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教えないという教え方

5月2日(水)


 管長様が淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 ある人から、「和尚さんになったら人前で法話をしますが

修行道場ではどういう話をするのか勉強をするのですか?」

と問われました。結論を言いますと、人前で話をするための

勉強は全くないのであります。


 では、なぜそういうことを教えないのでしょうか?「門より

入るものは家珍にあらず。」という言葉がありますが、外から

もらったものは本当の宝ではないのであります。宗派に

よっては決まった話を丸暗記して人前で話をするところも

あるようですが、私達の禪はそういうことをやらないことに

重きをおいています。


 では、何を話すのか?自分の体験したこと、自分の

この体で得たことを話すのが一番説得力があります。

自分の体験したことを自分で話をするのであるから

何もよそから教わる必要もありません。


 禪では、毎日の暮らし(朝早く起きて、お経を読んで

坐禅をして、お粥を食べて、掃除をして・・・)全部、丸ごと

修行でありますから、その自分で体験したこと、感じたことを

素直に話をすればいいにであります。


 ですから、教えないのであり、教えたら逆にウソに

なるのであります。たとえ人から教わった話を人に

しても相手の心には響かない。自分の本当のものに

なっていない話をしても人の心には響かないのであります。


 教わらなくてできる話が本当の話であります。ですから、

教えないということに値打ちがあるのであります。


 修行というのは、いろんなことを習い覚えるというよりも

自分自身、苦労して苦しむことであります。そして、その

身をもって苦しんだその体験だけが人にといてきかせる

話となるのです。ですから、修行の間は苦労をさせる。


 いかに悩ませるか、いかに苦労をさせるかであります。

自分自身、苦しみぬいた体験が、苦しんだ分だけ自分の

本当の宝になるのであります。そして、それが人の心に

響くものとなるのであります。


 そして、自分で苦しみ悲しんだその体験こそが、今度は

同じ苦しみを持つ人に対して、唯一慰めてあげることの

大きな力となっていくのであります。


 世の中、(様々なことがありますが)理屈のつけようが

ないこと、もっともらしい理屈をつけても、解決しないこと

ばかりであります。やはり、理論・理屈でおさまるもの

ではないのであります。


 その中で苦しみながらも手探りで、一日一日、一時一時

最期の時まで全力で生きていく。その体験だけが本当の

自分の宝となるのであります。

(後記)

 明日より6日まで国宝舎利殿の特別公開となります。

みなさん、ぜひ、この機会にご参拝くださいますように。







 
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大宇宙の中で

4月18日(水)


 管長様が本日の坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


「父母未生以前本来面目」という言葉があります。

両親の生まれる前のあなたはなんであったか?

あなたはどこから生まれてきたのか?ということであります。


 一番よってきたるもと、命のおおもとはなんであるか?

それは、もう仏としか言いようがないのであります。

宇宙の星のかけら、宇宙の塵といっても同じであります。


 私達は大宇宙の大きな活動の中から、ほんの一時

体をいただいて、そしてこの命をいただいて生きて

そして、また宇宙の中へ帰って行くのであります。


 宇宙という言葉を仏様と置き換えてもかまいません。

みな仏様から、このかけがえのない体とこの命をいただいて

仏様の中に一時を生きて、そして仏様の中へ帰って行く。


 あらゆる命は仏様が様々な姿・形をしてあらわれている

のであります。そのことに気づき、このいただいた命を

かけがえのない!ありがたい!と思えるようになれば

何かしら自分のなすべき道、やるべきことが自ずから

みえてくるのではないでしょうか。

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ここにも仏様が・・・。かなちゃん。

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「猫の攻防戦」

かなちゃんと新参者の猫です。名前はまだ人によって

まちまちのようです。かなちゃんにちょっかいを

かけようとしている様子でしたが、かなちゃんは

何の吹く風、全く相手にせずにどっしりと構えていました。

さすがですね!

