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戒をより所として生きる

1月27日(月)


 横田南嶺管長が先日の僧堂攝心で「戒」について提唱されたことを

まとめてみました。


 今でも通夜・お葬式になると私たち、坊さんは「懺悔文」「三帰戒」を読みます。

それは、まさしく受戒をしていることに他ならないのです。戒を授けて戒名を与える。


 授戒会と何ですか?と質問をされますが、私たちお坊さんがお葬式のごとに

やっているのが受戒です。本当であれば、きちっと生きている間に戒を受ける

べきところを、残念ながら生前にその機会がなかったために止むを得なく

亡くなった後に戒を授けて仏弟子としてお見送りするというのが、私たちが

やっている葬式の形です。


 これから十重禁戒というものを説明していきますが、それらの戒は

決して無理難題を課している訳ではありません。あくまで、こういう

心がけで暮らしていきましょうということを説いています。心に良き

習慣を身につけて生きていくことは大変素晴らしいことなのです。


 只、残念なのは戒律を説くということを坊さんがしなくなってしまった

ことです。本来は堂々と「戒律が私たちが生きていく上でのより所である。

仏法を伝えることは戒を伝えること、仏法を説くことは戒を説くことである。」

と世間の人々にお話をすべきなのです。


 ですから、お通夜・お葬式の時、亡くなった方に戒を授けていますが、

「本来は生前、この戒を受けてこの戒をより所として暮らしていただきたかった

ところですが、そのご縁がなかったので、今こうして授けます」ということを

説明し戒の教えを説いてあげることが必要ではないかと思うのです。


 ところが現況は、「受戒・戒名をいただくのはとても先のこと。」であるとか

「そろそろお迎えが近くなりましたから戒名をお願いしたい」などまるであの世の

切符のように受け止められてしまっています。


 生きている人が戒を受けて、そしてその戒をより所として生活をしていく

というのが本来の姿なのです。

そのより所となる十重禁戒というのは

①快意殺生戒(けいせっしょうかい)・・・私たちは生きていく上では、

本当は殺すべきではないがやむを得ず、生き物を殺さざるを得ないこともあります。

そういうときに決して喜んでやってはいけない。

②劫盗人物戒(こうとうじんぶつかい)・・・人のものはとらない。

③無慈行欲戒(むじぎょうよくかい)・・・男女の関係など欲を行じる時は必ず

相手を思いやる慈悲の心がなくてはならない。慈悲の心なく、快楽やいやがるのを

無理矢理してはならない。

④故心妄語戒(こしんもうごかい)・・・ことさらにわざと相手をだましてはいけない。

やむを得ず、仕方がない時もあることを認めています。

⑤沽酒生罪戒(こしゅしょうざいかい)・・・やむを得ず、飲まなくてはならないときは

仕方がない。

⑥談他過失戒(だんたかしつかい)・・・他人の過失をことさらに説いてはいけない。

⑦自讃毀他戒(じさんきたかい)・・・自分をほめて他人をけなしてはいけない。

⑧慳生毀辱戒(けんしょうきにくかい)・・・人の為にものや教えを施すことを惜しんでは

いけない。

⑨瞋不受謝戒(しんふじゅしゃかい)・・・人間生きていく上で腹を立てることも

ありますが、相手が悔い改めて謝罪をしようとしているにもかかわらず、それでも

なお怒りをむけるのはいけない。

⑩毀謗三宝戒(きぼうさんぼうかい)・・・仏様、仏様の教え、その教えをともに学ぶ仲間を

けなしてはいけない。

 このように十重禁戒を学ぶと決して無理難題を押しつけているのではないことが

わかります。まさしく、こういった心がけを持って心に良い習慣が身について、お互い

安らかにいきていくことができる指針を示しています。

(平成26年1月23日 正受老人崇行録提唱より)

(後記)

 黄梅院では数年前に、居士林に縁のあった若いフランス人の方が

これからは仏教徒として生きていきていく証が欲しいとのことで

受戒を希望し、横田南嶺老師から戒を授けられ戒名を受けました。

 また、円覚寺では、平成31年の遠諱事業の中で授戒会を予定しています。







 



 



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根本は

1月24日(金) 制末大攝心 5日目

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 横田南嶺管長が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 姿、形、威儀、作法を大事にすることはもちろん大切なことでありますが、

形だけを守るのではいけません。もっと根本の大事なことは何でありましょうか?


 それは見性成仏です。各々の本心・本性を見るということに他なりません。

今、こうして見たり聞いたりしている意識・分別のおおもとは何であるか?

このいのちのおおもとは何であるか?


 このことをずっと尋ねていくと誰しも「本心・本性はみな仏心であり、観音様の心で

あった!大慈悲心であった!なんと自分は素晴らしい心を持って生まれてきたんだ!」と

気づくはずです。


 こう気がついたならば一々、殺すなと嘘をつくなとかといった戒を意識しなくても

自然ともののいのちを粗末にはしなくなり、お互い尊重し合わざるを得なくなります。


 根本はやはり見性成仏、つまり、本心は仏心であったという体験です。このことを

伝えるのが禅であり、戒の根本であります。

三帰戒

1月23日(木) 制末大攝心 中日

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<円覚寺山内・黄梅院 マンサク咲き始めました。>

 横田南嶺管長が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


三帰戒というものがあります。

南無帰依仏 (仏様をよりどころとします)

南無帰依法 (仏様の説かれた教え・真理をよりどころとします)

南無帰依僧 (仏様の教えを学ぶ教団をよりどころとします)


