして講義を聞いているもの、これこそが

仏様であります。求めていたもの、さがしていたものは、他ならぬ

自分自身だったと気づくのです。


 「何が見ているのか?」「何が聞いているのか?」その当体はどこにも

見当たらないが、しかし、確かに見ているもの、聞いているものがある、

それが生きているという何よりの証です。


 その当体は、言葉ではたとえようがない、説明がつかないというので

それを仏様や仏様のいのちというようなたとえで表現しているにすぎない。

その生きているいのちこそ仏様のいのちでありみんなこの仏様のいのちを

いただいてこの場にこうして坐って話しを聞いている。


 限りなき 仏のいのち 今ここに

         この一息に 生きておるなり

という歌を作ってみました。こうして坐っているところにたとえようのない

素晴らしい仏様のいのちが今こうしてここに呼吸をしているんだという歌です。


 私たちのいのちの当体というものは、それを言葉で表現することも理解することも

できませんが、しかし、確かに、ただ感じることはできるのです。これを何とも

有り難い、何とももったいないものであると、この体で感じることができる。


 私たちはそんな素晴らしいいのちをいただいて生きているのです。

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妙心寺派管長 河野太通老師

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染色家 吉岡先生の資料。

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支子(くちなし)

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紫根(しこん)

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蓼藍(たであい)

(後記)

  明日4日目(最終日)は

8時半から第1講 横田南嶺管長 「無門関提唱」

9時45分から第2講 森田正光先生 「異常気象と環境問題」

11時10分から第3講 桂 才賀先生 「子供を叱れない大人たちへ」

となっております。皆様のご来山をお待ちしております。








 


 


 

 

だんだんと丸い石に

7月19日(金) 夏期講座・初日


 南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。


 山岡鉄舟居士は、若い頃、坐禅をしていると天井のネズミがその気迫に

圧されてピタッと動きをやめたと言われましたが、晩年は写経をしていると

ネズミたちが膝や肩の上で遊んだそうです。こういう世界です。


 修行を始めた頃は峻厳一徹でも段々と時を重ねるうちに丸くなっていくのが

理想です。あたかも岩が上流ではごつごつして大きく、手が触れたら

切れそうものがだんだんと川を流れていくうちに丸い岩になっていくような

ものです。


 私たち、お寺の世界では、伽藍の配置や境内の景色で仏の教えを説くことが

ございます。浅草の観音様などの大寺では、入り口には仁王様があります。

仁王様は目をひんむいて力を入れている姿です。


 私たちの修行もそれくらいの気迫でやらねばなりません。しかし、ずっと

仁王様のままでは自分自身はおろか、はたまたまわりの人まで肩はこり、

くたびれてしまう。


 浅草の観音様は雷門をくぐって一番奥には、観音様がお待ちしております。

最初は仁王様のように力を入れて一生懸命やってだんだんと観音様の心に

なっていくのが理想です。最初から観音様のようにはなかなかなれません。


 ある人が山岡鉄舟居士に剣の極意を訊いたら、浅草の観音様に行けば

分かると言われたそうです。その人はそう言われてお参りに行くと本堂に

「施無畏」という額がかかっていたそうな。


 おそれなきを施すことです。相手のおそれや不安を取り除いてあげる、

平たく言えば相手に安らぎを与える、相手をホッとさせることです。


 そういう観音様になるのが我々の修行の目指すところです。

仏性

6月4日(火)


 管長様が企業坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

「もとよりもほとけとおなじわれながら
         なにとてかくはまよいぬるらむ」

私達は本来、諸仏菩薩に少しも異なることの無い智慧の大光明を持ち、

仏心・仏性の真っただ中におります。


しかしながら、水の中で泳いでいる魚が水というものを知らないように、

仏心の中にいて仏心に気づかないのが私達凡夫です。

それゆえ迷いが生じ、悩み苦しみに苛まれています。


「ふかくおもひたけくうたがふこころあらば
         ほとけの性はめのまへに見む」


眼前の対象を見ている者は誰なのか。

今聞いている者は誰なのか。

またこのように疑う自分とはいったい何者なのか。


目前の事柄だけにとらわれず、その根本をたどり、

迷いの本体、すなわち自己を深く掘り下げていけば、

必ず私達の眼前にみほとけの世界が満ち満ちてくる。


私達は普段生活してますと、どうしても目先の利益にとらわれ、

心が曇ってしまいます。


坐禅は、心のゴミをこまめに取り除いてゆき、

本来の清浄なる仏性に目覚めていく修行なのです。


























祈りの力

5月15日(水)