中道を行く

3月7日(水)


 管長様が本日の淡青会坐禅会で提唱されたことを

まとめてみました。


 ただ何においても(それが良いことであろうが悪いことで

あろうが)それにとらわれ、かたよってしまっては

本質から遠ざかってしまうということであります。



 さて、どうあればいいのかというと、仏教ではそれぞれ

いろんなことの中道を行けといいます。真ん中の道を

行く。しかし中道を行くと言ったって何が中道かそう

簡単にわかるものではない。


 右を経験したり左にぶち当たったりしながら、ああ、

この辺が真ん中なのではないかなと、ようやく朧気ながら

わかるのであります。


 右も左も逸れずにただ真ん中の道だけ行くのが中道

なのでは決してありません。


 規則を守りながら、時には静かに坐禅しながら、

自分の心を見つめながら、また、時には道に背きながら

あちらこちらぶつかったりしながら、ようやく、まっすぐの

道、真ん中の道はこういうものであるかと進んでいくのが

中道であります。

(後記)

   今日は、淡青会坐禅会が終わった後、美容専門学校の

  生徒さんの坐禅会がありました。美容師さんのタマゴらしく

  茶髪におしゃれな格好をしている生徒さんと先生総勢33名が

  坐禅を経験しました。一人一人、あいさつもしっかりしてきて

  くれて、坐禅も真剣に取り組み、質疑応答の時間も積極的で

  感心してしましました。有り難うございました。



  

  

 

気がつくということ

2月1日(水)その2


 管長様が本日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「無門関」と言いますから入り口がないのであります。それは、

とりもなおさず、私達はみなその中にあるということであります。


 禪の修行は、田舎からはるばる出かけて都に到達するのではない

とよく言われています。都大路の真ん真ん中にいて道に迷った人が

「ああ!ここが都であった!」と気がつくことが禪の悟りであります。


 初級からはじまって一段、2段・・・と階梯を経て悟りに到達する

のではなく、また田舎からてくてくと歩いて都に到るのでもありません。


 はじめから都大路の真ん真ん中に自分はいる!と気づくことです。

都大路とは、仏心・涅槃心・仏様の心のことであります。私達は

はじめから仏様の心の中で命をいただいて、生き、そして息を

引き取るのであります。


 その中に ありとも知らず 晴れ渡る

   空にいだかれ 雲の遊べる


 白い雲が広い大空の中を自分ではそのことに気がつかずに

一時、ゆったり浮かんでいる。我々も自分では気がつかない

うちに仏心の中に生まれ、その中に生き、そして息を引き取る。


 みんなその中にいると気がつくかどうか?であります。

水の中にいて「ああ!のどが渇いた!」と騒いでいたんだと

気がつくかどうかであります。


 気がつくを目覚めるといいます。お釈迦様はそのことに

気がついた・目覚めた人であります。


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 (後記)

    今日は風は強かったのですが、空と雲がきれいでした!



道はどこにあるのか?

1月18日(水)


 管長様が本日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 昔の中国の、天皇道悟禅師とそのお弟子の竜潭崇信(りょうたんそうしん)

禅師とのお話です。若き日の崇信禅師が道悟禅師のもとで修行を始めた頃、

毎日おそばでお仕えしているにもかかわらず、道悟禅師は何も仏道のことや

禪の教えを教えてくれなかった。


 それを不審に思った崇信は「こちらに来てお師匠様から

禪の教えを示してもらったことがありません。どうか、

ご教授ください。」と道悟禅師に言いました。


 道悟禅師は「何を言うか。あなたがここに来てから、毎日

一日たりとも教えをしめさなかったことはないわい。」と。

崇信いわく「いったい、いつどこで私はおしえてもらったのですか?」


 道悟禅師はそれに答えて「毎日、あなたがお茶をもってきてくれたら

私はその時にありがとうと言っていただいただろう。あなたが食事を

もってきてくれたら、いただきますと。朝あなたがやってきておはようと

あいさつしてくれたら、私もおはようと。

 このすべてが禪の道ではないか!