 戒というものは殺そうとしてはいけないとか嘘をついてはいけないといった

禁止、規則のように思っているとこの三帰戒はわかりにくいかもしれません。


 本来、戒というものはインドの言葉で「シーラ」と言いまして、日本語に訳すと

「習慣」「躾(しつけ)」に意味が近い。心に良い習慣をつけ、心に良い躾をつける。

この世の中を生きていく上で心に良い習慣をつけていくというのが戒の本来の意味

なのです。


 私たちは、毎日朝起きたら顔を洗ったり、口をそそいだりといった習慣を行って

います。そういう習慣が身についていればきちっとした生活を送ることができます。

心にも良い習慣を身につけておけば、この人生を豊かに生きること出来るのです。


 戒というのはこのように良い習慣を身につけるというのがもともとの意味であり

ます。むしろ、戒律の律という言葉に「あれをしてはいけない、これをしてはいけない

こういうことをしたら、こういった罰則を与える」といった規則、禁止事項の意味が

含まれています。


 三帰戒というのは、3つのことをよりどころとして生きていきましょう、良い習慣を

身につけていきましょうということなのです。





戒と本心・本性

1月22日(水) 制末大攝心 3日目

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 横田南嶺管長が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 達磨大師は「仏を見たいと思えば、自分の本心・本性を見よ。

自分の本心・本性こそが仏である」と仰せになっています。


 仏教には、不殺生戒、不偸盗戒などたくさんの戒があります。

しかし、仏様そのものはこの戒を守ろうという気持ちもなければ

戒を他人に課そうという思いもありません。


 本心・本性そのものは、戒だなんだと意識をしているわけでは

ありませんが、それでいて戒を破ることは決してない。


 それは、私たちの本心・本性が慈悲の心に他ならないからです。理想を言えば、

この本心・本性さえはっきりしていれば、一々、あれをしてはいけない

これをしてはいけないといったような細かい規則を学ばなくとも、また

常に戒を意識していなくても自然と戒律を保つ、守ることができる

のです。


 自分の本心・本性の尊さに気づけば、そこは生まれたの、死んだのという

ことがない仏心、生き通しのいのちであります。それが本当の不殺生戒で

あります。


 お釈迦様はお亡くなりになるときに、自分の死後は戒をたよりとしなさいと

言われました。戒を守れば安らかに暮らしていくことができると。


 仏法を伝えていくということは何であるか?それは具体的には戒を

伝えていくことです。仏法を修行するということは戒を守って伝えていくこと。

戒とは心の良き習慣、生き方です。


 何事もお互いいくつしみの心をもって相手に接することで戒を具体的に表していく。

そして、合わせて、私たちは今の時代に合った戒を伝えていく努力も怠ってはいけません。




心の持ちようによって

1月20日(月) 制末大攝心 初日

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<円覚寺山内・黄梅院 殿鐘>

 横田南嶺管長が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 人間の持って生まれた心というのはみんな平等です。

聖人と言われている人でも心の持ちようによっては愚かとなり狂ったもの

となります。反対にどんな狂った人でも克(よ)く念(おも)えば聖人と

なります。


 皆、持って生まれた心は同じでです。これを誤って、間違って使ってしまえば

悪人にもなり、犯罪を犯し、狂人になってしまう。克く念えば、立派な人に

なっていく。


 心を持って生まれてきたこと、これほど、尊いものはない。私たちは

お釈迦様や達磨様と寸分違わぬ心を持って皆、生まれて来ているのです。

それなのにその心を様々な欲望や目の前のものによってくらまさせてしまって

いる。


 本来持って生まれたこの素晴らしい心の光明を輝かしていく。これが私たちの

修行です。自分には特別な才能や能力がないと思うことはないのです。

心は誰もが平等ですから、心の持ちようによってやることができると思って

精進していただきたい。

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<黄梅院 縁側>



 

臘八 最後の提唱

12月7日(土) 臘八大攝心 最終日

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 臘八大攝心の提唱も今日で最終日となりました。

横田南嶺管長が臘八を終えるにあたって詩を作られました。

{祈ると必ず雨が降るという名人がいた

どんな秘法なのか

それは簡単だ

雨が降るまで祈り続けるという

 ダライラマの祈りの言葉に

「世界が苦しみに耐え  

生類が苦しみ続けているかぎり

この世の苦痛を取り除くために

願わくはわたしもまたそれまで

共にとどまらんことを」とある

 多くのご供養をいただいて

暮らす私たちには

とてもその供養を

受けるに足りるような

修行ができるものでは無いが

せめて、

世の人々の悩み苦しみが除かれて

みな幸せになるよう

祈りつづけ

世の人々の苦しみが

無くならない限り

この修行をやめないという

願いだけはもちたい

 刻苦光明盛大なり

身を削って修行をした分だけ

ささやかな光となって

まわりを照らすことができると

そのことをただ信じて

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臘八6日目

12月6日(金) 臘八大攝心 6日目

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<円覚寺山内・龍隠庵から山門を望む>


 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。

(攝心も終盤になり、疲れの見える雲水さんらに地鳴りのするような

気迫こもった声で叱咤激励されました。)


 参禅の修行というのは、畢竟、闘いである。自分の雑念・妄想と闘い

昏沈、睡魔と鬪かう。良いだ悪いだ、憎い愛しいだという是非憎愛など

様々な思い感情と闘い、最後は一切の自分の迷いと闘って勝ちを得る。


 その為には勇ましい、猛々しい、勇猛でなくてはならない。このまま

妄想や眠気や自分の弱さに負けてしまい無様に攝心を終えてしまうか、

それとも、勇猛果敢にこれに打ち克っていくか?


