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生きる道のよすが

12月14日(金) 臘八大攝心 提唱最終日 その2


 「明るく生きる心の教え」が本来の仏教であるはずが、

現代においてその教えが本当に活きているか?であります。


 先日、ある雑誌にオウム真理教事件に関わった

ある弁護士さんの記事が載っていました。なぜ、

若者達があんなにもオウムに入ってしまったのか?


 その要因の一つは、日本の伝統仏教に魅力がないということ。

そして、日本のお寺は単なる「風景」「景色」でしかないということ

でした。


 若者が仏教を生きる道のよすがとして求めてきたときに

はたして、それに対応できる伝統仏教の僧侶がどれほど

いるのか?


 このままでは伝統仏教は衰退の一途であり、「風景」「景色」

のままでは存続できないし、その必要もないと書かれて

いました。


 外からはこう厳しく見られているのであります。私達、

伝統仏教の坊さんもまだまだ努力が必要であります。


 皆さん方には、それでもそんな現代社会の中で、

頼りとされるお坊さんになってもらいたい、

私の願いはこの一つです。

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(後記)

 臘八大攝心もいよいよ大詰めとなりました。

明朝は午前6時過ぎから仏殿に於きまして成道会と

なります。







 


 


 

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仏のいのち 今ここに

12月14日(金) 臘八大攝心 提唱最終日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 何も思わぬは仏の稽古なり。何も思わなくなった所から

わいて出てくるものが仏心であり、真の慈悲であります。


 至道無難禅師いわく

ひたすらに 身は死に果てて 生き残る

  ものを仏と 名をつけにけり


 本当に疲労困憊するまでやる、もうだめだというどん底まで

やる。もう死んでしまうかもしれないという極限までやった

ところで、なお、生き残るものがある。


 その確かに生き残ったもの、息をしている不可思議なもの、

これこそ仏心、如来無量のいのちです。


 お釈迦様は明けの明星を見て悟ったいう。今朝は、双子座

流星群が見えました。星空を見ながら、天地宇宙、悠久のいのち

から見れば、私達の一生涯はまさしく流星のごとしです。


 お釈迦様がお悟りを開かれてから2500年が経ちましたが

この2500年という時ですら、天地悠久のいのちの流れから

見れば一時にすぎません。


 この限りない仏のいのちが今ここにこうして息づいている

ということに喜びと感動を持って明朝の成道会に臨んで

もらいたい。


 こんな歌を作ってみました。


  限りなき 仏のいのち 今ここに

   生きておるなり この一息に

仏のいのち、天地悠久のいのちが今ここに確かにこうして

生きていることに心の底から感動、感謝することが

できますように願います。

 

 

今や心よ我に従え!

12月13日(木) 臘八大攝心 6日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 自分の心というものを深く掘り下げていくのが私達の坐禅の

修行です。只、己を心を深く深く掘り下げていく。


 お釈迦様はこのことを蟻塚を掘るたとえで説いています。

蟻塚を掘る途中には、かんぬき、水の泡、箱、さすまたなど

いろんなものが出てくる。それらを全部捨てることが肝心です。


 私達の心も、迷い、貪り、怒り、ねたみ、ためらい、不安・・・

など様々なものがわいてくる。心を見ていくとぞっとする一面

恐れおののく一面も出てきます。


 大切なことは、それらを全部振り捨てて、さらに深く深く

掘り下げていくことです。そうすれば、最後に龍を見ると

お釈迦様はお説きになっています。


 龍とは、煩悩、妄想の尽き果てる仏心であります。この龍を

見たら、もうそのままにしておけと。


 心の底を、意識のおおもとを深く深く掘り下げていく修行の

様子です。まさしく、活きた生きものであります。


 いにしえは 心のままに 従いぬ

   今や心よ 我に従え

 
 今までは、煩悩、妄想、迷い、分別、怒りなど様々なものに

自分の心が振り回されてしまっていた。けれども、「今やもう

振り回されることはない!」「オレの言うことを聞け!」という

気力、迫力を持っていただいきたい。


 ある居士の方は「心の底を深く深く掘り下げていくと

汲めども汲めども尽きぬ水が湧いてきた」とう体験を

されました。そういうところを感得してもらいたい。


 自己の心の内側よりふつふつとわいて出てくる確かなもの

をつかんでください。


 参禅は煩悩、妄想、昏沈、睡魔、是非憎愛などとの戦いです。

それらに打ち克って、この臘八を乗り切っていただきたい。

快活は痛所より得る

12月12日(水) 臘八大攝心 5日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 四大五蘊(しだいごうん)という見たり聞いたり覚えたり考えたり

したことのかたまりを私達は自分だと思っている。お釈迦様がお悟りを

開いたとき、「この苦しみの作り主は自分であった、この苦しみの家は

自己であった」と気付かれて、「今やこの幻の家は朽ち果てた、

崩れ落ちた」という体験をされました。


 自分で作り出した自己という狭い家に閉じこもって自分で

自分を苦しめている。これが私達に悩みに様子です。

その家を崩すんです。呼吸に集中して、火のようになり

自己という家を焼き尽くす、破り尽くす。


 自己という家が無くなれば、今までは狭いきたない天井ばかりを

見ていたものが、これからは満天の星空であります。


 つらい、苦しいからといって途中でやめてはいけない。

途中で自己という家を崩すのをやめてしまっては、がれきの

山でしかない。更地になるまで全部片付けるんです。


 そうすれば、満天の星空が我が天井、我が家です。

これがまさしく法身であります。


 この快活、快さ、感動は痛所より得るであります。

このつらい中、痛い中、苦しい中で初めて得ることが

できるのです。


 臘八も中日を過ぎて、そろそろ、疲労困憊も極に達して

きていると思います。この痛い、つらい、苦しいから

逃げようとするといつまでたっても追いかけてきて

とらわれる。それにそれらは、なくなりはしません。


 むしろ、それらに没入していくことであります。

「快活は痛所より得る」であります。どうぞ逃げ出さずに

何もかもなくなるまで坐りぬいてくださいますように。

(後記)