 そういわれても崇信はきづくことができずに考えていました。

そこで道悟禅師は「今ここであなたが行じていることを

まっすぐに見なさい。道はどこかにあろうか?とあれこれと考えると

かえって道から遠ざかってしまうぞ。」と。


 そこでやっと崇信はハッと気づき「どのように心がけたら

この道を失うことがありませんか?」と問いかけました。

道悟禅師いわく「何も難しく考えることはない。その時その場の

縁にしたがっていけばいいんじゃ!ただ道はどこかに

あるのではないか?といらぬ考えを起こしたらだめじゃ。

毎日こつこつやっていることをたんたんとやっていくのが

禪の道じゃ!」


  道ということばに迷うことなかれ

      朝夕おのがなすわざと知れ

毎日毎日、顔を洗ったり、お茶をいれてもらったら「ありがとう!」と

いただいたり、ご飯をよういしてもらったら「いただきます!」

朝は「おはようございます!」夜寝るときは「おやすみなさい!」

そういう一つ一つに阿弥陀様の命が、涅槃がいきづいている

のであります。

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「和尚さんに毛繕いしてもらって、気持ちいいニャン!」

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「極楽 極楽。」














大いなる命の流れ

12月7日(水)その2


 管長様が本日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「葉っぱのフレディー」という物語があります。フレディーという名前の葉っぱが

いよいよ散るときに「自分は散るのがこわい、おそろしい」と言いますと別の葉っぱが

フレディーに説くのであります。「命あるものはみな移り変わっていく。私だってそうだ。

春、新芽として芽生えて、夏、若葉・青葉となり、晩秋になると紅葉する。みな移り

変わるのだ。春から夏、新芽から青葉になるとき君はこわかったか?夏から秋

青葉から紅葉になるときこわかったか?何もこわくないはずだ。これから散って

いくことも、同じ変わることにすぎないのだから、何もこわがらなくてもいいだよ。」


 散った葉っぱは地面に落ちて、大地の養分となる。また新しい木の養分として

新芽を育て青葉として生まれ変わる。


 ずっと命というものはめぐりめぐって移り変わっていく。この移り変わっていくことが

無常であります。無常ということは決して否定的でも消極的でもありません。

この大きな命の流れであります。


 ずっと流れていく命の中で私達は一時この体とこの心を拝借して、最期は

お返しいたします。大きな命の流れの中に帰って行くのであります。


 この大いなる命の流れを仏様、仏心、阿弥陀様というのであります。

無量劫(今風にいえば生命誕生以来の130億年)の命が、只今のこの

私の命であり、只今のこの私の命がまた無量劫の命に帰って行くの

であります。

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(後記)

  明朝より、僧堂では15日まで臘八大攝心です。気が引き締まります。

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自己を忘じた時・・・

10月6日(木)その2


 管長様が昨日、淡青会坐禅会で提唱したことをまとめてみました。


 公案修行(修行僧に禪の問題を与えて探究させる修行)の一番の

大きな意味は、禪の問題に四六時中集中することによってそれ以外の

雑念・妄想をどんどん減らしていくことにあります。


 坐禅しているときはもちろん、歩いているとき、横になっているとき、

お手洗いに行くときでも問題にに集中することによって、それ以外の雑念・妄想は

自ずから消えていきます。過去のこと、これからのことといろいろと

考え込んでしまいますけれど、少なくとも問題に集中しているうちは、

それらのことは忘れています。そして、忘前失後(前・後ろを忘れ)前後裁断

(過去・未来を断ち切り)、問題と一つ、一枚になったところに

お釈迦様やダルマさんと寸分違わぬ、私達の本来の心に気づきます。


 問題に全身全霊に集中して自己を忘じた時、初めて私達の心の本性が

はっきりします。なくなったものをいつまでも追いかけていても

苦しみは増ばかり。他人のことといつまでも比べていても、これもまた

苦しみは増えてしまいます。

 
 自分を忘れるくらい何かに本気で集中することによって、私達は

自分の内に「これは尊いものがある!」と気が付くのであります。


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煩悩・妄想も仏様の心

7月20日(水)