 もう一度腰骨をしっかりと立てて、ここまできたら、両目は半眼では

寝てしまうから、目の玉をひんむくように大きく開けて、奥歯をかみしめて

坐れ。


 仏道の修行は、一人が万人と鬪かうがごときである。万人と鬪かう気迫で

立ち向かっていけ。


 弓も折れ 矢も尽き果てたところに 

     さしも許さず 強く射てみよ


 弓も折れ矢も尽き果てようとそれでも全身でもって弓をひけ。

最後まで気力を振り絞ってやってもらいたい。


 

臘八5日目

12月5日(木) 臘八大攝心 5日目


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<円覚寺山内・居士林 山門>


 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。

 坂村真民さんに「鈍刀を磨く」という次のような詩があります。


{鈍刀(どんとう)をいくら磨いても
  
無駄なことだというが
  
何もそんなことばに
  
耳を貸す必要はない
  
せっせと磨くのだ
  
刀は光らないかも知れないが
  
磨く本人は変わってくる
  
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
  
磨く本人を
  
光るものにしてくれるのだ
  
そこが甚深微妙(じんじんみみょう)の世界だ
  
だからせっせと磨くのだ}


いい加減に磨いている人は、いくらやったって何にもなりません。

坐禅の修行で一番慎むべきこと、おそるべきことは、何と言っても

惰性で修行をすることです。


 惰性でやっていたのでは、いくらやっても何にもなりません。

必死になって修行に打ち込むのです。全身から玉の汗が出るくらい

一生懸命にやる。


 そうすれば、刀は錆びついてどうしようないかもしれないが磨いている

本人が光ってくる。一生懸命に修行に打ち込んでいる本人が光ってくるのです。

臘八中日

12月4日(水) 臘八大攝心 中日


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<円覚寺山内・居士林 山門>

 
 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 惰性で坐禅をしていたのではだめです。力を込めて一呼吸一呼吸

おへその下、おなかの下を張り詰めていく。


 昔から仁王様の気迫を持って坐れと言います。そうすれば、体がそびえ立ってくる

気持ちになる。全身が燃えてくる感じ出てきて頭から湯気が出てくるののでは

ないかと思う位の気持ちになる。


 坐禅をしていて縮こまるようでは駄目です。大きく坐らなくてはいけない。

そしておなかに力を込めてやっているとお経の声も通るようになってくる。


 下腹部を風船をふくらましたかのように張り詰めていく。しぼんでいるようで

まだまだです。そうして、どんどんと張り詰めていくと最後はパンと破裂する

感覚がある。


 それは決して風船がなくなったわけではありません。自我が破裂して天地と

1枚になったところです。


 我という 小さき心を捨ててみよ 

       三千世界に 充ちるいのちぞ


 それは、もう自分と他人との隔てのない、生き通しのいのちです。

「生きているものを確かにつかみより」と古人が言った世界です。

この生き通しのいのちを体験する修行であります。


 

臘八3日目

12月3日(火) 臘八大攝心 3日目


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<円覚寺山内・黄梅院>

 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 公案(禅の問題)というのは、断命根(だんみょうこん)という、

考えを断ち切る為の刀のようなものです。それを公案を解こうとして

あれこれと考えてしまっては、考えれば考えるほど答えからは

遠ざかってしまう。


 公案は、意識・妄念を全部斬る捨てて片付けていく一振り刀なのです。

あらゆる公案がそうなのです。


 何年坐っても坐禅布団の上で足を組み腰を立てて、鼻から天地一杯の空気を

吸い込んで、無字の一呼吸でもって意識分別を断ち切る修行です。何年修行を

やろうとこの繰り返しであります。

臘八2日目

12月2日(月) 臘八大攝心 2日目

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<円覚寺山内・龍隠庵から>

 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 仏祖三経という書物の中に次のような言葉があります。

「仏道を修業するということは、木が川の流れの中で流れていくようなもの。

両方の岸で途中ひっかかったり、人の為に取り除かれたりせずに

ただ、その流れに随っていけば、その木ぎれは必ず大海にたどり着くことが

できる。」


 この言葉を見て若き時の白隠禅師は大いに力をえて、「自分のようなものでも

はたして修業を成し遂げることができるのか」という疑いを払拭することが

できたと言います。


 こうしてみんなでいっしょにやっていれば必ず大きな悟りに到ることができるのです。

流れに随ってやっていけば必ずできるのだと自ら自信を持ってやっていただきたいと

思います。

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<居士林 中庭>



只今のことに成り切る

11月24日(日) 月並大攝心 5日目


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<円覚寺山内・選仏場前>

 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの修行というのは一度、考えることや知識を全部捨てる修行です。

「命根を断つ」とか「「死にきる」とか「成り切る」というのはそこです。

思いや考えることをいったん、停止して、捨てるのですが、決して何も考えない

思わない人間になるのが目標ではありません。


 むしろそうすることで本当の意味で考えること、知識を活かしていくことの

できる力を身につける為の修行です。


お経を読む時に言葉を解釈して意味を考えながら読むのも一つの方法ですが

理屈、意味など考えずに体全身で頭をからっぽにしてお経を読む、成り切って

読む方が躍動心があり生きたものであります。丸ごとのいのちがそこにあります。


 生きている このいのちこそ 仏なり 

       見るも聞くにも 思いのままに

 このような歌を作ってみました。


 仏はどこに?とか意味は何か?と考えてしまうとかえって仏を見失い

遠ざかってしまう。


 考えず 何も思わず ひたすらに

   唱える声ぞ み仏の声


 思い煩うことを捨てて只今のことに成り切る修行です。単純明快ですが

これほど難しいこともありません。しかし、やればやるほど活き活きとし

力がみなぎってくるものであります。

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<円覚寺山内・選仏場前>

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<妙香池>

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 僧堂山門前。

法話を聞く心得

11月22日(金) 月並大攝心 3日目

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今日の居士林前の紅葉です。


 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 昔から仏法を聴聞する上で、お説教、法話を聞くようなときに次の3つの心得