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<方丈の池> 最近、つがいのカモの姿をよく見かけます。

今日は僧堂(専門修行道場)の講中斎という行事でした。

 毎年5月15日に僧堂を支えてくださっている方々をお招きして

日頃のお世話になっていることに感謝をする日であります。

 雲水さん手作りの昼食を食べていただいて、法話、法要に

参加していただいております。

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 管長様が法話をされましたのでまとめてみました。

 
 人生、行き詰まり、自分はもうだめかというような、いよいよ

どうにもならない時に私たちを支えてくれるものはいったい何でしょうか?


 それはその人を祈るこころであろうかと思います。たとえば母親が

自分の子どものことを思い祈るこころです。祈りのこころというのは

目には見えない。


 また、子ども本人が気がついている場合もあれば、そうでない場合もある。

しかし、気がついている、ついていないにかかわらず、こういう祈りのこころと

いうのは必ず本人に伝わるものです。


 そして本人がいよいよ行き詰った時に大きな支えになるのだろうと思います。


 私たちはいよいよどうにもならない時にこそ幼いころの思い出がふと頭に

浮かびます。親のことを思い出します。そういうことをふと思い出すということは

やはり、目に見えないところで祈ってくださっている人がいるおかげなのだろうと

思うのです。

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 私たちは一人一人の力ではたいへん弱いものです。それが大勢の人に

支えられて今こうしてあります。大自然、草や木や鳥、虫などの姿に

そして、また、目に見えない祈るというこころに支えられて生かされて

いるのです。


 私たちも誰かの為に、身近な人、被災地の人、困っている人などの

為に、祈りを捧げましょうではありませんか。それは決して無駄では

ありません。必ず大きな力となりうるのです。

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腰骨カウンセリング

3月24日(日) 学生大攝心・最終日


 管長様が本日の学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


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 腰を立てると書いて「立腰(りつよう)」という言葉があります。

一生涯を教育に捧げた森信三先生という方が「立腰」ということを

熱心に提唱されました。


 森先生は「21世紀の教育に何が一番大切か?」と訊かれたならば

「まず第一に腰を立てることである、自分の子どもに腰を立てることを

教えることができたならば、もうそれ以上のことはない」とお答えに

なったそうです。


 「教育現場では、いろんな知識をたくさん教えるが、腰を立てること、

大きな声で元気にあいさつをすること、はきものをそろえること、

そう言うことが一番大事である」と森先生はお唱えになりました。


 その森先生の他の言葉に「いかにささいなことであっても、人間何か

人の為に尽くすことによって本当の意味で生きることになるのである」

と言うものがあります。


 腰を立てるということと人の為に尽くすということは、一つにつながらない

かもしれません。しかし、決してそうではありません。いつも腰を立ててお腹に

力を込めることが大きな力となるのです。


 この学生坐禅会に長く通って、今、学校で児童カウンセリングをやっている青年

がいます。いつだか彼から次のことをききました。彼は、いじめにあって不登校の

小学校の子どものカウンセリングを担当している。カウンセリングというのは、

何をすべきと「あーしろこーしろ」と言うのではなく、とにかく相手の話を

聞いてあげることだそうです。


 その青年は、円覚寺で坐禅をしているものですから普段から無意識のうちに

腰を立てて相手と向き合い相手の話を聞いています。頭に血を上すのではなく

腰を立てておなかに力を込めてゆったりと相手の話を聞く。そうすると相手も

自然と話やすくなる。


 そういう風にその子どもに接していたら、ある時にその子が次のように

言ったそうです。「先生はいつも姿勢がいい。先生を見ていると気持ちが良い。

ぼくも先生のまねをしたい」と。


 そして、その子はカウンセリングの間、青年と同じように腰を立てて話を

するようになった。腰を立てるようになってしばらくすると自然と学校に

行くようになり、そしていじめられなくなったそうです。


 腰を立てるというただそれだけのことですが、そうすることによって、

その人、その子どもの本来持っている素晴らしい心というものが自然と

はたらいてくる。


 「姿勢と正せ!」と他人にガミガミ言うのではなく、まず自分が腰を立てて

おなかに力を込めてゆったりとした気持ちでおれば、それだけでその人に

接する人も変わってくるものです。

(後記)

