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意識・分別のおおもとは

2月3日(月)


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<居士林前の梅も咲き始めました。>


 横田南嶺管長が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 坐禅をして「無心になった!」とか「悟った!」とかと自分で意識・分別

しているうちはまだ本当の「無心」でも「悟り」ではありません。

この意識・分別する思いをさらに打ち砕く修行が必要です。


 いろいろなことにおいて意識・分別してとらえたものは有限であります。

しかし、その意識・分別を生み出すものは無限です。


 長年、宗教者と対談をされている方がおっしゃっていましたが、

人にお話をするときに意識・分別をしている方のお話は、人の心には届きにくい。

私たちはつい意識・分別でものをとらえてしまいますがそれは有限であり、

その意識・分別を生み出しているものは無限であると。

 
 「これは仏心だ!」「これが真実の姿だ!」と言葉や意識・分別でとらえて

しまっては、それは絵に描いた餅で真実とはほど遠い。


 そうじゃない、この意識・分別を生み出しているおおもとを尋ねていくと

春は花が咲き、鳥が鳴いている、そんないのちあるものと一つにつながって、

一つに通じて大いなるいのちと1枚になります。


 そこで初めて言葉が活きてくるし、いのちも活きてくるのです。「もうすでに

自分はこんなに満ち足りていたんだ」という智慧が湧いてくるのです。








 



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大自然に触れる

11月14日(木)

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 今日の居士林山門前です。うっすらと彩りがついてきました。


  横田南嶺管長が先日、居士林にて提唱されたことをまとめてみました。


 私たちが本来持って生まれた心は、仏様の心と同じ心であります。

その心は、全く罪もけがれも届くことはない。常にきよらかで、安らかで

静かで光明に満たされているのです。


 どんな罪業も来ることもない。来たることもなければ、消滅することもない。

それがお互いの本心・本性です。そのことに気がつくことが肝要です。


 世の中を生きていく上で、私たちは、辛いこと悲しいことなど様々な境遇

に遭います。それは、どうしても避けることができません。


 その際に、覚えておいていただきたいのは、どんな辛い目に遭おうが、

どんな苦しい境遇に陥ろうが、私たちの心の奥深いところには、

何ら傷一つ傷つかない広い世界が広がっているという真実です。


 そういう広い広い心の世界に気がつくには、大自然に触れることが

一番大きな手がかりになるのではないかと思います。

人間のこしらえたものにはありません。


 大自然の風に吹かれて、大自然の木々を見るなど、大自然に触れる

ことで私たちは、本来持っている広い心に気づくことが出来るのです。

(平成25年11月3日 碧巌録提唱より)

(後記)

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舎利殿へと続く円覚寺参道。

 さて明後日の土曜坐禅会・経験者の部(14:40~)では

横田南嶺管長に「臨済録提唱」をしていただく予定となっています。

 皆様、週末は紅葉を楽しんで、そして、自然豊かな環境の中で坐禅を

してみてはいかがでしょうか。


世の中を変えていくもの

10月6日(日)


 横田南嶺管長が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 各々のこのいのち、この一念、この心こそ何よりも尊いものなのであります。

あらゆるものを見たり聞いたりしているものはみなこの心です。

 
 この私たちの一念、心というものは素晴らしい働きをして、いろいろな人、

様々な時代に通じていく。。世の中を少しでも、良く変えていくことができる

のはお互いのこの一念しかない。


 「世の中をどうするか?」とよく議論されていますが、特別なことは

ありません。この自分の一念を転じて、変えて、そして通じていけばいいのです。

これ以外には何もありません。この私たちの一念こそが世の中を変えていく

一番の大きな力であります。


 華厳経に「あらゆる仏様を知りたいと思えば、私たちの心を知りなさい。

心が一切のものを作り出す」とあります。つまり、この心を変えていけば

世の中も変わっていく。それ以外に道理はないのです。


 この私たちが持って生まれた一念、心の尊さをわかっていれば、どんな境遇や

縁に遭おうとも、決してしおれる、くじけることはない。それどころか、

自分の心を主体的に相手の心を変えていくことができるのです。








 


 
 


 


 

みんな仏心の姿、みんな仏心のまま

9月2日(月)


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 横田南嶺管長が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「あいつは良い、あいつは悪い」と人を分け隔てる心こそ苦しみのもと

であります。この、人を分け隔てる心を離れる為にこうして坐禅をするのです。


 ところが坐禅をすればするほど、「自分は何年も坐禅をしているから、

していない人より偉いんだ」と人を分け隔ててしまっている人を

多く見かけます。


 「あいつは良い、こいつは駄目だ」と人間を区別する。そんな区別をつける世界から

離れて、「みんな仏心の姿、みんな仏心のままである」と平等に物事をみるのが真実で

あります。


 良い悪いにとらわれて見てばかりいては、真実には程遠い。しかし人間は

とにかく枠をはめて型にはめて区別をしたがる。


 どっちが良い、どっちが悪いかなんてことは、その人のその時その場での

有り様によって変わってくるもの。それをわかった上で良い、悪いを離れて

物事の本質を見なければならない。


 人間の本質は、そうした区別を超えた、みんな仏心の姿、みんな仏心のまま

であると見るところにあるのです。

(後記)

 9月20日から居士林で行われる夏季学生大攝心の参加者応募ですが

男女ともに定員に達しましたので本日をもちまして締め切らせていただきました。

男性30名、女性16名、計46名の方々が参加をします。たくさんのご応募

誠に有り難うございました。




何気ない日常の中に

5月19日(日)