があります。


 一つめは、「この度のご縁は今生初めてのご縁と思うべし」です。たとえ

何遍とお説教や法話を聞いているとしても、こうして今、ここでお話を聞くことは

まるで生まれて初めて聞かせていただけると思いなさいと言うことです。


 二つめは「この度のご縁は私一人の為と思うべし」です。何だか大勢がいる中の

一人というのではなく、私一人の為にこうして法話をしてくださっていると思いなさい

ということです。この私一人の為にこうして大攝心があるという気構えでいなかくては

ならない。


 最後が「この度のご縁は今生最後のご縁と思うべし」です。こうしてお話が聞くことが

できることが、または、こうして修行ができるということは、人生で最後であるという気持ちで

臨みなさいということです。これが終わっても次があるとう心持ちではいつまでたっても

埒があきません。

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背景にうっすらと山稜の影が見えます。


お日様の光を吸い込んで

11月21日(木) 月並大攝心 2日目

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<円覚寺山内・妙香池前> 16時頃、夕日に照らされて光り輝いていました。

 横田南嶺管長が提唱されたことをまとめてみました。


 法話の前には、皆さんに 合掌をして目を閉じてもらって「生まれたことの不思議

今まで生きてきたことの不思議、いろんな人にお世話になって今日まで生きてきたこと」

を思って感謝の心を起こしてもらっています。


 ざわついていた気持ちのままの人々にべらべらとお話をしたところで

伝わらないものですから、まず、こうしてもらって感謝の心になってもらい

ます。


 そしたら、外の光が入るくらいうっすらと目を開けて、お日様の光を

感じてもらいます。お日様の光をいただいて私たちは今こうして生きている。

お日様の光が自分の頭から全身をおおって包んでくれているのを感じます。


 次に息をしている鼻に意識を集中します。空気が自分の身体の中に入っては

出て行く様子をしっかりと観察をします。


 そして最後に空気を吸うのと同時にお日様の光、あたたかさをいっしょに

吸い込む。それをおへその下、おなかの下におさめる。気をして丹田に充た

しめるのです。


 空気を吸うのと同時にこの天地に充ちているお日様の光、あたたかさのような

大いなる力をいっしょに吸い込んでグッとおへその下に充たしめる。


 そういう気持ちで呼吸をしていると段々とおへその下が充実してあたたかく

なってくるものです。


寝ても覚めても

11月20日(水) 月並大攝心 初日


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円覚寺山内・如意庵さん前の紅葉。


 今日、横田南嶺管長が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 
 白隠禅師は正受老人のもとで修行をしているとき、「自分は起きている時は

きちんと意識を保つことができるが寝てしまうと修行もどこかに行ってしまいます。

寝ても覚めても一つという境地にはとてもなりません。どうしたらいいのですか?」

という疑問にとらわれ、師匠である正受老人に尋ねました。


 正受老人は、質問がまだ終わらないうちに白隠さんを押し倒して「何をたわけた

ことを言うか!昔も今も寝ても覚めても常に同じで無かった人は一人のいないぞ!

そんなことでお前さんどうするか!」と叱咤されました。そこで白隠さんも

はっと気づくことがあったのでした。


 相撲の甚句に

櫓太鼓に ふと目を覚まし 明日は どの手で投げてやろ

とあります。相撲取りは寝ている時でも明日の取り組みはどういう手で

やろうかと考えている。ふと目を覚ましても考えている。寝ても覚めても

1枚でなければいけない。


 私たちもそうです。たとえ寝ている夢の中でも参禅をしている夢をみるように

なるまでいかなくてはいけないし、さらに夢の中で公案(禅の問題)の見解(答え)

が出てくればたいしたものです。


 修行は、そういう風に寝ても覚めても1つになってやっていくことが肝心です。









坐禅=大慈悲

10月24日(木) 入制大攝心 5日目


 横田南嶺管長が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 江戸時代後期の禪僧で白隠禅師の師匠でもある道教慧端禅師(通称 正受老人)は

山にこもること45年という専ら坐禅三昧の日々を送られました。それを(街に出て

人々のために教えを広めるのではなく)自分の為だけに修行をしていると言う人も

ありますが、正受老人は決してそうではありませんでした。


 ある時、正受老人が住んでいる村にオオカミの大群が毎日のように現れ、村人を

苦しめました。そのような時に正受老人は、オオカミが出没する場所に1週間、坐禅を

し続けたと言われます。そうすると自然とオオカミは村に現れなくなりました。


 正受老人はその行為を「正念工夫を試みる為に行った(オオカミの中でも修行で培った平常心を

保つことを試す為)」と言われたそうです。しかし、正受老人の本当の思いは、村の人々がオオカミに

襲われて困っている状況を何とか救いたいと思いそのように行動したのだと思います。


 『坐禅儀』に「坐禅をするには、まず、大慈悲心を起こして人々の苦しみを救おうという

心を起こしなさい」とあります。また、『論語』には「身を殺して仁を成す」という

言葉があります。



 正受老人が実践したオオカミの群れの中での坐禅というのは、まさに自分がオオカミに

かみ殺されても、村の人々の為に何とかしたいという大慈悲心の発露であると思われます。


 坐禅というのと大慈悲というのは別もののように思われがちですが、この正受老人の坐禅と

なるとまさに大慈悲の坐禅といくべきものでしょう。


 オオカミの群れの中で坐禅をするほど厳しいものはありません。ほんの一念でも「やだな」

と「恐ろしいな」という念が湧いてきたら命はありません。我が身を守る、我が身をかわいがる

思いをすべて捨て去り断ち切って、村の人々のことを思いやって坐禅を実践されたのが

正受老人だと思うのです。


 坐禅をするということと大慈悲を行うことは決して別ではありません、一つなのです。

自分の中のわがままな思いを捨て去って人の為に慈悲の実践をする、これが私たちの

目指すところの坐禅であります。

(後記)

 正受老人がオオカミの群れの中で坐禅をした話は、以前の居士林だよりで紹介しました。

ご覧になってください。

http://http://kojirindayori.blog108.fc2.com/blog-entry-242.html

四智円明(しちえんみょう)