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おかげさまで、平成25年度春季学生大攝心、無事に終了することができました。

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ご参加下さいました皆様、2泊3日、本当にお疲れ様でした。

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 誠に有り難うございました。

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 この学生大攝心の運営に陰に日向にお手伝いいただいた雲水さん、早稲田大のCさん

有り難うございました。

 

 





 
 


 

延命十句観音和讃

3月13日(水)


 管長様が、延命十句観音経の意訳を使って和讃を作ってくださいました。


 和讃(わさん)というのは、仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を

用いてほめたたえる讃歌で、七五調の形式の句を連ねて作られています。


 われわれ臨済宗では、「白隠禅師坐禅和讃」をよくお唱えしますが、これで

「延命十句観音和讃」も木魚のリズムの中で、皆さんといっしょにお唱えできる

ようになります。


{延命十句観音経} (3月15日 4訂版)

大慈大悲の 観世音

生きとし生ける ものみなの

苦しみ悩み ことごとく

すくいたまえと いのるなり

苦しみのぞき もろともに

しあわせ祈る こころこそ

われらまことの こころにて

いのちあるもの みなすべて

うまれながらに そなえたり

ほとけの慈悲の 中にいて

むさぼりいかり おろかにも

このこころをば 見失い

さまようことぞ おろかなる

われら今ここ みほとけの

みおしえにあう さいわいぞ

おしえを学ぶ 仲間こそ

この世を生きる たからなり

われを忘れて ひとのため

まごころこめて つくすこそ

つねに変わらぬ たのしみぞ

まことのおのれに 目覚めては

清きいのちを 生きるなり

朝に夕べに 観音の

みこころいつも 念ずなり

一念一念 なにしても

まごころよりは おこすなり

一念一念 観音の

慈悲のこころを 離れざり


(後記)

 仏教の真髄、禅の端的を現代を生きる私たち、誰にでも分かりやすく

表現された和讃です。繰り返し繰り返しお唱えすることで、

自然と私たちにこの教えが身についてきて、より善く生きる指針に

なるのではないかと思います。

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猩々袴(しょうじょうばかま) <黄梅院>






延命十句観音経のご縁

3月12日(火)

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 こちらは、気仙沼・地福寺さんのお地蔵さまの写真です。

今では、お地蔵さまの後方に、海を眺めることができますが、

 大地震による津波が来る前までは、このお地蔵さまの後ろに位置する場所には

海岸まで住宅が建ち並び、海は全く見えなかったそうです。


 しかし、3月11日の津波によってそれらの住宅はほとんど流され、

今では更地が広がっています。そこに最近建設されたものといえば、がれきを

燃やす焼却場というのが状況だそうです。


 地福寺さんでも多くの檀家さんがお亡くなりになりました。そこで

何かこころの支えになるものにということで「延命十句観音経」を

和尚様が思い立ち、延命十句観音経の冊子を著しておられた管長様に

連絡を取られたのがご縁となりました。


 先日、管長様が地福寺さんをお訪ねになったとき、和尚様が次のように

おっしゃられたそうです。法要をするときは、まず、参列者みんなで

延命十句観音経の意訳(管長様が意訳されたもの)を唱和してから

法要を始めますと。


 以前にも紹介しましたが以下がその意訳です。
 

延命十句観音経意訳

観音様

どうか人の世の苦しみをお救い下さい

人の苦しみをすくおうとなさる

そのこころこそ仏さまのみこころであり

私たちのよりどころです

この仏さまのこころが

私たちの持って生まれた本心であり

さまざまなご縁にめぐまれて

このこころに気がつくことができます

仏さまと 仏さまの教えと

教えを共に学ぶ仲間とによって

わたしたちはいつの世にあっても

変わることのない思いやりのこころを知り

苦しみの多い中にあって 人の為に尽くす楽しみを知り

この慈悲のこころを持って生きることが本当の自分であり

汚れ多き世の中で 清らかな道であると知りました

朝に観音さまを念じ 夕べに観音さまを念じ

一念一念 何をするにつけても

この思いやりのこころから行い

一念一念 何をするにつけても

観音さまのこころから離れません

至誠

1月15日(火) その2

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 こちらは、昨日、円覚寺で行われる成人式で贈呈される予定