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 我々は坐禅の修行だ、仏法だと言ってますが、何か特別なことをして

何か特別な経験をしなければいけないというわけではありません。

本当のところは何の特別なことはありはしないのです。


 何か特別なことがあると思い求める心こそ一番の迷いのおおもとです。

何やら特別なことはありやしないかと探し求めるこころがなくなったとき

はじめて、安心、満たされるものがある。


 真理というものは朝から晩まで説きづめに説いている。行じづめに

行じている。何も禅の修行といってこうしてこの居士林に来て着物を

着けて袴をはいて難しい顔をしているばかりが修行ではありません。


 電車に乗っているとき、おうちでご飯を食べているとき、TVをみながら

くつろいでいるとき、ぐーすか寝ているとき・・・などみんな禅の暮らし

です。禅そのものを行じている様子です。


 毎日の暮らしの何気ない一言、何気ない動作、たとえば、朝だったら

おはようございます、ごはんを食べるときはいただきます・・・など

何気ない暮らしの一つ一つにちゃんと仏心が光輝いている。


 そういうところにはっと気が付いて、この何気ない暮らしの中に

どれだけ深い感謝の気持ちに満たされるかです。私は修行の深さという

のはそういうものだと思います。


 何気ない暮らしの中でどれだけ感謝に満たされ周りの人に対して

思いやりのこころ、祈りのこころに満たされているかです。そのことに

気づくことが、しいて言うならば「悟り」ではないでしょうか。


 数を数えたりなどいろいろな呼吸法がありますが、それは外に

向かってはたらくこころを断ち切る為には非常に有効ですが、

やはり究極のところは何気ない呼吸が理想なのだと思います。


 何気ない呼吸の中にこそお釈迦様の説法が見事にはたらいている。

それに気が付かんが為にいろいろな呼吸をして意識を向けさせている

のです。


 いたるところ日常の一挙手一投足、何気ない一呼吸、何気ない一言

・・・などにキラキラと光り輝くものがある。

(後記)

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 珍しいものが発見されました!雲水さんが円覚寺山内の妙香池を掃除して

いたら、何と!鈴木大拙居士の犬の首輪に着けていたであろう身分証の

金属が見つかりました。「雑司ケ谷五百七十二番地 鈴木貞太郎 飼犬」と

刻まれています。

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裏には犬の絵が。大拙居士ファンにはたまらない発見ですね。 

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 明日から26日まで円覚寺僧堂(専門修行道場)では1週間の集中修行期間

(月並大接心)に入ります。




 





無功の功、無力の力

5月5日(日)


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 禅では「無事」とは、求めることをやめることをいいます。

悟りとは何ぞや?仏心とは何だ?と求めることをやめて身を解き放っていく。

何かをつかまえよう、つかまえようとすることばかりを工夫をするのではなく

時には、無事に解き放ってやってみればかえってわかるのではないでしょうか。


 無功の功、無力の力という言葉があります。みなさん方のように一生懸命坐禅を

しているばかりが仏心・仏性なのではありません。無力の力なんていうのを学ぼう

と思えばあの(円覚寺にいる)ネコを見るのが一番です。


 あれは無力に徹している。私たちもとてもあそこまでは及びません。

全く無抵抗で、全く無力で、全くこの飾り気がない。今、ここに(居士林に)

来る途中も道のど真ん中にはらを出して寝ていました。


 なんとも無防備な姿なのですが、誰にもおそわれはしない。逆におそわれるどころか

みんなにかわいがられ、喜ばれています。あそこまでいけばたいしたものです。


 気張って坐禅をしているばかりが仏心なのではありません。あのネコは

無功の功、無力の力、仏心・仏性の真っ只中で見事にさらけだしている。

そういう姿に見えませんか?

 
 ネコであれば歯を食いしばってネズミを追い回していなければネコではない、

あれはだめなネコだといえますか。それは狭いものの見方です。


 年老いて、道にゴロンと横になっているネコは、無功の功、無力の力、

仏心・仏性の真っ只中に身をされけ出している姿そのものなのです。

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かなちゃんもとうとう管長様の法話の話題になりました。

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つゆ草。

(後記)

 大勢の方々がお見えになっている国宝・舎利殿特別拝観も今日で終了です。

拝観できるのは16時までですので、まだの方は、お早めに。

 昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部96名、2部58名でした。

たくさんの方々がご参加いただき、誠に有り難うございました。


一つにとけ合ったところ

3月17日(日) お彼岸入り


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「山は築かずして高く 川は掘らずして深し」という言葉があります。

私たち人間がいくら土をもったところで山を築くことはできないし、いくら

深い穴を掘ったところで海の深さに及ぶものではない。


 山は自然と高く、海は自然と水をたたえている。これこそ、仏心の姿です。

何も作りごとはありはしない。


 ところが無心の坐禅だなんだと言って、無心になろうなろうとして

それが、分別・妄想の土で山を築くようなものだということに気づかずに

いる人が多くいる。観念、妄想をふくらますのではなく、それら一切の

作りごとをやめればいいのです。


 禅ではよく「成り切れ!」とよく言います。これも、成り切ろう、成り切ろうと

して自分で作りごとをすれば、逆に遠ざかる。物事を分かろう、分かろうとするのも

これまた、同じです。


 それよりも、私たち人間の「成り切ろう」なんていう浅はかなはからいを捨てて、

春になれば大自然の中で、春風の中ゆったりと花ととけ合うことです。大自然に

身をなげうって一つになったところです。また、人生の最期は、月の満ち欠けの

はたらきで自然と息をひきとることです。


 仏心とはいかなるものか?お日様が出て、風が吹く、子供が生まれる、人が死んでいく

これみな仏心の姿です。みないちいちが仏心の光明です。照らされるばかりでなく、

みんなそれぞれ仏心の光をあい放って一つにとけ合っているところを仏心の光明と

いうのです。

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「遺体」という映画を見て

3月3日(日)


 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「遺体」という映画を見ていろいろと思うところがありました。

私達は、普段、生と死を分けて考えています。こうして体が動いて

いれば、生きていますし、心臓が止まり瞳孔が閉じ、動かなくなったら

死となります。


 しかし、はたして、生と死の切れ目は本当にあるのでしょうか?