10月23日(水) 入制大攝心・中日


 横田南嶺管長が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。


 坐禅をすれば無念・無心になると言いますが、それは、何も見えなくなる、

何も聞こえなくなる、何も感じなくなることでは決してありません。むしろ

ありありとはっきりと物事が見えてくる、そういう智慧が開けてくるのが

本当です。


 「正受(しょうじゅ)」という言葉がありますが、これは「正しく受ける」

つまり、ありのままに物事受け取るということに他なりません。しかし、

人間というものは、ありのままに見るということはきわめて困難なことです。

大概は自分の都合の良いようにか、自分の分(ぶ)が良いように見てしまって

います。


 ですから、坐禅をして正しい智慧の眼を開くことが大切なのです。

白隠禅師坐禅和讃に「四智円明」という句が出てきます。

この「四智円明」こそ坐禅をして我々が目指すべきところなのです。


 四智とは

一、大円鏡智・・・鏡のようにすべのものをありのままにうつしだす智慧。

二、平等性智・・・普段、私たちは自分の都合でものを差別して見ていますが

         それを離れて物事を平等に見る智慧。

三、妙観察智・・・対象について十分に観察をする智慧。

四、成所作智・・・以上のように状況が把握出来たうえでその場でどうすれば

         いいか、何を為すべきかがわかる智慧。


 私たちは生きているといろいろな物事が起こり、様々なことが降りかかって

きます。坐禅をするということはそういう物事に対して何も感じない何も気づかなく

なるということでは決してありません。



むしろ正しい坐禅をすることによって、心の散乱を防ぎ、ありのままに状況

を受け止め、自分の考えや思いこみを捨てて平等に物事を見ることができるように

なります。


 そして、よく観察することによって、どうしてこういう状況になったのか

こういった次第に相成ってしまったのかがわかり、この場をどのように対処

したらいいのかが自然とわかってきます。


 つまり、坐禅をしていけば、「四智円明」つまり、私たちが本来誰もが持っている

「四智」の働きが十分に発揮されるようになるのです。


 




 


 

講了

7月11日(木) 制末大攝心・最終日


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 雨安居(4月~7月の大攝心のある期間)も、おかげさまで

今日で無事に講了を迎えることができました。8月9月は大攝心のない月となり、

そして雪安居(10月~1月)が始まります。

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講了にあたっての南嶺老師の偈(漢詩)です。

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 皆様、有り難うございました。

自己中を殺せ!

7月10日(水) 制末大攝心・6日目


 南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。


 至道無難禅師に「殺せ殺せ我が身を殺せ 殺し果てて

何もなき時 人の師となれ」という言葉があります。自分中心にものを

考えるその思い・ものの見方こそ、殺し尽くせというものです。


 「いかなるか 苦しきものと 問うならば

              人を隔てる心と 答えよ」

という歌があります。何が苦しいか?苦しみのもとは何か?と訊かれた

ならば「あいつは好きだ、あいつは嫌いだ」と人を隔てるその心こそ

苦しみのもとであると知れという意味の歌です。


 その苦しみを作り出しているのは、相手ではなくて自らの心であると

気づくことができなければ、どこに行こうといつまでも苦しみの生涯を

続けることになります。


 自分中心なものの見方こそ自分を苦しめているのだから、その心こそ殺すべき

なのであります。苦しみの道理はただそれだけです。


 嫌だ、ねむい、だるい、・・・そんな思いをみんな殺し尽くす、私たちの修行は

それに尽きます。


 殺し尽くしたら今度は活かすべきものがあります。活かすべきは、平等のものの見方

慈悲の心に他なりません。


 「無」とは、自分中心のものの見方をすべて否定して、すべてを包み込むように

みんなを平等に見る、大きな慈悲の心・仏心であります。これこそが「無」であります。


 古人の言葉に「法とは己なきの尊さである」とあります。「オレがオレが」という

自分中心のものの見方をすべて捨ててみれば晴れ晴れしたところが広がってきます。

「自分中心のものの見方の為にすべてを誤解していたんだ」と気がつくことが

強いて言えば「悟り」なのではないでしょうか。そう気がつくと私たちの心は

無限の慈悲に満たされる。


「無垢 無邪気 無心 無防備 笑顔とは

            無から生まれるものと思えり」

という歌があります。自分中心のものの見方が尽きて無くなると

「無」なのです。


 ところが自分中心のものの見方にとらわれている人はその中に

閉じこもってなかなか、自分で気づくことができません。そんな

自分を克服する修行であります。

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クモランと言うそうです。浄智寺さんのフェイスブックで紹介されていたので

選仏場前の梅の木まで見に行ってきました。

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確かに名前に通り「スパイダーのようなラン」です。

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枝の裏側に本当に目立たぬように地味に、しかし、しっかりと

お花を咲かせております。

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 このクモラン、着生場所から引き離した場合、絶対といっていいほど

再活着しないそうです。それは、一説には樹皮に棲む菌類と共生関係にあるため

なのだそうです。命のつながりって深いですね。







 