だった、管長様揮毫の「至誠」の色紙です。残念ながら、雪の為

中止になりましたので、管長様が作ってくださいました「至誠」に

ついての説明文をつけて、郵送されることになりました。

説明文の内容は以下です。

[ 至誠ーまごころー ]

「至誠」とは、この上なく誠実なこと、まごごろを表します。

中国の古典{孟子}には「誠は天の道なり。誠を思うは人の道

なり。至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」と

説かれています。

 
 平易に訳してみますと「天地万物にあまねく貫いているのが

誠であり、天の道である。この誠に背かないようにつとめるのが

人の道である。まごころをもって対すればどんな人でも感動させない

ということはない。」


 まごころをもって接すれば、どんな人でも動かせる力があるという

ことです。ただし、その至誠、まごころは一時だけのものに終わっては

なりません。


 これも中国の古典{中庸}には「至誠無息<至誠息(や)むこと無し>」の

一句がございます。この上ない誠実さ、まごころをもって生涯を貫く

ことです。{中庸}には「至誠息むこと無し」の後に「息(や)まざれば

久し。久しければ徴(しるし)あり」と続きます。


 「この上ない誠実さ、まごころを怠ることなく、あきらめずに保てば

長く勤めることが出来る。長く勤めれば必ず目に見えるしるしが顕れる」

という意味になります。


 まごころを持って、倦(う)まず弛(たゆ)まずどこまでも貫いて、

途中でやめることさえしなければ、必ず目に見える成果が現れる。

どんな人でも、世の中でも変えていく事が出来るということです。


 嘘偽りの多い中でも、頼りとすべきはまごころひとつ、お互いの

まごころを貫いてまいりたいと存じます。まごころを持っていけば

必ず道は開かれると信じてまいりましょう。

(後記)

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 <舎利殿> 昨日の大雪の時の写真です。

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<山門>










命は一呼吸にあり

10月31日(水)


管長様が先日の企業の坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私達はみんなすばらしい宝を持って生まれて来ているのに

そのことに気づかずに目先の損得に振り回されています。

一番の宝は、私達誰もが持って生まれた仏心です。


 仏心といってもピンとこないければ、この命と言っても

いいでしょう。では、その命とは何であるか?これは、

はたまた、つかまえどころがないように思われます。


 そこで、禅では、「命はこの呼吸にあり」という言葉を

大切にしています。この呼吸に限りない命のすばらしさを

感得していることであります。


 何もかも失ったとしても、何にもものがないとしても、

この一呼吸を楽しむことができる、そういう力を身につける

ことができれば、楽しみの極みであります。


 腰を立てお腹に気力を充実させて、この一呼吸の命をしみじみと

楽しんで味わってもらうのが坐禅の醍醐味であります。


 すばらしい心、すばらしい命、これを持って生まれてきたことに

どれだけ深く感動しているか?これがその人その人の一生涯に

大きな影響を与えて行くものであります。


 私達めいめいのこの命こそ、仏心であり、正しい智慧と深い慈悲を

担ってはたらいていく、何より尊い宝であります。


 このことをまず自分自身が見届けて、そして己の仏心を見失っている

人にも気づかせてあげたいと願う心を持ち続けることが大切であります。


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かなちゃんの最近のお気に入りの場所は、勅使門前の階段です。

煩悩について

10月4日(木)


 管長様が暁天坐禅会の方との質疑応答の中で「煩悩について」

お答えになった事をまとめてみました。


 煩悩のもとは何か?と問われて、強いて言うならば、我々の

生きているいのちそのものなんです。煩悩と仏心は別物だと

思いますか?相反するものだと思いますか?


 水に喩えるならば、津波・洪水といった恐ろしい面に遭遇した

人はもう、水は恐怖でしかありません。しかし、水の本質は何であるか?