 
 管長様が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 煩悩・妄想がなくなって、そうして仏様になるのでは

決してありません。煩悩・妄想は実は仏様の心と裏表、

同じであり、どうはたらくかの違いにすぎません。

 夏になると夏草が生えてたいへんですが、それを

夏草と見るか、一つの景色と見るかです。生えすぎて

人の通れないほどになりますと「煩悩」ですし、ほどよく

生えていたら一つの景色ですから、「悟り」です。

 間違って夏草を薬剤を使って全部枯らせてしまうのは

これはよくありません。煩悩が全部なくなってしまったら

仏でもありません。草を全部枯らせてしまったら、虫も人も

住めないのと同じです。煩悩・妄想も邪魔にならない程度に

せめて人様の迷惑にならない程度にほどよくあれば、それは

一つの景色なのです。

 坐禅をしても、なかなか煩悩・妄想はなくなりません。

それでいいのであります。

 ほどよく煩悩・妄想があるからいろいろな人の苦しみ

悲しみがわかるのであります。煩悩・妄想がいろいろ湧いて

仕方がないという苦労をしているからこそ、煩悩・妄想のことで

相談に乗ってあげることもできるのであります。


(後記)

   本日は、午後から本山に、明日から始まる夏期講座の

  準備のお手伝いに行って参りました。

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「椅子もいいが、わしは座布団じゃ!」

今年から、椅子席を増やしました。約250席用意しています。

とはいえ、健康な方は、なるべく座布団席にお願いします。

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管長様の無門関提唱は、8時半から始まります。詳しくは

円覚寺ホームページまで。

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本当の安心とは

6月1日(水)

 
 管長様が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 自分の安心を得たい、これでいいという安心を得たいとみんな

思うが、しかし、この安心を得たいという気持ちこそ自分の心を

かき乱す大きな原因であります。これがあれば安心というものを

得たい、今現実の迷い、苦しみがきれいに片付いて本当に安心したい

と思いがちだけれど、そんなものは妄想、絵そらごとにしかすぎません。

 坐禅をすると全く悩みなく毎日が安心して暮らせるなんて虫の良い話は

決してありはしない。生きていくということは、迷い、苦しみを避けることが

できないものであります。むしろ迷い苦しみそれらを全部ひっくるめて、それを

そのまましっかり受け止めて生きていくしかそれ以外にありません。

 これがあれば絶対安心なんてものはあろうはずがないのであります。

それがどういうわけか、なんかをを買えば「安心」できますとか、

なんかの祈祷を受ければ「安心」を得られますとか人の弱みにつけ込む

どうしようもないやからがいますが、そんな虫のいい話はありません。

 生きている限り悩み苦しみはある、生身のからだを持っている限り

病気にもなるし、具合も悪くなる、足も痛くなる。

 大事なことは、それらを全部避けることなく冷静にしっかり受け止めて

それでも自分はこうして今生きている!こんななりでも、どうにか自分は

生きている!これ以上尊いものはない!と受け止めて、一日一日一時一時

今目の前にある一つ一つのことを大切に生きていくしか私達の道はない。

 その積み重ねが強いていえば、最期に「ああ!これで安らかであった!」

と思えるのではないでしょうか。

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無門関40則その2

 5月5日(木)