一つの真理を見いだす

7月9日(火) 制末大攝心・5日目


 管長が提唱されたことをまとめてみました。


 洞山禅師に「糞掃堆頭(ふんそうたいとう)に一顆の明珠を拾い得たるが如し」

という言葉があります。ゴミやかすやはきだめの中から一つの真理を見つける

ということです。


 私たちの修行(人生)も良いこと悪いこと、くだらないと思われることなど

様々なことを経験しながら、その中にひとかけらの明珠・宝・喜びを見いだす。

それによってすべては報われる。それが修行(人生)というものではないでしょうか。


 何かをちょっとやっただけで、こんなくだらないことはやってられるかと逃げ出す

のが正しいのか、それとも、一つの真理を見いだすまで何年、何十年とやってみるのが

正しいのか。


 こんなことはくだらんと言ってやめてしまう人は、結局、どこへ行ってもくだらんと

文句を言うものです。大切なのは、そのくだらんと思う中に一つの真理を見つけること

です。そこでやめてしまったらいつまでたっても何にもなりません。


 雑務と思われるようなことでもそういうものを繰り返し繰り返しやっているうちに

ひとかけらの光るものを必ず見いだすことができるはずです。


 曹洞宗のある禅師は「糞掃堆頭に一顆の明珠を拾い得たるが如し」を

「ゴミだめの中から一つの真理を見つけた」というよりも

「ゴミだめと思っていたものが全部真珠であったと気づいた」と

意訳されたそうです。


 今までゴミやはきだめのようにくだらないと思ってやったいたことが

実は全部真珠のように尊いことであったとこう気づくことが肝心です。


 毎日やっていることをゴミやかす(くだらないこと)と思うのかそれを

真珠の山と思うのかは、全部、あなた自身の心の問題です。


 その心を改めて、ゴミだめが全部そのまま真珠の山であったと気づく

修行です。

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<力強く生きる姿の端的です!>



 

慚愧の心

7月8日(月) 制末大攝心・中日

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<黄梅院にもヤマユリが咲き始めました。>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 江戸時代後期の月船和尚というお方は、若い頃、たいへんな修行を

積んでいったんは住職になったにもかかわらず、それをよしとせずに、

もっと禅の本来を求めてその寺を捨ててその地を離れ、今の横浜・永田の地に

小さな庵を結んで修行に打ち込まれました。


 古人先徳は、文字通り、自分のすべてをかけて道を求めて、それを体得し

そしてその教えを人々に伝え広めて、人々に安らぎと喜びを与えていきました。

そうして心の安らぎを得た信者さんによって伽藍などがととのえられ、今こうして

私たちは何不自由なく修行をさせていただいています。


 代々、何千年と祖師方が法を求めて伝えていただいたその余徳によって

私たちはこうして修行をさせていただいているのです。


 月船和尚はそんな風に自己に厳しく禅を純粋に求めるような身でありながら

この世で無駄飯を食べたそのご飯代のつけを支払う為に閻魔大王のところに

いくのだと、なお、慚愧の心を持っていらしたのでした。


 とても私たちはそのような祖師方の修行には及びませんが、「ああ、誠に

申し訳ない」「まだまだ、修行が足りない」という慚愧の心、これだけは

失わずにいたいものです。


 

牛小屋と黄色の葉っぱ

7月7日(日) 制末大攝心・3日目


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 中国の唐の時代に薬山和尚というお方がいました。まだ、禅の草創期の頃で

もちろん立派な伽藍もなにもありません。薬山和尚は農家の牛小屋を借りて

専ら坐禅に励んでいました。


 農家の人達はそんな薬山和尚を気味悪がって出て行かせようとしましたが

出て行かない。そこで牛小屋に火をつけてしまいました。やれやれこれで

出て行くと思いきや、和尚、焼け跡で坐禅をしているではありませんか。


 その話を時の太守が聞きつけて、その心意気に感銘し、和尚の為に山を

買い取り庵を建ててあげたのでした。和尚はその庵に牛小屋という名前を

つけて坐禅を始めました。


 そうこうするうちに、うわさをを聞きつけた人々が集まり大きな修行道場に

なりました。


 こんな逸話があります。薬山和尚はみんなといっしょに食事をしなかった。

それでいて一人元気にしている。かくれて別のおいしものをたべているのでは

ないかと疑った修行僧の頭が和尚の行動を観察してみました。


 すると、和尚が台所の裏で小さな鍋でぐつぐつと何かを煮ている。何だろうと

思いきやみんながいらなくなって捨てた黄色い葉っぱや野菜の切れっ端を集めて

きて煮ていたのでした。


 薬山和尚は言いました「いやあ、私はみんなといっしょに食事をとるほど

修行をしていません。ですから、かれこれ10年ばかりこのようなものを集めて

食べています」


 古人はこのような苦労の中で四弘誓願実践の為に修行をされました。

これに見習って多くの先人たちも坐禅に打ち込まれました。私たちも少しでも

それにあやからなくてはなりません。

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<居士林・カタバミの花>

 今日は午後から居士林で蔦禅会(坐禅会)でした。17名の方々がご参加

くださいました。皆様、有り難うございました。

清濁あわせのむ

7月6日(土) 制末大攝心・2日目

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<正伝庵の蓮>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの心は大海のように限りがなく広く深いものであると

古人は言っています。そして深い深い池のように静まりかえったもので

あります。


 それなのに私たちは普段、嫌なものを見たり嫌な人に会ったりすると

自分の心がかき乱される、けがされると思いこんでいます。はたして

本当にそうなのでしょうか?


 私たちの心は大海のように広く深いものであるから、少々のことで

濁ったり清らかになることはありはしません。清きもけがれも共に

合わせのみこむような広さと深さを持っているのが本来の私たちの

心です。


 清濁やどうしようもないものまで、みんな認めて許し受け入れることの

できる広い心が本来持って生まれた心です。


 ですから「あいつは立派だからいい、あいつはどうしようもないからいっしょに

いたくない」と自分の狭い了見で人を区別し差別し、隔てる心を持つことは

恥ずべきことです。


 そのような人を隔てる心を捨てるのが本当の修行であります。


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終わることのない願い

7月5日(金) 制末大攝心・初日


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<カンゾウ・甘草>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの雑念・妄想・執着というものは断とうとしてもなかなか