と尋ねていくと自分たちが毎日飲んでいるのも同じ水であります。

自分のいのちを支えているのも同じ水です。それどころか、私達の

この体も水でできています。


 津波・洪水のように現象だけを見ると、きわめて恐怖の対象に

なることもあります。こころも同じであります。こころのはたらきに

煩悩という名前をつけたら、犯罪や暴力といった「悪いもの」に

なってしまいますが、煩悩もいのちそのもののはたらきなんであります。


 水が津波・水害となる一方で同じものが恵みの雨、私達のいのちの

支えになるように、煩悩もいのちそののはたらきと同じなんであります。


 そうとはいえ、やはり人に攻撃的となるような煩悩は制御して

いかなくてはなりません。

 お釈迦様は「川を治めるようにこころをおさめなさい。」と仰せに

なっています。


 煩悩をきちんと自分で制御できるようになると、だんだんと

煩悩の本質と仏心の本質が変わらないと気付いてきます。

そうなればあえて断除する必要はありません。


 全部煩悩がなくなってしまうことは生きることを否定すること

と同じであります。ですから、人を攻撃するような、被害を

与えるような煩悩を抑えて、人に喜んでもらいたいというような

良い欲望に変えていくことが大切であります。


 煩悩の本質は仏心と一つであります。

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(後記) 今朝は、年2回の恒例となりました、暁天坐禅会の方々

(16名)との粥坐会でした。会場は如意庵さんで

和尚様が用意されたお粥をみなでありがたくいただいてから、

本堂へ移り、管長様をお招きしての質疑応答の時間と

なりました。

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 管長様と暁天坐禅会の方々との活発な質疑応答が行われました。

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 管長様は一つ一つの問いかけに、和やかな雰囲気の中で

真摯に丁寧にお答えになっておられました。

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 夕方から仏殿での達磨忌宿忌に出席して参りました。

明日10月5日は達磨大師のご命日です。午前5時半から仏殿で

法要が営まれます。








 

生死を超える道とは?

9月17日(月)


 管長様が本日の居士林会で提唱されたことをまとめてみました。


 夢窓国師というお方はたとえ自分がどにような批判をされようとも

「仏法の教えを伝えていくにはどうしたらいいのか?」というそのこと

だけを大切に願った生き方をなさったのであろうと思います。


 後醍醐天皇についたり、足利氏についたりとよく節操がないと後世に

至るまで批判されています。しかし、ああいう、後醍醐天皇や足利尊氏といった

当時権力を握った人々は、ましてや乱世の英雄でありますから人物を

見抜く力は十二分にあったと思います。


 もし、夢窓国師が自分だけの都合、名誉、我欲によって行動して

いるのならとうにそれを見抜かれて排斥されているでしょう。

私心なし、その人は純粋であると感じられたたこそ、様々な

立場の人達から大事にされたのでありましょう。


 夢窓国師がいた寺というのはどこも立派な庭が残っています。

これは夢窓国師の「庭を眺めることによって少しでも人々に心を

澄ませて欲しい」という願いが現在まで息づいている証です。


 我が身はやがて消えてなくなりますが、しかし、夢窓国師の

願いといのは、京都の天竜寺や鎌倉の円覚寺、瑞泉寺などに

今にこう息づいています。


 自分だけが死ななければいいというのは死の克服ではありません。

我が身はたとえ朽ちるともこの願いは尽きることはない。

夢窓国師は平和と人々の安寧を祈り願って生涯を過ごされました。

ですから、そこに平和や安寧を祈り願う人々がいる限り、

そこに夢窓国師は生きていらっしゃるのであります。


 「人々の苦しみ、世の中のわざわいがなくならない限り、

我が願いはつきることはなし」というのが夢窓国師の願いで

あります。


 生死を超える道というのは、願いを持って生きていくこと

であります。

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明日を信じて

9月5日(水)