そして、心の世界においては、はたして、死んでいるのでしょうか?


 結論から言いますと、心の世界には生死の沙汰はありません。

生まれたということもなければ、死ぬということもない。生き通しの

心であり、生き通しのいのちであります。


 そういうことを坐禅をして理論的にどうこうしたとしても、現実的に

体が動かない、目がみえない、何も言わないことにあたって私達はどう

接することができるか?です。


 あの映画の中では、一つ一つの遺体に向かって話しかけ、言葉をかけ

ています。生きている人と同じように接しています。そういう心の世界が

続いています。これは、死体だから声をかけても仕方がないというのは、

科学の道理にすぎません。


 その人がたとえ動かなくなったとしても、体か朽ちていったとしても、

お骨になり、お墓に埋められたとしても、その人との心の交流はずっと

続いています。


 その人の心と私達の心とは一つ一つ相映じて連なっています。そういう

地続きのところ、一枚ところで生死、本物・偽物、善・悪を分けても

意味がない。只、一枚の仏心の世界です。


 この時期にこういう映画を見て、もう一度、被災地の方々の悲しみに

寄り添う気持ちを私達は忘れてはいけないと思います。こんな被災地から

遠く離れた場所で悲しみに寄り添うと言ったって何も意味がないと思うのは

単なる目で見える世界の話です。


心の世界ではずっと直接連なっており、一つのともしびの光は全体の光と

必ず相映じます。遠く思いを致すことは決して無意味ではありません。

(後記)

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 午後からは、黄梅院で志塾主催の論語講義に出席しました。

國學院大學教授の石本道明先生がご講義くださいました。

管長様も最前列でご講義を聴いておられました。


 さらに夕方5時から円覚寺・山内臥龍庵の開山毎歳忌に出席

して参りました。それにしても、中身の濃い充実した1日でした。


 

目一つ達磨

2月22日(金)


 管長様が先日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

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 白隠禅師の作品に「目一つ達磨」があります。それには、一つ目の達磨さん

の絵とそのまわりに讃(さん)が書かれています。その讃の中に「わが眼で

わが眼をみよ」という言葉があります。


 この「わが眼でわが眼をみよ」とは、私達禅門で言うところの「自分で

自分の眼をみよ」または「外に向かっている工夫を内に向けよ」「見るものを

みよ」と同じことを言っています。


 この「見るものは何ものであるか?」それは、自分の本心・本性、つまり

自分のこのいのちであります。


 今、見ているものは何であるか?それに気がつけば、それは、本心・本性

であり、そのまま、見性成仏です。


 目一つ達磨は、見性成仏、見ているものと見られているものが一つの世界、

心が一つになって自分の眼も一つになったところを表現しているのでは

ないでしょうか。



(後記)

 今朝の仏殿での暁天坐禅会は、10名の方が参加をされました。

ここ数日の朝の冷え込みは、非常に厳しいものです。そのような中

参加をされる方には、本当に頭が下がります。有り難うございました。

心が一つになる

2月17日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 何かの冊子にこんな言葉を見かけました。「心が2つになるのが

迷いである。心が一つになるのが悟りである。」


 心が、今の自分と何か聞こえてきたものを追いかけて2つになって

しまったら、迷いとなります。ものを追いかけるから迷いとなる。


 そこで、私達の禅では、ものを追いかけない為に「聞いているものは

なにものか?」「見ているものはなにものか?」と参究します。そして

外の景色よりも、今こうして見ているもの、聞いているもののすばらしさ

に気づくのです。


 この見ているもの、聞いているものこそ宝であって、もう、外に何も

求める必要はないと気づいたとき、初めて、静かに無心に花を見、

無心に聞くことができます。


 この宝の気づいて見れば、花と見ているものは1枚になって

いるはずです。1輪の花が目に映ってくれば、1輪の花が今の自分と

一つのはずです。


 これに気づかないと、本質を見失ってしまい、花の美しさに

とらわれたり、花を追い回したりしてしまいます。


 そこで、いったんは、外に向かってはたらく心を断ち切って自分の内に

向ける工夫が大事です。そうすれば、今、こうして見ているもの、

聞いているもの、命あるものの尊さに気がついて、自然と眼に花が映ったとき、

花はわが命と一つであるとわかるはずです。


 心が一つになるのが悟りであると気づくのです。





海の中の魚のたとえ

12月16日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 海の中の魚が海の話を聞いて海が見たいとしたら、どうしますか?