 昨日管長様が提唱されたことの続きです。


 「典座」というご飯を炊くのも立派な修行で一生懸命やっています。

せっかく、自分らでご飯をつくるだけではなく、こういう時代ですから、

みなさんの為にお役にたったらどうかと(雲水に)被災地でボランティアを

やってもらっている。ここんとこ交代で雲水が避難所に炊き出しに行く。

今日もこれからいわきの方へ行きます。

 勝手に行くのではなく、事前に現地の人と打ち合わせて、100人位の

ご飯を用意してくれとのこと。100人分をいっぺんに炊き出しをしてくださいとの

要請。(僧堂の雲水は)5月の講中斎という行事で300人位のご飯、おつゆ、おかずを

作ってお出しするので、大きな鍋でも全部そろっています。プロパンガス、大きな業務用コンロ

もありますから、それらを車につんで出発するようです。

 いろんなところで何が役に立つのかわかりません。

(後記)

   今日は、管長様と自坊のお葬式に行って参りました。

 葬儀場の待合室に入ると、部屋の隅に荷物置き場でしょうか、畳が2枚敷いてありました。

もちろん、座る椅子と机は用意されていたのですが、なんと管長様は式が始まる直前まで

その畳の上で足を組み静かに坐禅をなさっていました。

坐禅というものは、時間場所を選ばずにいつでもどこでもできるものだと

実感いたした次第です。









無門関40則

  5月4日(水)


 管長様が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 禪の修行は、あんまり難しいことを学んだり考えたりするより、

単純に生きるということ。

 生きるということは、やはり毎日食べること、寝ること。

生きるというと何でもないと思われがちだが、本当に大切なことだ。

 臨済語録に「飢え来たれば飯を喫し 困じ来たれば眠る」とある。

おなかがすいたら、ご飯を食べ、くたびれたら、眠る。

禪の教えはこれにつきる。そういうと、大勢の人は何だその程度かと

思うかもしれないが、必ず知る人ぞ知る。

 生きるということは、本当に自分たちでつくるものを用意して、

自分たちでそれを食べる。疲れるまで働いて、疲れたらグッスリ眠る。

これが本当にできたら、それ以上のものはない!

 

無門関37則その2

2月3日(木)


 昨日老師が提唱の中でお話しされた坂村真民さんの詩の全文です。


木や草と人間と
どこがちがうのだろうか
みんな同じなのだ
いっしょうけんめいに
生きようとしているのをみると
ときには彼等が
人間よりも偉いとさえ思われる
かれらはときがくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
じぶんを完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしはじぶんに言いきかせ
今日も一本の道を歩いて行く

無門関37則

 2月2日(水)


 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 坂村真民さんの詩に

「木と草と人とどこが違うのだろうか?

  一生懸命生きているのを見ると

   時には木や草の方が偉いように思われる

    木や草に学ぼう。」

 というようなものがある。

  
  我々人間も(もちろんこの自分も)、本来、

 生い茂っている木や草、そこら辺であくびをしている猫と

 同じく天地自然の中の一つのはたらきにすぎない。

 これが自分だ!自分の方がもっとましだ!という執着・妄想を

 離れて、天地自然と一枚になる、一つになる。

 そこに本当の安らぎがある。

  木や草や他のあらゆる命。

  みんな同じ一枚平等の命。

  同じように生きているかけがえのない存在。

  みんな同じ平等の存在であるとしみじみ感じて

  謙虚に生きよう!

  
  (後記)

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 僧堂の宿龍殿の写真です。ここで攝心中提唱が行われます。

左の椅子に老師が坐を組んでお座りになり、お話をされます。


 <お知らせ>

 平成23年度春季学生坐禅会の日程が3月4日(金)から

6日(日)と決まりました。もう少ししたら、円覚寺本山の

ホームページで正式に公表される予定です。

 

  


  

無門関36則

1月19日(水)


 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 
 自分のお寺に帰る雲水に老師が必ずおっしゃることがある。