 去年の今頃、管長様の故郷、紀伊半島が台風12号の豪雨により

たいへんな被害を受けました。あれから1年が経ち、昨日、

管長様は、地元での慰霊祭に招かれて出席されました。


 「紀伊半島大水害」から1年、復興へ向けての願いを書いた

管長様の文章がを地元新宮市の広報に掲載されましたので

全文を紹介します。


 {紀伊半島を襲った豪雨による大水害から、はや1年が経とうと

しています。お亡くなりになった方のご冥福をお祈り申し上げます。

まだ、目を閉じれば大災害の様子が、ありありと思い浮かべられる

ことでしょう。

 
 私も18歳まで熊野川のほとり、船町で生まれ育ちました。川の増水の

様子は幼いころからよく見てきました。しかし、あの高い堤防を越えて

川が氾濫したなど、とても想像だにできません。送っていただいた写真を

見ては、涙を禁じ得ませんでした。まだ、鉄道も通わぬ時でしたが、昨年

9月の下旬にどうにか、生家と菩提寺の清閑院様や那智山とをお見舞いに

参りました。熊野川の奥まで行くことはできませんでしたが、那智川の

惨状には目を覆いました。東日本大震災のお見舞いで、大津波の跡にも

参りましたが、ほぼ同じ光景が目の前を広がっていました。まさに息を

飲む思いでした。以来1年、鉄道も復旧し、少しずつ復興はしているかとは

思いますが、まだまだかかるものでしょう。


 また、お身内を亡くされた方、長年住み慣れた家を流された方々など

その心に負われた傷もまだ深い事と拝察します。熊野の大自然がこんなにも

猛威を振るうとは誰も想像しなかったことでしょう。


 今春、宮城県気仙沼に被災見舞いに参りました。大津波で町は壊滅的な

被害を受け、大勢の方がいのちを落とされました。震災から10日後に、

気仙沼の中学校で卒業式が行われました。生徒の遺影を親が抱いて出る姿も

見られたそうです。その時に卒業生を代表して答辞を読んだ生徒が、涙ながらに

「いのちの重さを知るには、大きすぎる代償でした。しかし苦境にあっても

天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の

使命です」と言われました。


 「天を恨まず」という言葉が、皆の胸を打ちました。どんなにか、天を恨み

運命を呪いたかったことでしょう。それでも、天を恨まず、海を恨まず、

助け合って生きていくと誓われたこころは素晴らしいものです。


 熊野は自然の中で、山と川と共に暮らしているところです。必ずやその自然の

中で、山と川と共に復興してゆくことを信じて疑いません。


 仏教詩人の坂村真民先生は、タンポポの花を愛し、自宅をタンポポ堂と

名付けていました。「タンポポ魂」という詩があります。

「踏みにじられても 食いちぎられても 死にもしない 枯れもしない

その根強さ  そしてつねに 太陽に向かって咲く その明るさ 

わたしはそれを わたしの魂とする」


 これから歩んでいく先は決して闇ではなく、明るい光が射してくる

ことを信じて、今日1日、今のひとときを大切に、お互い助け合って

参りましょう。}


 




 

願いを持って生きる

9月2日(日)学生大攝心最終日


 管長様が本日の学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 人の一生は川の流れに浮かんだうたかた、泡のようなものであります。

浮かんでは消え、また、浮かんでは消え、それを繰り返していく。私達の

一生はこの一時(いっとき)であります。


 この流れを仏教では仏様のいのち、仏様のこころ、仏様の手のひらの中

懐(ふところ)の中といい、この中で一時のいのちをいただいて生きている

のであります。


 死ぬまでの間の一時であります。それが長いか短いかは誰にもわからない。

しかし、どうせ、いただいた一時のいのちであるならば、何か人の為に

尽くして輝いて生きていきたいものであります。


 こういう願いを起こすことが私達の仏道の修行です。


 何か人の為に尽くしていきたいということは4つございます。

一つめは、「布施」。何かを人に施すこと。

二つめは、「愛語」。人に言葉をかけてあげること。思いやりのある言葉を

     かけてあげることであります。

三つめは、「利行」(りぎょう)。何か人の為にして差し上げること。

四つめは、「同事」(どうじ)。これが一番難しいのですが、その人の

      身になってあげること。その人の迷い・苦しみを知ってあげること。

      自分も同じ気持ちになってあげることであります。慈悲の究極であります。


 こういう良い願いを私達も自分の願いとして生きていこうというのが

私達の修行であります。


(後記)