断てるものではありません。だからといってそれであきらめてしまったら

それで終わり、取りかえしがつかなくなってしまう。そこで何よりも

大切なのはあきらめずに断とうという願い・誓いを持ち続けることです。


 学ぶこともそうです。私たちは物事を学べば学ぶほどおよびがつかないと

わかります。いくらやっても、およばないからとそこでやめてしまったら

そこまでです。逆に、いくらやってもきりがないからこそ、私たちは

学び続けるんだいう誓い・願いを持たなくてはならない。


 また、「世の中が平和でありますように」「みんなが幸せでありますように」

といくら祈ったところで世界の争いや人々の悩み苦しみは尽きることが

ありません。しかし、やっても仕方がないとやめてしまったらそれまで

です。


 そういうときこそ、「世の中が平和に幸せになりますように」という

尽きることのない誓い・願いを持って生きる覚悟が必要です。


 何事もやったって仕方がない、しょうがないとあきらめてしまったら

それきりです。そこで重要なのはあきらめずにやり続けるんだという

願いと誓いです。


 終わることない願いを持って生きるのが私たち修行者の努めであります。

(後記)

 今日から11日まで円覚寺僧堂では、制末大攝心(集中修行期間)に入りました。





 



 

大用国師の戒め

6月26日(水) 半制大攝心・最終日


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 私たちの修行の眼目は我見、自我を削って無我に徹すること、

これ以外にありません。


 明日から大用国師・誠拙禅師の毎歳忌となりますが、その頂相(ちんそう)に

誠拙禅師が弟子に説かれたいくつかの戒めが書かれています。


 その一つに「人の過失を見ることなかれ」とあります。人の過ち、ごまかしを

見るなということです。これはお釈迦様以来の教えで「法句経」に「他人の過失を

みることなかれ。他人のしたこと、しなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、

しなかったことだけを見よ」とあります。


 人のことをとやかく言うのではなく、ただ、自分がどうであるか?を見ていけ

ということです。これが修行において一番大事なことです。私たちは修行をしながら

ついつい人の観察ばかりをしてしまいかねません。


 こういう狭い道場でいっしょに朝から晩まで暮らしていれば気に入らないと思う

人も出てきます。見方を変えれば、そういう中で修行をすることこそ自分の我(が)、

わがままを削り無くしていく最良の場です。


 思うようにまかせない状況、気の合わない人、嫌な人というのはかえって修行に

とっては好条件となりうるのです。そういう中で自分の我の強さに改めて気がつかされる

のです。


 また、誠拙禅師は「無事にして山を下りることなかれ」つまり、修行に来たからには

これだというものを何か一つでも体得してから帰れと説かれています。


 私たちは仏心の光の中におりながら、その光を見ることができないでいます。

この光の中にあるんだと気づくことが大事です。では、そう気づくにはどうしたら

いいか?


 「影あり 仰げば 月あり」という言葉がありますが、無我、無、暗さ、闇の世界に

徹してこそ、初めて光に気がつくことができるのです。無の闇の中に徹してこそ

「ああ、光の中にあったんだ!」とわかるのです。

 
 私たちは光の中にいのちをいただいて、この光の中に生かされています。

このこと一つがどんなに尊いことか体得することです。自分自身がその光の

尊さ、有り難さに気づかずしてどうして人に光の中にいることを伝えることが

できましょうか?

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<降りしきる雨の中で>





 
 



 

仏心光明の中

6月25日(火) 半制大攝心・6日目

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<僧堂・中庭にて>


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 思益梵天経に次のような話があります。ある人が「本来私たち誰もが持っている

心の光明に気がつくためにはどのような修行をしたらいいですか?」と尋ねました。


 文殊菩薩は「あらゆる行の中で我見を清浄にすることが大事である」と

答えました。我(われ)なし、無我です。我というものが本来、空(くう)である

と見るのが真実のものの見方です。


 無我の法を得たるがまことのものの見方、我が空であると見たものが

真の仏を見たものである。我というものがどこにもないことこそ仏性である

とそのお経には説かれています。


 仏性というのは何も仏性というかたまりがあるわけではない。我に対する

執着・とらわれからきれいに離れたところがそのまま仏性であります。

自分に対する執着・とらわれを離れたこころの様子に他なりません。


 執着・とらわれを離れたなら、そこは仏心光明の中です。そのことに

気がつき目覚めたならば、今ここにいるところが仏心光明の真っ只中です。


 自分の置かれた環境で無心にあい努める、それ以外に仏心に目覚めたものの

姿はありません。今、この目に前で只今なすこと、見ることが尽く真実の姿です。

この我に対する執着・とらわれから離れる修行です。



塵芥の堆(つみ)の中にも

6月24日(月) 半制大攝心・5日目


 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 お釈迦様の根本の教えに

「都大路にすてられし 塵芥(ちりあくた)の堆(つみ)の中にも

げに香りたかく こころたのしき 白蓮は生ぜん」というものがあります。


 街で捨てられたゴミだめの中にもきれいな蓮の花が咲く。塵芥の中に

香り高い蓮が咲くとあります。蓮の花を咲かせようと思ったら泥の中に

埋めなければなりません。修行もそうであります。


 泥の中に埋められて「あいたまらん」と逃げ出してしまえば蓮の花は

咲くことはありません。それまでのことです。その泥こそが蓮の花にとって

の最大の肥料であります。


 それと同じように、私たちの経験する思うにまかせない逆境や辛い苦しい

体験が修行にとっては糧(かて)となり肥料となる。


 お釈迦様の教えを「妙法蓮華経」と言います。泥の中に根を張って

太いレンコンをこさえて、蓮華の花が咲く。清浄できれいな無菌のような中で

花を咲かせるのでは決してありません。


 維摩居士に「衆生病むがゆえに我もまた病む」という言葉があります。

世間の人々が苦しんでいる、辛い中にいる。おろかさや愛欲にまみれている。

それゆえに「我も病む」です。その中に自分も入っていって修行をしていく

ということです。


 自分だけが清らかで、自分だけが正しいと言って、苦しみ悩む世間を離れてしまう

のではなく、むしろその中で「げに香りたかく こころたのしき 白蓮の花を咲かせる」

というのが私たちの本当の修行であります。

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(後記)