 管長様の提唱中、雲水を叱咤激励する声は、

日を追うごとに、気迫のこもった、聞く者の胸に

迫り来るものとなってきています。





体感せよ。

12月11日(火) 臘八大攝心 中日


 管長様が僧堂攝心で提唱で提唱されたことをまとめてみました。


 大事因縁、一番大切なものは何であるか?それはお釈迦様のお悟り

である「我なし」であります。仏法の真理とは、我なしの尊さ、

己なしの尊さに目覚めることであります。


 「色即是空」「この体は空である」「この世界は天地一枚、空である」

そんなことは本を読めば誰でも知っている。しかし、本当にこれを体感

したものが幾たびかあるかです。自分でどれだけこのことを体全体で感じ

「ああなるほど!」と受け止めるかです。


 自分でこのことを体験しなければ、本当の安心には到らない。

自分で体験しなければ、自分のものにはならないのであります。

そして、そうでなければ仏祖の法を伝えることも出来ません。


 大事因縁はこの「我なし」ということにどれだけ自分の身体で実感

するかです。「ああ、なるほどその通りであった!

我というものは一かけらもなかった!天地一枚の無字であった!」と

自分の身体全体で感じて喜びふるえるような体験をしていただきたい。







一生懸命やればこそ

12月10日(月) 臘八大攝心 3日目


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 「鈍刀を磨く」という言葉がございます。切れなくて鈍い、

いくら磨いても役に立たない刃を磨くことです。しかし、それが

無駄なことであるかというと決して無駄ではない。


 せっせと磨いても刃は光らないかもしれないが、磨く本人が

変わってくる、光ってくる。私達の修行もただひたすら一生懸命、

呼吸に集中していれば、やっている本人が変わってくる・光って

きます。


 逆に、こんなことやっても仕方がないと思ってやっていても、

いつまでたっても力になりませんし、磨かれてもきません。

根を詰めて一生懸命やればこそ本人が変わるのであります。


 こういう話をして思い出すのは、ある老師のお話であります。

今では立派な老師であるその方も、その昔、お寺の子と

して生まれ、お寺を継ぐために僧堂に行ったときは、いやでいやで仕方なく、

一刻も早く僧堂を逃げ出したかったそうです。


 しかし、逃げ出したらお師匠さんなど周りの人に迷惑がかかるということで、

「どうしたら、僧堂を逃げられるか?」を本気で考えました。


 そうして思いついたのが「修行をしている途中、全力でやって

くたばり、ぶっ倒れて、救急車で運ばれたなら、堂々とこの僧堂

から家に帰れる」ということでした。


 それからは、作務でも夜坐でも人一倍やった。やったんだけれど、

いつまでたってもくたばらない・ぶっ倒れない。それどころか、

一生懸命やっているうちにだんだんとおもしろくなってきた。


 これでぶっ倒れてやろうと、人一倍汗を流し、人一倍はたらき、

人一倍坐れば坐るほど、くたばるどころか楽しみがでてきて、

「逃げ出してやる」という気持ちから「よし!やってやろう!」

という気持ちに変わったそうです。


 臘八もやらされる一週間、眠らせてもらえず坐らされる一週間

と思う受け身であるならば、苦痛で仕方がありません。

「よし!やってやろう!」「なに、これくそ!」「死んでもともと

くたばってやれ!」くらいのつもりでのぞめば、何ほどのことも

ありません。


 どうか気力を振り絞って精進くださいますように。




 







刻苦光明

12月8日(土) 臘八大攝心 初日


 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 臘八初日にあたって、やはり思い出すのは、

森信三先生の人間の真価をはかる2つの目安についてであります。

それは、


 第一は、その人の全知全能・自分のあらゆる気力能力を一瞬かつ

一点にどれほど集中することができるのか。


 第二は、睡眠を切り詰めても精神の力によってどこまでそれを

乗り切ることができるか。


 というものです。これは、私達の臘八の修行もまさしくその通り

なのであります。今のこの一瞬、この一呼吸にどれだけ集中できるか

です。


 その為に腰骨を立てて、始終お腹に力を入れる。そうすれば、

尽きることのない気力・力を得ることができます。


 森先生は、子どもの教育に何が一番大切なことかと問われて

それは常に腰骨を立てている人間になることであると仰せに

なっています。


 自分で腰を立てて、始終、お腹に力を入れて、息をなるべく長く

はくようにであります。


 また、臘八では「古人刻苦光明必ずや盛大なり」という言葉が

掲げられますが、あの白隠禅師ほどの人ですら、1日3回この言葉

を唱えて修行をなさいました。


 刻苦光明です。自分でつらい、苦しい思いをした分だけ、光明・

光となっていきます。


 そのことを胸に刻んで、最後まで気力を振り絞ってやって

いただきますように。

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