 一つめは、あいさつをすること。和尚さんをはじめ寺の中の人は

もちろん、お墓参りに来た人にも声をかけること。

 二つめは、毎朝みなさんがくる前に掃除をすること。

 三つめは、朝、本堂でお経を読むこと。

 だそうです。

  坂村真民さんの詩に

 「こちらから、頭を下げる。こちらから、あいさつをする。

 こちらから、手を合わせる。こちらから、わびる。

 こちらから、声をかける。

 すべて、こちらからすれば、争いもなく和やかにいく。

 仏様もこちらから近づいていこう

 どんなにか喜ばれることだろう。」とあります。


  相手に対して通じていくもの、訴えかけていくものは

こちらの「至誠」つまり真心である。

  本当に真心をもって相対していく、真心をもってあいさつをする、

真心をもって声をかけていけば、どんな状況であっても

おだやかに、なごやかに片付いていく。

(後記)これが、昨日紹介した「トイレの神様」除穢忿怒尊のお姿です。

    僧堂の東司(便所)入り口左上に安置されています。

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 次回は「お風呂の神様」を紹介します。




 




無門関33則非心非仏

 10月6日(水)


老師が提唱されたことをまとめてみました。


心こそ心迷わす心なれ

心をたよりにするな。

心に振り回されてはいけない。

心こそ恐ろしいものである。

 そんな心をいかにして調御(調える)することができるか?

 いかにしておさめることができるかが仏教の課題だった。


 馬祖道一禅師は、そうした状況の中で、

「自分のこの心こそ仏である!」と言われた。

 そうすると、人々は「心」という概念「仏」という概念にとらわれてしまって

本質を見失ってしまったから、今度は「心でもない仏でもない」とお説きになった。


 それでは、「心」とは「仏」とはいったい何をさしているのか?

結論は、心とは天地一杯にみちあふれているもの。

坐禅をすると、これが自分これが他人、内と外の区別がだんだんぼやけてきて

やがて天地と一つになる。


 私たちは、「心」とか「仏」とかの言葉でもってはとても限定することのできない

もっと大きなものを生きている。この生きているものを確かに感じ取って

些末なものにとらわれずに、大きな命の流れに身をゆだねまかせていくことが大切。





 
 

提唱 無門関23則

 9月1日(水)

 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

仏様の称号の一つに「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」がある。

それは、上手に調えることができる人ということ。


 坐禅は、調身(ちょうしん)・・・まず、この身体を調え

     調息(ちょうそく)・・・そして、呼吸を整え

     調心(ちょうしん)・・・心を調える。


この生身の身体がある限り、煩悩・欲望がすべてなくなることはない。

また、煩悩・欲望は生き残る爲に必要なものでもある。


 坐禅をすることは、それらをなくすというよりもよく調えること。

誰もが持っている煩悩・欲望を調える術を訓練していくのが坐禅。


 また、禅は一超直入(いっちょうじきにゅう)・・・いっぺんに仏様の悟りに到る。

悟りとは、我無しと気づくこと。

我と思いこんでいるものはどこにもない、自分だ自分だと思ってしがみつくものは

どこにもないと気づくこと。

 自分は、この小さな肉体ではなく、大自然のいのちそのもの。

自分は、永遠に移り変わる、大きな天地活動の中の一部なんだ。

つまり、生き通しの大きないのちにめざめる。

 大自然と自分と一枚なんだ!




提唱 無門関30則即心即仏

   7月7日(水)


老師が淡青会坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


  あなたの心が 仏である!

これ以上端的なおしえはない。

 
 各々が仏様の心というかけがえのない これ以上ない宝物を持ちながら

 それに気づかずに 人に言われるまま おろおろ迷い求めている。


 みんな例外なく仏様の心をいただいているのだから

 その心を日常の中に活かして

 怒りや貪りではなく

 慈悲や思いやりを持って人に接したいものだ。


 仏様の心のはたらきは慈悲や思いやり。

 いかにして いくつしみや思いやりの方向へと心を運んでいけることができるか?