海は外からでしたら見ることができますが、海の中にいては、

海を見ることはできません。


 魚はいくら見ようとしても見えない。そこで、魚はいろいろと

苦労をする。波打ち際まで出て行ったり、水面を飛び跳ねたり、

海底のどん底まで行ったりと・・・。


 そんな、いろんなことをしながら、ある時、「自分は海の中に

いる!」「自分のいるところが海であった!」と気付くのであります。

修行とはそういうものであります。


 私達の仏心も同じです。海の中にいるのと同じ道理です。

私達も仏心の真っ只中にいるんです。それなのに、「仏心は

どこにあるのか?」と誰それの話を聞きに行ったり、新しい本

を読んだりと外に求めています。


 外に求めれば求めるほどに仏心から遠ざかってしまいます。

ですから、外に求めるのやめて静かに腰骨を立てて、自分の

呼吸だけを見つめる。


 そうすると「何だ!仏心はここにあったんだ!」と自分の

体で感じることができます。


 魚は、ただ見ることをやめたとき、「なんだ、最初から海の中に

あったんだ!」と気付く。海の中に生まれ、海の中に生き、最期に

海の中に帰って行く。


 私達も仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、そして、仏心の中で

息を引き取る。常に仏心の真っ只中なのであります。

(後記)

 管長様には、臘八大攝心、成道会が終わったばかりにもかかわらず

昨日の午後、今日の午前中と居士林で提唱をしていただき、さらに

夕方から、月1回、東慶寺さんで行われている鎌禅会(仏光録を学ぶ会)

の講義までしていただきました。

誠に有り難うございました。

12月2日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 その目に前に現れているもの、その目の前の毎日の暮らしこそ

真理であります。これに気づかずに、禅とは何だ?無心とは?・・・

と千里萬里思うたところで遠くして遠しです。こんなことを

考えに考えておれば、いざという時、全く役に立ちません。


 世の中というものは、自分の考え通りものが出てくるわけでは

ありません。それを自分の考えだけをたよりに生きていこうしても

考え通りのことはなかなか出てきません。


 ですから、賢明な生き方というのは、自分の考えを離れて、

からっぽになって、その場その時に応じて生きていくこと

であります。


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<居士林>
 
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(後記)

   今日は午後から蔦禅会(坐禅会)でした。深々と冷える居士林の

  堂内で、11名の方が坐禅を体験されました。皆様、お疲れ様でした。

目の前の真実

9月16日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


次のような公案(禅の問題)があります。

ある僧が尋ねました。「この移ろいゆく肉体を離れて

堅固法身、つまり、移り変わらないものはどこかにありますか?」

それに対して別の僧は「山には花が満開で、その美しさは錦をならべたようだ、

谷川の水が渕をなして真っ青なことは藍を湛えたようだ。」と

答えました。


 私達はついつい「どこかにこの移ろいゆく肉体を離れて移り変わること

のない永遠不滅のなにかあるのではないか」と考え回って妄想をふくらませて

逆にマイナスの方向に向かいがちです。


 しかし、大事なことは、「どこかに堅固法身、移り変わることない、

永遠不滅のものはずだ」という自分や相手の妄想・分別、思いこみを

つぶしていくことであります。ましてや、相手の妄想・分別を増やして

しまうようなことは言ってはいけません。


 そして、「永遠不滅のものがどこかに有りはしないか」と頭の中で

理屈をこね回すよりも、庭に咲く一輪の花を見、外に吹く風に

吹かれてみたらどうですか。


 今、目の前にあるあのか細い生きものの中に真実が堂々と

現れているのであります。


 そういうものに触れて、「自分はとらわれていた」「自分は

方向性が間違っていたんだ」と気づいて修正して、妄想・分別を

打ち砕いていくのであります。

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アザミ







角を磨く

8月19日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 鹿の群れの主が角を磨くのは、どう猛な動物から鹿たちを

守るが為にやっているのであります。槍のような角をそなえて、

虎のような動物から守り、状況を正しく判断する眼を持ち、

安全なところへと仲間の鹿たちを導く。


 私達が坐禅をするのも、智慧という「角」を磨いて、大勢の

人々を導く為にしなければいけません。己を殺してこの智慧の眼を

磨くのであります。そして、その智慧によって、みんなを安心の

境涯にみちびくのであります。


 円覚寺は瑞鹿山(ずいろくさん)と言いますが、鹿と仏教とは昔から

深いご縁があります。お釈迦様が初めて説法された場所は鹿野苑(ろくやおん)

といいます。なぜ、鹿野苑といわれてるのかといいますとこれもまた、

深い因縁があります。


 お釈迦様は、過去世において菩薩の修行をしていた時、大きな群れの

鹿の王でありました。その国の人間の王が、狩り好きの若い王にかわると、

大勢の家臣を連れて鹿を狩猟して殺してその肉を喜んで食べました。


 困った鹿の王は、人間の王に直訴しました。「どうか聞いてください。

我々は畜生の身、餌食になることは仕方ありません。今500頭で暮らして

いますが、どうかご慈悲の心を持って、あんまりいっぺんに殺さないでください。

代わりに、毎日1頭ずつ献上致しますからそれ以上手を出さないでください。

それで王様は安心して肉を食べられますし、我ら鹿も残りの命は安心して

暮らせます」と懇願しました。


 王様はそれを承諾し、鹿の王は約束通り1日1頭献上して、

王様も約束を守り猟をやめました。


 そしてある日、お腹に子どものいるお母さん鹿が献上される順が

来てしまいました。鹿の王は、王様に「しばらく待ってください。今日は

私が王の食事になります。」と申し出ました。王様は「お前は、鹿の王

なのにどうしてだ?」とたずねました。鹿の王は「お腹に子どものいる

お母さん鹿が死んでしまったら、子どもまで死んでしまいます。私が

代わりになります。」と答えました。そうするとお母さん鹿も「(鹿の)