 かなちゃん、最近の定位置は方丈の縁側です。かなちゃんにとって

この場所が夏の避暑地のようなもののようです。人目につく場所なので、

時には人だかりができるほどのすっかり人気者に。この寝姿を見たら、

触りたいと思ってしまいますが、でも、皆さん、かなちゃんはもう

おばあちゃんです。時には、遠くから眺めるだけで、ゆっくり寝かせて

あげてくださいね。



 











気に入らんと騒いでいるのは

6月23日(日) 半制大攝心・中日

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<未央柳>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。

 
 何が問題を引き起こしているのか?「気に入らん!」と何が騒いで

いるのか?というとそれはあなた方の心一つです。心と言っても奥深いものの

方でなくて頭の中で理屈を考えこね回しているそれであります。


 「小さな体、小さなものにこだわることなかれ。大きく坐れ」と昔の人は

言っています。天地宇宙をひっくるめて一枚の座布団として坐れ。そうして

みれば自分のこの体、この心なんてのは小さなごまの実、芥子粒のようなもの

です。


 何が気に入らんとギャーギャー騒いだとしても、それは芥子粒のような小さな

頭の中でゴチャゴチャと言っているにすぎない。


 「これじゃ、いかん!」「あいつは気にくわない!」「こんなところは嫌だ!」

と騒いでいますが、その本人が本当に気に入らんのは、その人自身の心なのでは

ないでしょうか?


 自分の頭の中で作り出している自分の心の状況に自ら振り回されているにすぎない

のです。みんな小さな頭でギャーギャーと騒いでいるにすぎない。


 坐禅をしたならば、自分のこの体一つ、呼吸一つに徹する、成り切ることが

肝心です。この呼吸は天地・大宇宙と一枚の呼吸です。


 何もかも 息一つぞと なりにける

         この身このまま 極楽浄土


という歌があります。


 少しばかり思うようにいかないと人はそこから避けようとします。しかし、

気にくわない、思うようにいかないような逆境の中で坐禅をするのが本当の

修行であります。



 


 




 

今この時この場この自分自身に

6月22日(土) 半制大攝心・3日目

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 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 無常だけは誰も逃れることはできません。どんなに学問を積もうが

どんなに財産を貯めようが、どんな地位や名誉、功績があろうが

無常だけは隠しようがない、逃れようがない。


今はたとえ、若くて健康であっても、老いること、病気になること、

死ぬことは誰にも避けようがありません。この無常であるということを

痛切に目をそらさずに見つめていくのが私たちの修行です。


 無常ばかりはどこにいこうが逃れようがないから、それを受け止めて

生きるほかありません。また、無常に触れてこそ、はじめて何に

気がつくのかというと、人は必ずこの時この場に生きることの大切さに

気づきます。それ以外にないのです。


 大きな病気などをして無常に直面したときに、人は今この時この場で

生きているんだという単純明快な事実に気づかされる。無常というのは

「ちょっと待ってくれ」とか「少しよそにいかしてくれ」とかという

自分の都合やわがままをいう隙間を与えてくれない。


 今この時この場この自分自身を精一杯生きるよりほかにありません。


 私たちの修行は万事を捨てて今この時この場この自分自身に成り切る

修行です。今この時この場この自分自身、この一呼吸に己のすべてをかける、

己の力の限りを尽くす、それ以外にありません。


 無常を逃れることはできないという思いを持って今この一呼吸に

全身全霊を尽くして取り組んでもらいたい。


(後記)

 明日、日曜説教会後の写経は、諸般の事情により、休会となりました。

皆様、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願い致します。

 本日21時からのテレビ東京の番組「出没!アド街ック天国」は

北鎌倉特集です。先日、居士林にも取材が来ました。

皆さん、ご覧になってください。




 


 


 

どうにもならないところに

6月21日(金) 半制大攝心・2日目


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<萩・黄梅院>

 管長様が提唱されたことをまとめてみました。


 理論理屈、言葉ではもうどうにもおさまりがつかないような理不尽なこと

は世間でも避けることはできません。なぜ、あんな人があんな目に遭わなければ

ならないのかと思うことも多々あります。そんな時に逃げてばかりいるわけには

いきません。


 ある人は、お寺に入ってみたものの、お寺の生活が自分と合わなかったのか

「縁あれば即ち住し、縁なければ即ち去る」という言葉を残して去ろうとしました。

それを聞いて、そのお寺の禅師は「縁あればとどまり、縁なければ努めるんだ」

と仰せになったそうです。


 どうにもならないから「はい、さようなら」とやれば、何とも禅宗らしいと

思われるかもしれませんが、どうにもならんところで「縁なければ努めるんだ」

という気持ちで事に臨むことも大事です。


 私たちの修行もどうにも行き詰まったところ、どうにもならないところに

入っていって、そこからどうにもならないからやめようとか、どこか他の場所に

行こうというのではなく、強いて言えば、その中に「ひたりきる」、そのどうにも

ならないところに活路を見いだす修行です。


 あの白隠禅師でさえ、修行時分に仲間から様々な嫌がらせを受けたという記録が

残っています。しかし、白隠さんはそう言う状況の中で「これではいかん、こんな

状況を何とかしなければ」と努めに努めて、今日に至る禅を再興されました。


 ある老師は「名刀正宗は八十六万七千四十たび鍛えに鍛える」と言われました。

何度も何度もたたかれながら、余計なものが飛んで行って鋼(はがね)が鍛えられて

いく。私たちの修行もそうです。


 大相撲のぶつかり稽古もそうです。ぶつかっては投げ倒されてを何十、何百、

何千、何万回と繰り返しているうちに知らず知らずのうちに足腰が鍛えられ、

関取としての体と根性が鍛えられていくのです。


 そういう心構えで修行に臨んでいただきたいと思います。




 



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