 その為に坐禅をして心をおさめ温かい心を出していけるようにするのが本当の修行。
 
  
  (後記)

      円覚寺のホームページからリンクできるようになりました。



提唱 無門関29則

       5月2日(水)


  老師が淡青会座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 栄西禅師曰く

 「大いなる哉心や 

  天の高きは極むべからず。

  而るに心は天の上に出ず。

  地の厚きは測るべからず。

  而るに心は地の下に出ず。」


 この天地宇宙ひっくるめての心

 
 それが 我々の心の本質!


 そんな心の中に生まれながら 自分と他人と区別し

 せまい自分の殻の中でしかものを見ていない。


 結局 なんにつけても 自分の心が自分の心を苦しめている。


 「心こそ 心迷わす 心なり」


 
 風が動くのも心

 幡が動くのも心


 青い大空に雲が流れていくのを

 自分の手や足や顔をながめるのと

 同じ気持ちで見たいものだ。



 「我もなく 人もなければ 大虚空

     只一枚の 心なりけり」


 
 

 


  

提唱 無門関28則

        5月19日(水)


  老師が本日坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。


 五祖法演禅師曰く


 「我参ずること二十年 只恥を知る」


 (長いこと坐禅をしてきて何がわかったか?


 只自分に恥じ入るばかりである。)


 坐禅をすればするほど 


 自分の いたらなさ つたなさ はかなさ もろさに


 に気付く。


 何の世界でも 何かに真剣に打ち込めば打ち込むほど


 自分の おろかさ みにくさ どうしようもないところが


 はっきりしてくる。


 そういう経験をしてはじめて


 人の弱さやいたみに気がつく慈悲の心に通じていく


 そうして 人に対して親切に謙虚になっていく。


 自分の弱さに直面し


 自分はその程度であると自覚することは


 いかに 自分が取り組んでいる世界が奥深いかに

 
 気付いたことであり


 だからこそ まだ足りないと精進することにつながる



 (後記)

   明日から26日まで僧堂の摂心がはじまります。

  提唱が毎日ありますので、できる限り掲載するつもりです。

  宜しくお願いします。

 


 

提唱

4月7日

無門関提唱 第27則 不是心仏

淡青会坐禅会において、老大師が提唱されたことを

私なりにまとめてみました。

  「不是心、不是仏、不是物。」

心にあらず、仏にあらず、物にあらずとは、

それらにも限定されない大いなる心のこと。

本来は皆大いなる心を持っているのに、欲望などで

自分で自分を限定して小さくしてしまっている。

自分で限定しなければ、無限な心を皆が備えている。

大いなる心は、無心無我の心。

無心無我の人にして、初めて人を安心(あんじん)せしめることが

できる。救ってやろうとか、安心させてやろうとかのはからいを

超えて、無心無我になったら、自然と自ずからまわりの人は、

安心する。その為に、自分を殺す修行をする。

自分の欲や我儘を殺して少しでも無心無我になれるように

精進することが大切。




3月3日

 
 本日は、淡青会座禅会。無門関提唱第二十六則 二僧巻簾。

老師曰わく、

ひとは、何にもないところから生まれて、何にもないところの

帰る。そこには、得たの失ったのとそんなものはない。

良いも悪いもない。どんな境遇になろうが、その場その時を
     、
精一杯、なりっきって、生きること。

そう生きることに、善悪はなく、それぞれ、それぞれが、絶対。

そして、もとは何にもないと思えば、何でも有り難くなる。と。

死刑囚の歌人の方の歌を紹介されながら、説明された。

その短歌は、島秋人さんの作品です。

しみじみと 生きていることの 味わいに 春陽あふるる 獄庭(にわ)に佇ちたり

身に持てるもの みな神に還すもの 生命(いのち)ひとつは 愛(かな)しかれども

差し入れの 上等弁当 食(は)みをはる うまかりし笑(え)み ふたに写りて


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