王様が犠牲になってしまったら、群れは成り立ちません。私が・・・」

とお互いかばい合いました。それを見ていた王様はその気持ちを深く

察して鹿を食べることをやめました。


 鹿の王がお釈迦様の前世であります。その後、この場所では鹿が殺されず

たくさん増えたため、「鹿野苑」と呼ばれるようになったそうです。


 鹿の王は慈悲の心の象徴であります。自己中心、自分さえ良ければいい

という心を殺して、慈悲の心を磨くための坐禅であります。

同じ心

7月15日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 自我という名前をつけるとたいへん悪いものように思われがち

ですが、裏を返してみれば、みんな自分中心の同じ心をもって

いるのであります。それはみんな平等であります。


 お釈迦様の時代、舍衞国の王様が、

「自分はいくらお釈迦様の教えを聞いても、自分ほど大事なものは

いないし、自分ほどかわいいものはないと思ってしまう。これほど

お釈迦様の教えを聴きながら、こう思ってしまうのは申し訳ない。」と

悩み、お釈迦様に正直に告白をしました。


 「自分がかわいいという思いがどうしても、とれまません。どうしたら

いいのですか?」と王様は尋ねました。


 そのときにお釈迦様が仰せになった言葉が有名です。

「人のおもいはいずこへもゆくことができる

されど いずこへおもむこうとも

人は おのれより愛しいものを見いだすことはできぬ

それと同じく 他の人々も自己はこの上もなく愛しい

されば、おのれの愛しいことを知るものは

他のものを害してはならぬ。」(『相応部経典』一二・八七)


 自分がかわいいというのは、その通りだ。みんなその通りであると

知りなさい。どんな人にとっても自分がかわいいのだ。それは、

平等なのだ。そのことがわかったならば、その人を傷つけては

いけない。


 様々、見たり聞いたり感じたりする、そういうものを全部否定

する必要はありません。それも全部仏心のはたらきであります。

自我意識も慈悲のはたらきとなりうるのです。

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<龍隠庵>

千の風になって

7月2日(月)その2


 管長様が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 一時期、「千の風になって」という歌がはやりました。

 それを聴いた人がお寺の和尚さんに「墓の中にいないのなら

どうして線香をあげるのか?」とたずねたり、また、

「千の風 聞いて買おうか 迷う墓」という川柳も詠まれました。


 亡くなった方々がどこあるのか?と理論理屈を言ってしまったら

きりがありません。また、風になって世界を飛び回っていると

言われてそれで割り切れるものでもありません。そこのところを

うまく詠っている川柳があります。


 「お帰りと 風を迎える 墓の前」


 たとえ千の風となって世界を飛び回ってきても、今日は家族が

お墓参りに来てくれるからと帰って来てくれるという心を詠って

います。また、


 「風鈴を ならすあなたは 千の風」


 チリンチリンと風鈴がなっている。ああ!あの風鈴をならして

くれているのは、あなたであろうという俳句です。


 こういう俳句等は、墓にあるのか、ないのか?という理論理屈を

越えているところであります。


 「千の風になって」という平等一枚、無字三昧、天地一枚の世界は、

当然私達が体験すべきもので、私達のおおもとでありますが、

そればかりにとらわれてしまっては、これまた窮屈であります。


 平等の体験をしたら、やはり、現実差別の世界に立ち戻り

お互い相手の言い分を聞き合い、譲り合い、分かち合い

ながら暮らしていく。平等と差別が交互に入り交じりながら

はたらいていくことが大切であります。

 

苦労の分だけ

6月3日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 (1年で一番厳しい)臘八大攝心にずっと来ていた(居士の)

上野二郎さんという方がいました。この方は、傷痍軍人で

岩手県の雫石から、毎年、臘八になると一週間、修行に

来ていました。


 当時は豊かではないから、鎌倉への旅費を作るのに、

春ウサギを買って、それを育てて秋に売っていたそうです。

一週間分のお米を持って居士林に来て、そこから僧堂に

つめていました。一週間の修行が終わると、残ったお金で

居士林の下駄や傘を直して帰られました。


 上野さんが帰っていく様子をある和尚さんが見ていると

円覚寺境内の杉の木、1本1本に丁寧に合掌低頭されて

いたそうです。その様子をその和尚さんは、「上野さんの

心境の深さ、禅の深さを見た」と表現されています。


 1年を一週間の修行、その為に尽くす。全身全霊、坐り

抜いて、「なるほど、草も木も1本1本が有り難い!」と

気づく。これは理屈ではないんです。そういう気持ちなんです。


 それには体究錬磨して自分で「ああ、なるほど!」と気づくしか

ない。自分で苦労した分だけ、骨を折った分だけ自分の心境に

なるのであります。

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<居士林・堂外>







 

わかっていないという尊さ

5月6日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「あの人は(ものが)見えている」とか「あの人は

(ものが)わかっている」とかよく言いますが、果たして

見えている・わかっているのが良くて、見えていない

わかっていないことが悪いことなのでしょうか?


 よくいかにもわかったように説明する人がいますが、

本当にわかったというのがわかっているのでしょうか?


 皆さん、もし「私は大宇宙のことをすべてわかりました。

究めました。」という人がいたらどう思いますか?

