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いのちを感じる

11月18日(月) その2 


 横田南嶺管長が先日、居士林で提唱されたことをまとめてみました。

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 紅葉で 神が染めたる 天地かな

 この俳句は、9才の小学生が作ったものです。「ランドセル俳人の五七五」

という本に掲載されています。また、セミの抜け殻を拾ってきて歌ったものに

 抜け殻や 声なきセミの 贈り物

という句もありました。


 古人は「生きているものを確かにつかみより」と言っていますが、

この小学生は、確かに生きているいのちを感じ取っています。そういう

ところに生きた仏法というものがあるのだと思います。


仏法は、何も別段難しい言葉でなければ表現できないものではありません

この小学生のように生きているいのちの確かなあたたかさをいたるところで

感じ取ることができる、それこそ仏様であります。


 生きているいのちの尊さ、それを感じることできる心の働きが

神や仏なのです。真理というものは決して難しい言葉や専門用語を

使わなければ表現できないものでないのです。

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無分別・無差別のこころ

10月10日(木)


 横田南嶺管長が先日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 地獄、餓鬼、畜生というのは決して死んでからどこかに生まれ変わるという

ものではありません。毎日毎日の私たちのこの一念のこころが様々に変化する

様子を言います。


 私たちは、せっかく無分別・無差別にものを見るという仏様のこころを持って

生まれながら、現実には、様々な妄想妄念にとらわれ、考え込み、また、

色分けをしてものをみてしまっています。そして自分で地獄の世界を作り出して

その中で苦しみ続けているのです。


 <横田管長が扇子で「パチン!」と講本台をたたく>


 この「パチン!」という音、皆さんは、なんのとらわれもなく、しばりもなく

聞こえたはずです。誰もこの音を聞くことを妨げることはできない。「パチン!」

という音を無分別・無差別に聞く、それが一念の清浄な光なのです。


 とは言いましても、普段はいろいろなことを考えなければ、この世は

生きてはいけません。分別をしなければ、生きてはいけないように

なっています。


 しかし、分別に振り回されて、分別の世界しか本物でないと思いこんで

しまっては、苦しみが尽きることがありません。


 そういう状況の中で私たちのこころの本体は無分別で何のけがれもなく

清浄のこころを持ち、何ら差別することなくものを見、ものを聞いている

という世界、一念、無心の働きを取り戻そう、体験しようというのが坐禅

であります。

{平成25年9月28日 土曜坐禅会 臨済録提唱 より}


 






 

総力をあげて

7月29日(月)


 横田南嶺管長が先日、提唱されたことをまとめてみました。


 長い人生、時には「死にたい」と思うほど、辛く苦しい時期も

あると思います。そんな時に「あなたのどの辺が死のうと思っているのか?」

省みてください。


 あなたの足は死のうとしていますか?ちゃんと大地を踏みしめています。

あなたの足は死のうとはしていない。あなたの手は立派にあって、

お茶碗を持ったり、戸を開けたりしている。手も死のうとはしていない。


 あなたの内臓も食べたものを一生懸命消化しようとしている。内臓は

死のうとしていない。目は「死のう」と思ったら、見えなくなりますか?

そんなことはない、ちゃんと見えるはずです。


 私たちの体の細胞というのは60兆あるといわれています。そのうちの

果たしてどこが死のうとしているのでしょうか?体のほとんどすべては

みな生きようとしている、それが真実です。


 人間が生まれて来る様子を見てみてもみんな「おぎゃー!おぎゃー!」と

生きようと思って生まれてくる。死のうと思って生まれて来る人は一人もいない。

現に体の細胞は各々生きようとして活動をしている、それが真理です。


 一時的な自分の考えや思いこみでそれらすべてを否定してしまうのは

やはり正しいこととはいえません。


 人間がものを考え思うのは素晴らしいはたらきですが、それが過剰に

マイナスにはたらきすぎるのはよくありません。汗を流して体温を調節したり

おなかがへったりと全細胞がせっかくこのいのちを生かしていこうとはたらいて

いるのです。


 うそをつかないのが体です。体全身は何とか生きようと思ってあらゆる総力を

あげてこのいのちを支えています。寝ている間も止むことはありません。

「もう死んでしまおう」と思っても体の中では内臓などがいのちを生かそうと思って

一時も絶えることなくはたらいている。


 そのはたらきこそいのち、仏様そのものなのです。


そんな素晴らしいいのちを今こうして生きているのです。

(平成25年7月27日 臨済録提唱より)

今でしょ!

7月28日(日)


 横田南嶺管長が昨日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの坐禅の修行は、こうして暑い中、辛抱して坐って、何やらどこからか

「お悟り」がわいてくるというものでは、決してありません。いくら坐っても

わいてくるのは汗くらいです。(笑)


 どこかに「お悟り」という何か素晴らしいものがあり、坐禅をすればそれが表れる、

得られるということではありません。そうではなく、今、こうして汗を流しながら

坐っていること自体が素晴らしいのです。


 坐禅をした先に、向こうに何か素晴らしいものがあると思うのが迷い、

今、こうしてここで坐っていることがなんと幸せなことであるかと気づく

のが悟りです。


 今、こうしてここで坐っている、そのことが尊い。今こうして汗を流しながら

熱い暑いと思いながら、坐っているこの時が一番尊いのです。そう気づいた人を

一生無事の人というのです。


 今こうしてここに生きているということ、それ自体がどんなに素晴らしいことであるか

それを実感することが何より大切です。

(後記)

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 先日、円覚寺で撮影されたBS朝日「いのちを語る」の放送日は、

前編が8月13日(火)、後編が8月20日(火)で時間は19:24~19:54

の予定です。

 横田南嶺管長と為末大さんの対談などの内容となっています。

 皆様、ぜひ、ご覧下さいますように。

 


 

今生きていることへの感謝を学ぶ

6月16日(日)

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<アジサイと山門>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 仏道修行というのは何もお寺に行って長く修行をしないと手に入らないものでも

滝に打たれたり断食をしなければならないというものでもありません。

臨済禅師は、「正しいものの見方をする」が一番重要である仰せになっています。


 何も特別なことしなくても日常の中で今こうして生きていること、こうして

毎日食事ができることに喜びと感謝をする、こういうものを本当に感じることが

禅・仏教の教えに相成りません。
 

 朝、目が覚める度に生きていることに大きな喜びを感じて感謝をする。

坐禅をしていてもただ、姿形ばかりしているのではなく、その一呼吸一呼吸に

息をすることのできることに感謝をする。それが本質でないかと思います。


 今現在こうして生きていること、いのちがあるということ、こうして話を

聞くことができるということ、呼吸をしているということ、心臓が一時も

休まずにはたらいているという、この大きないのちの力に感謝をする一日を送る、

それが一番の修行であります。

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<雨上がり、葉に水泡が>

(後記)

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 管長様が右に置いてある大筆を使って揮毫された大書です。

円覚寺派・末寺の山号が書かれています。

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「忍を懐いて慈を行ず」

 


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