   おかげさまで、平成24年度夏季学生大攝心は無事に終了と

  なりました。参加者の方々、暑い中、本当にお疲れ様でした。

  誠に有り難うございました。

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管長様が総茶礼(解散式)の時のお話で、「みなさんの坐禅会に対する

感想や要望をぜひお聞かせください。」と仰せになりましたので、

早速、役位の雲水さんが要望箱(アンケートBOX)を用意して

くれました。参加者の方から多くのご意見、感想をいただきました。

貴重なご意見、誠に有り難うございました。

 このブログのコメントでも何かありましたら、お知らせいただければ

幸いです。(返信は必ずしもできませんが)

 ご要望に少しでもそえるように精進して参りますのでこれからも

宜しくお願いいたします。








 

祈り願う心

9月1日(土)学生大攝心中日


 管長様が本日の学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 夢窓国師発願文に「願わくは我が慈悲観音のごとく、行願(ぎょうがん)

普賢(ふげん)のごとく、智慧文殊(もんじゅ)のごとく、弁説(べんぜつ)

維摩(ゆいま)のごとくならんこと。」とあります。


 仏像というものは決して偶像崇拝でありません。観音様を拝むこと、

観音様のお姿を見ることによって、私達の心が観音様のような慈悲の

心となるように願うことが大切であります。


 私達のこの心が、慈悲は観音、願いは普賢、智慧は文殊となります

ようにとこう願っていく。願って願って願い続けていくと、その願う心が

私達の心に、体に、熏習(くんじゅう)といいまして、しみついてくる。


 そうすることが特に難行苦行をしなくとも仏様に近づくことのできる

速やかな道であります。難行苦行をすればするほど得意な気持ちになって

逆に仏様の心から遠ざかってしまう人を多く見受けられます。


 それより、何か人の為に尽くしてあげたい、観音様のような慈悲の

心であたたかく人に接して、みんながどうか幸せになりますようにと

祈り願う心を持って坐禅をすることが大切であります。


 そうすると私達のこの祈り願う心が、仏様の祈り願う心に通ずる、

1つのものになってくる。私達の心と仏様の心が、夢窓国師は「冥合」

(めいごう)すると表現されましたが、知らず知らずのうちに1つに

なってくるのであります。

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<提唱風景>



 



 

価値判断について

7月29日(日)


 管長様がDVD「精一杯生きよう」の中で提唱された一部を

まとめてみました。


 「まあ宗教というと、何やら特別の教祖がいて特別の教義が

あってという狭い見方より、どれだけ価値観が多様になりどれだけ

いろんな情報があろうと、いのちの尊い事だけは揺るぎはしないですね。


 いのちのおおもとというのは我々皆、仏さまのいのち。まあ、仏さま

という言葉が嫌であれば、大いなるいのちから皆こう生きていく。

このいのちが尊い事なんていうのは、時代が変わっても変わることは

ないと思いますね。


 ですから、いのちを傷つけるようなものはこれは避けなければ

ならない、いのちを活かしていくようなものがあれば積極的に

やればいい。私はいつも価値判断というのはそう思っていますね。


 そういう風にものを見ていけばおのずと原発の事もなんでもね、

価値判断ていうのはぶれることはないと思っていますね。


 それから、もう一つはこれもどんな時代にも変わらないのは

母親に対する思いね。私はいつもお釈迦様の教えの根本はお母さんの

姿があると思っているんですね。


 涅槃図というお釈迦様が亡くなられる時の絵があるんですが、

それには必ずお釈迦様のお母さんの絵を描くんです。お釈迦様の

お母様が天から降りてくるのね。で、その姿をお釈迦様は最後

亡くなるときに合掌するんですね。


 それはお母さんが生んでくれたいのちだと。それを私は精一杯

生きましたと。お母さんこれでいいのでしょうかという気持ちじゃ

ないかと思うんですね。


 こういう価値観というかものの見方というのはどんな時代にも

共通だと思いますね。」

(後記)

 横田南嶺老師(管長様)へのインタビューや日常の修行生活

などの貴重な映像がご覧になれるDVD「精一杯生きよう」は

禅文化研究所(TEL075-811-5189)から販売

されています。円覚寺の売店でもお求めになれるように

なりました。





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