まず、その人はあやしいし、科学的に良識のある人とは

思えないでしょう。逆に「宇宙の最先端を学べば学ぶほど

わからなくなる」という人の方が頼りになるのであります。


 原因と結果の道理は複雑に入り組んでいて学べば学ぶほど

わからないということに気づかされるのであります。


 仏心の世界も同じで、我々は仏心のことをわかりようがない

のであります。仏心の世界も坐れば坐るほどわからないと

気づくのであります。けれども、確かなことは、たとえ

わからなくても、私達は仏心の中に生かされているという

ことであります。


 我々が見たり聞いたりしてわかっていることは、ほんの

極一部、小さな世界であります。おおよそ、自分にとって

都合の良いものしか見ていないのであります。そんな程度の

目で見て、耳で聞いて自分の都合の良いように解釈を

しいているにすぎません。それでどうして広い仏心といものが

わかるでしょうか?


 修行をして気づくことは「ああ、今まで私は何にも見えて

いなかった、何にもわかっていなかった」ということであります。

 達磨様から六代目の慧能禅師は、「我仏法を得せず

(私には仏法のことはわからない)」と仰せになっています。

 円覚寺の堯道老師は「瞎漢というはまことの活眼である

(見えない、わからないと気づくことが本当にすぐれた眼力

である)」とおおせになっています。


 見えていない、わかっていないという尊さであります。











 

一劇の芝居

4月15日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 人が生きることは、一つの芝居であります。

(それぞれが、それぞれの役を演じているのであります。)

何においても私達の仏心・仏性がどういう役をやろうとも

減ることはないのであります。

 
 失敗した、うまくいかなかったと落ち込んだとしても、

それはそういう一つの役柄のつもりでおれば、

それほどのことはないと見ることはできないだろうか。


 人は仏心・仏性の一劇の芝居を一生の間演じるんで

あります。主役をやったり脇役をやったり、良い役であったり

悪役であったり・・・。

(八百屋さんであったり、主婦であったり、お父さんなど

めいめいが様々な場面で演じているのであります。)


 良い役しかできない、時には悪役もできなければ

さみしいではありませんか。(主役になったり、脇役に

なったり、その場その場で自由自在に入れ替わる

ことができればおもしろい。)


 (時代劇でいうなら)斬られる方も見事にできる。

斬られる役になったからといってその人の仏心・

仏性がかげることは全くなく見事に演じきれば

逆に一段と輝かせることもできるのです。


 何事も仏心・仏性の一劇の芝居であります。

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射干(しゃが)、別名胡蝶蘭でしす。<黄梅院>

円覚寺山内のあちこちに咲いてきました。

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こちらは、浦島草。よく見ると花の先端から

ニョキニョキと釣り糸状のものが見えますね。

 これを浦島太郎が持っている釣り竿の釣り糸

に見立てたことから「浦島草」とされているとのこと。

植物も役柄は様々です!

 

 

自然の中に

3月18日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 この自然の中で生きていく働きを真の智慧と言います。

自然の中でどのようにして、自然に従って生きていくか?

自然にあがなう・逆らおうとすればするほど迷いは深まってくる

のであります。


 (存在するもの)それぞれそれぞれが自然の姿であります。

お年寄りはお年寄りなりにくたびれて具合が悪いというのも

自然の姿であります。若者も今日は頭が痛くてうまくいかない

というのも自然の姿。何にもわからないというのも自然の姿で

あります。


 ただ、そのわかったような気になるのが一番の迷いであります。

自然に逆らおうと思えば思うほど(真の智慧からは)遠くなって

しまうのであります。

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禪語の解釈

2月19日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱したことをまとめてみました。


 「随波逐浪(ずいはちくろう)」という禪語があります。これは

良い意味では、相手に応じて、相手に随って人々を救っていく

という意味であります。同じ言葉が、否定的に、波に流され、

のまれてしまって身動きができないという意味で使われます。


 また「和泥合水(わでいがっすい)」という禪語も肯定的には

人々を救っていくためにあえて泥の中に身を投じていくという

意味で使われ、否定的には徹底していない、まだ煩悩の泥に

つかっているという意味で使用されます。


 こういう訳であるから、禪語は解説・解釈ができないのであります。

その場でどういう意味に使われているかでぜんぜん違うのであります。


 ですから、禪の解説書を読んでこの禪語はこういう意味と一方的に

思いこんでしまうと随波逐浪にしても和泥合水にしても全く合わなく

なってしまいます。


 そこで禪語は解釈できないという立場から解説をつけない

「禪林句集」を作ったしだいです。


 解説をつけたら間違うんです。その場でどういう意味になるかは

その場になってみないとわからないのであります。へたに

解説があるとこの禪語はこういう意味と思いこみ、ますます

自分でものを考えることができなくなります。


 解説を読まんのがいいというのはそういうことであります。

そうして自分でどういうことかしらとわけがわからないままで

問いを持ち続けるのでいいのであります。




色褪せぬもの

2月5日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


「十洲春尽きて花凋残(ちょうざん)

   珊瑚樹林日杲杲(こうこう)」


 十洲とは昔の中国の人が考えた仙人の世界、つまり理想郷

であります。死んだ人がよみがえるお香がある、これを飲めば

長生きできる薬がある、別荘地のように景色がよく気候が

いい場所がある、珍しい獣がとれる、すばらしいダイヤモンドが

とれる・・・。


 これは単なる昔話というよりも今の時代でも我々はそうたいして

変わらないことを考えているのであります。そう思うと人間はやはり

あまり進歩していないと思わざるを得ないのであります。


 そんな仙人の世界は、春が非常に長く百年続きます。しかし

どんなに長い春であってもやがて必ず春は終わり、花も散ってしまう。

尽くそれらのことを満足したとしてもやがては必ず終わるときがくる

のであります。


 また、どんな言葉を費やしても、やがては尽きてしまうし、どんな

思索をめぐらしても必ずいきづまってしまう。文明・文化がどんなに

発達してもやがて尽きてしまいます。そんななかであっても、

海の底の珊瑚は変わることはないという言葉であります。


 海底の珊瑚とは我々めいめいの仏心・仏性であります。

我々の本心である仏性だけはどんなに時代が移り変わっても

尽きることはなく色褪せることはないのであります。人の

ぬくもり、温かさを感じていく心は変わることはないのであります。

我々はそれを求めて行かなくてはならないのであります。




 

何もかもがありがたい

1月15日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 われをなくしてみれば、何もかもが有り難くなるというのが

本当の世界であります。


 われわれは、まだまだあることが当たり前の世界でしか

ものを見ていないのであります。


 ある人が本に書いておりました。

「禪の悟りとは、失って初めて気付く尊さを

 失う前に気が付くことである。」と。


 生まれること、生きること、こうしていること、そして

最期、死を迎えること、、燃えて灰になる

こと、何を見てもどこを切りとっても有り難く思えることが

真の世界であります。






察してあげること。

11月6日(日)


 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 例えば、みなさん方が人には言えないような悩みや苦しみを

お持ちになることがあるだろうと思います。それについて、誰かが

手助けしてくれる、手を差し伸べてくれることがあったとしても

やっぱり、ギリギリの所は自分で解決するより他に無いんであります。


 そういう時、自分がどれだけ苦しんでいるか・どれだけ悩んでいるかを

わかってくれる人・察してくれる人が、もし、いたらどれだけ大きな力と

なりましょう。余計な手・余計なことをしてくれるより、自分が悩みを

抱えている状況を察してくれる人の存在がどれだけ大きいことか。


 「あなたもたいへんだなあ。」「あなたも苦労しているんだなあ。」と

言葉には出さずともわかってくれるだけでどれだけ救われることか。


 神社やお寺に行くと私達は手を合わせます。それは、神様・仏様が

全部私達のことを見てくださっているから、全部私達のことを知って

下さっているからだろうと思います。そう思うことが大きな救いの力と

なるのです。


 坐禅のねらいは大慈・大悲といいますが、それこそ自己の心の鏡を

磨いて目の前の人のわずかな苦しみや悩みを察してあげることであります。

そこにこの人を「なんとかしてあげよう」とか「どうにかしてあげよう」と自分の

考えが交じるとかえってその人を行き詰まらさせてしまいかねません。


 それより、自分の心を何でも映し出す明鏡のようにしてその人のことを

よくわかってあげることが大事であります。それが一番の慈悲なのではないかと

思います。

訳ありキュウリ

10月16日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 先日、ある人から「今日の環境問題をどうがんがえますか?」と

尋ねられました。環境問題というと自分と外の世界を分けて考えていますから

禪的には、環境と言った時点で間違いであります。


何のことでも引き起こしたものはなんであるか? 

問題はなんであるか?というと自分の心であると思わざるを

得ないのであります。自己の問題と受け止めなければ、環境を

どうしようと騒いだところで何にもなりません。人の心がこういう

環境問題を作り出しているのだとものの見方を変える必要が

あります。


 今日、我々の価値観は、少しでもキレイなもの、かたちがそろったもの、

手のかからないもの、早いもの、便利で楽なもの等、そういう方向ばかりを

追求した結果、現在のような問題が起こっているのではないでしょうか。


 自然の世界は、きたなく、ぶざまで、不釣り合いであります。昔のトイレの

ようにくさいのが自然であります。


 最近では、曲がっているキュウリを「訳ありキュウリ」と呼んでいるそうですが

私から言わせれば、まっすぐできれいで、つやつやで全く虫がつかないキュウリの

方が「訳あり」であります。ゆがんで、虫が食ったキュウリの方がよっぽど

自然のキュウリであります。


 ゆがんだキュウリを「訳ありキュウリ」というそういう価値観を改めて

いかなければならないと思うのであります。


 自分と環境が分かれているということはありはしない。

みんな一枚の自然なのです!


 あいつが悪い!あいつがけしからん!というどんな争いでも

もとをただせば、全部、人我の争いであります。我をたてて争う

のであります。我のない所にどうして争いが起こりますか?

我のないものにどうして争いが起こりますか?

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居士林右横の景福荘近くの生け垣にサザンカが咲き始めました。





 



 




 






 

この一念

8月21日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 我々は一念を起こすから、我と他人、自分のものと他人のもの

男と女、是と非などが出てくるのであります。自分が一念を起こすから

万般のものがあらわれてきます。

 我々は世界があってその中に自分があると思いがちですが

禪的な立場で言えば、我々のこの一念が起こったから、世界が

あるのであります。ですから、この一念を断ち切れば世界は

ないのであります。 世界があるのもないのも自分次第なのであります。

 
 人間みんな同じ世界に暮らしているように思いますが、見ている世界は

めいめい別物であります。だいたい人は自分の関心のあるもの、

欲望の対象となるもの、そういうものしか見えていないのであります。

関心のないものは、そこにどんなきれいな花が咲いていようが見えない

のであります。花の好きな人はここにあそこにと花が見えます。また、

泥棒は人がお金を持っていそうか、そうでないかを見ています。

花の好きな人には花好きの世界、泥棒には泥棒の世界であります。

要するに、自分の一念がこの世界を作っている!のであります。


 大切なことは、一念も起こらない無の世界にふれて

かといってそこにとどまらずに再び、有の世界・現実の世界に

戻ってきて、どうすればみんなが幸せで安らかになるか

願いを打ち立てていくことであります。
 

神様は小ちゃな蜂の中に

8月7日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 「入我我入(にゅうががにゅう)」という言葉があります。

仏様の世界に私も入って行く。仏様もまたこの私の中に入ってきて

我と仏が一つになった世界であります。


 金子みすずさんに「蜂と神様」という詩があります。

「蜂はお花の中に

 お花はお庭の中に お庭は土塀の中に

 土塀は町の中に 町は日本の中に

 日本は世界の中に 世界は神様の中に

 そうして そうして 神様は小ちゃな蜂の中に。」


 神様を仏様に置き換えてみてもかまいはしないのであります。

 大自然の中で恵みをいただいて生きていることは

 仏様の懐に抱かれて生きているのと同じであります。

 
 「神様は小ちゃな蜂の中に」一輪の小さな花の中にも

 大千世界の美が全部収まっているのであります。

 小さな虫けらの中にも大千世界の仏様の命が全部

 そこに収まっている。

  そういうことが穏やかに受け止めることができたなら

 一茶の句ではないが「何もないが 心安さよ 涼しさよ」

 であります。どうか、話をゴチャゴチャにして持ち帰らないで

 暑いときでありますが一陣の風を感じて帰ってもらいたい。


 (後記)

 ご要望をいただき、アーカイブを見やすいように変更しました。

 30項目までご覧になれますが、それ以上見たい方は、

 ページ一番下の「ホーム」の横の小さな>>印をクリック

 してください。

 今日は、8時半から提唱を拝聴し

 11時から山内寿徳庵さんのお施餓鬼に出席して参りました。

 
 
 

 




わからないままでいい。

7月17日(日)


 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 ある僧が尋ねました。「頭の長さが三尺、首の長さが二尺、相対して

何にも言わずに立っている。これはなにものか?」と。別の僧が曰く

「(そんなもの)私はわからない!私は知らない!」と。

 これでいいんです。これを知ろうとして、これは何であるかかんであるかと

注釈して、追求し迷いに迷いを重ねてどうしようもなくなって

とうとう三尺のばけものに食われてしまう。幽霊の正体はそういうもので

あります。「私は、わからない!私は、知らない!」の一言でばけものは

終わりであります。それで、すませばそれで良いのであります。

 ひっかかったらいかん!

 理屈をつけて理解して解釈をつけようとしたらきりがありません。
 
理屈をつけてどうこう考えたりせずに、

ただ私はこのままで満ち足りている、本当に有り難いとしみじみと

感じることが大切であります。

 わからなければ何でもいかんと思いがちだが、いくら

わかろうとしても三尺のばけものは、わからないように

なっている、わかりやしないのであります。

 そうであるから、ああ、このままでいいんだと受け止めることが

できたらばけものは、自然と消えてなくなるのであります。

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「う~ん、わからない!」










謙虚に慎ましく。

7月3日(日)

 
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 
 原子力の問題もそう、わからないことをさもわかった気持ちになることは、

いかにおろかなことか。いかにおろかなことになってしまう

ことか。わからない中に謙虚に暮らしていく知恵が必要だ。

 北の国からというドラマがあり「遺言」という回でお父さんが

子どもに語っている。「ここには、何もないが自然だけは多くある。

自然はお前えらを死なない程度には毎年食わせてくれる。自然から

頂戴できる。だから、謙虚に慎ましく生きよ。これが父さんの

お前たちへの最後の遺言だ。」

 
 大自然の中で我々は何を知っているのか?本当に知っているもの

など何もない。(原子力もそう。知っているつもり、理解しているつもりが、

ああいう大惨事になってしまった。)いかにわからないものであるか

ということが、(物事を追究すればするほど)やればやるほど痛感される。

 なるほど、やればやるほど大自然の中でいただくものをいただいて、

生きていくんだというものの見方の大切なことがなおのことわかる。

説明のしようがない、わからない中で、わからないままに生かされている

ことの尊さにもう一度目覚めるべき時ではないか?


(後記) 管長様は、午前中だけでも居士林提唱を行い

    本山での法要、黄梅院での法要に出席されていました。
    
    本当に、お疲れ様です。





 

 

碧巌録55則

 4月17日(日)


 老師が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。


 新聞に新井満さんの「祈り」という記事がありました。

大震災起こって間もない頃、新聞社が新井さんに被災者の

励ましになるような詩をつくってくださいと頼まれたそうです。

 それに対して新井さんは、「被災者は、今悲しみのどん底にいる。

私にはかける言葉はありません。詩は無力です。私にできることは、

彼らと手を取り合って泣くことだけです。」と静かにたしなめられた

そうです。

 それから1ヶ月たって、4月11日電話をかけると、新井さんは「今朝詩が

できました。」とおっしゃいました。

 「そろそろ、言葉の力が必要な時期がやってくるのではないかと

思っていた。一番苦しい時に人の心を癒すのは、大自然の美しさと

その感動ではないか。だからこそ、^希望^という心のパン、

詩は命を救う心のパンである。」


 「雲の上の青い空」(新井満さん作)


 苦しいとき 悲しいとき  

 あまりにつらくてくじけそうになったとき

 ぼくは ふと立ち止まり 空を見上げる

 そして 灰色の雲の上にひろがる真っ青な空を思う

 ゆうゆうとふきわたる風を思う  

 4月11日


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